先日、映画「シン・ゴジラ」を観て、わたしはあることを考えました。
主人公の官房副長官が、今から「ヤシオリ作戦」という名の
ゴジラ殲滅作戦に向かう陸自の部隊を前に、言葉を述べるシーンです。
「この中の何人かは生きて帰れないかもしれませんが・・」
正確なセリフではありませんが、つまり昔の司令官のように
出撃する隊員たちに、激励を行いました。
これは、言葉を換えれば自衛隊員たちに
「たとえ死ぬことがあっても戦ってほしい」=「死んでこい」
とあらためて念を押したということです。
わたしがこのとき感じたのは、巨大生物襲来という国難が起きるという設定の
この劇中の日本においても、ゴジラと戦って殉職するであろう隊員の
「弔われ方」というものは、おそらく今と寸分変わりないにちがいない、
という歯痒さと割り切れない思いとでもいうべきものでした。
この場合の「今」というのは、要するに、自衛隊員の殉職への慰霊が
防衛省と自衛隊が内々で行う年次行事にとどまっていて、国民には
それがいつどこでどのように行われたか全く告知されない、という状態です。
その慰霊碑も、一般国民の目の届かないところに、旧軍関係の慰霊碑と
まとめて(例 市ヶ谷防衛省敷地内)「隔離」されているという実情。
殉職隊員の慰霊には、例年自衛隊最高指揮官である総理大臣が出席しますが、
「日本列島は日本人だけのものじゃない」
とかつて言い放った某党首は、式典に外遊を当ててそれを理由に出席せず。
(こいつはその年の自衛隊の観閲式にも出席を拒否した)
左派、というより非日本人に政権を執られていたあの3年間は当然だったとしても、
その訓示において必ず自衛官の殉職に対する慰霊を盛り込む安倍首相の政権下でも、
自衛官の殉職に対する扱いは決して十分なものとは思えません。
そも、自衛官が殉職することの「意味」すら、全くあやふやなままなのです。
「自衛隊が憲法上違憲のまま」、つまり自衛隊の存在意義を曖昧にしたままでは、
彼らが何のために存在しているのかに始まって、彼らは何のために命を賭けるのか、
何のために危険を冒すのか、という問いにすら、明確な答えがでないのです。
彼らは自ら国民の負託に応えることを宣誓します。
それはすなわち「国」のために奉仕することでもある「はず」です。
しかし、その公務において、万が一尊い命が奪われたとき、
国のために犠牲になったはずの命なのに、その国から顕彰されず、
慰霊行事も日本国の名前で行われない、というのが現実です。
「シン・ゴジラ」で犠牲になった自衛官は、
果たして国を守るために殉職したとして特別に慰霊されるのか。
それともやっぱりこれまでのような国民不在の慰霊のままで済まされるのか。
ゴジラではなく、法案の改正によって自衛隊員の活動範囲が拡大したとき、
可能性として「殉職」という名の戦死が起こりうる可能性があります。
こういったことについて、新潮45の「死ぬための生き方」という特集に
海上自衛隊の福本出元海将が寄稿しておられます。
今日はこれをご紹介をさせていただこうと思います。
自衛官の「戦死」を受け入れる覚悟があるか
「湾岸戦争症候群」という言葉がある。
1991年1月、クウェートに侵攻したイラクに対し、
米国を中心とする多国籍軍が空爆を開始、のちに
「砂漠の嵐」作戦と呼ばれた戦車戦など激しい戦闘を展開した。
終結後、帰国した米兵達には、精神に異常を来すものや自殺を図る者が続出したという。
「湾岸戦争症候群」、いわゆる戦争ノイローゼである。
いずれ、日本もこうした症状に対処しなくてはならない日が来るだろう。
こう書くと、多くの人ばギョッとするかもしれない。
それほどまでに今の日本は平和で、戦争ノイローゼとはどこか遠い国の出来事だ。
自衛隊とて例外ではない。
目下、海外派遣はPKO(国連平和維持活動)がほとんど、
大規模な災害派遣の時もメンタルダウンする隊員がいないわけではなかったが
少数派で、世間の耳目を集めるほどではなかった。
しかし今後はどうだろうか。
平和安全法制が成立した今、前線か後方かはともかく、
自衛隊が「戦う舞台」として海外に派遣される可能性は飛躍的に高まった。
PKOや災害派遣とは異なる過酷な現場に向かうことになるかもしれない。
この時求められるのは、何より「死」を受け入れる覚悟ではないかと私は思っている。
かつての自衛隊は、存在するだけで意味があった。
しかし東西冷戦終結後は実際に運用できる組織や編成が求められ、
現在では「真に戦える自衛隊」としての訓練をおこない、
多国籍軍とともに任務に就いている部隊もある。
だが、強靭な刃を持つだけでは、本当の意味で強い武人にはなり得ない。
実力を培うことは言うまでもないが、同時に、
生と死について真剣に考える必要があるだろう。
海外派遣のたびに多くの隊員が「湾岸戦争症候群」のような症状に悩まされていては、
「真に戦える自衛隊」などとは言えないからだ。
人は「死」に向き合うと強くなる。
東日本大震災の災害派遣で、私は部下の姿にそれを痛感した。
当時、私は海上自衛隊の掃海隊群司令だった。
掃海隊群は三陸の沿岸部で行方不明者の捜索にあたっていた。
多くのご遺体を発見・収容した軍司令部の水中処分班に、ある一人の海士長がいた。
仮にA士長と呼ぶ。ついこの間まで高校生だった若者である。
彼は出勤する一ヶ月ほど前に、江田島にある第一術科学校の水中処分過程を修業していた。
彼が着任した水中処分班とは、海に潜って機雷の識別や処分を行う
特殊技能を持った隊員たちで構成されている。
A士長は、先輩たちと共に三陸の海に潜った。
しかし一週間後、潜水指揮官から船上作業員に指定された。
潜ることを禁止されたのだ。
彼はボートの上で、先輩たちに指示されながら、
発見されたご遺体をボディバッグに収容していた。
それまで彼が死んだ人に接した経験は、幼い頃に葬式で見た祖父の姿だけだった。
それも眠っているかのような、穏やかな姿だったそうだ。
だが水死体で発見されるご遺体は、それとは全く違っていた。
A士長が捜索現場で初めてご遺体を発見したとき───。
人間ではなく、布団が海に浮かんでいるのだと思ったという。
着衣も毛髪もなかった。
肌色は失われ、まるで漂白したかのように真っ白である。
体内に発生したガスで、異常に膨張していた。
眼窩はえぐられ、よく見ればところどころ白骨化している。
ボートに引き上げた途端に崩れ、腐敗した肉片や内臓が飛び散った。
A士長は思わず嘔吐してしまった。
異臭が鼻にこびりつき、船に戻ってシャワーを浴びても取れた気がしない。
ベッドに入って目を閉じても、昼間の水死体が瞼に浮かんだ。
眠れない日々。
夜が明ければ、再び捜索現場に出る。
沖合から沿岸部に近づいていくには、漂流するパドル(櫂)で
かきわけていかなければならない。
倒壊した家屋や漁船、筏などが水面を漂う中、先輩たちは
湾の奥へと処分艇(ゴムボート)を進めていく。
全く怯む様子はなかった。
A士長は、行かなければならないことは頭ではわかっていても、
怖くて足がすくむばかりだった。
水中の視界はほぼゼロ。
汚濁した海中に潜っても、バディと呼ばれる相方の先輩はおろか、
自分の手先すら見えない。
そんな中での捜索は、まさに手探りだった。
何かが指先にあたるたび、どきりとして呼吸が荒くなる。
ボートに揚がると、ボンベの残空気が先輩よりずっと少なかった。
潜水指揮官は、これ以上A士長が潜ることに危険を感じたのだ。
強さと優しさと
そのA士長が変わったのは、ある夜、
先輩のマスターダイバーから話を聞いたときだった。
「俺たちは、これまでも不時着水した機体の捜索、『なだしお』事故や
奥尻島の津波被災者の捜索に行くたびに、何人ものご遺体に接してきた。
俺も最初は怖いと思ったよ。
目の前に突然ご遺体が現れたときは、その瞬間、
海中でパニックになりそうになったこともある。
でも、ある日、気が付いたんだ。
どんなに変わり果てようが、この仏さんは誰かの親父やおふくろ、息子や娘なのだと。
家族が探したくても、それは俺らにしかできないんだと。
それ以来、おれはご遺体を見つけたら、
触れる前にまず手をあわせることにしている。
そして
『お待たせしました。寒かったでしょう。怖かったでしょう。もうすぐ帰れますよ』
と、心の中で唱えるようになった・・・・・」
A士長は、先輩の言葉で、ご遺体を怖いと思った自分が情けなくなった。
そして冷たくなった祖父に涙した自分を思い出した。
夜が明けたら、一刻も早く現場に向かおう。
先輩たちも、A士長の顔つきが変わったことに気付いていた。
彼は再び水中に潜り、捜索の任務に当たったのである。
津波によって破壊し尽くされた捜索現場は、大けがや感染症の罹患など
多くのリスクが伴う。
しかし隊員たちは疲れも見せず、危険をものともせず、
黙々と現場に立ち向かった。
一方で、船に戻り、機材の整備をしながら涙を浮かべていた隊員の姿も私は知っている。
それは何より、犠牲者とその家族を思っていたからにほかならない。
同時に「死」と真正面から向き合っていたからにほかならない。
A士長もまた、死者と向き合う先輩の姿を知り、残された家族に思いを馳せ、
恐怖を克服した。そして真の勇気を持ったのである。
私が海上自衛隊幹部学校長の職にあるとき、
菅野覚明先生(東京大学教授・当時)の講義を拝聴する機会があった。
菅野先生には長年、幹部学校で武士道についての講義をお願いしている。
先生は
「武士道の真髄は強さと優しさが表裏一体になっている姿である」
と説かれた。
守るべきものがある者は強い。
たとえば自分の家族や恋人、あるいは彼らが住む故郷、
これを守りたいと言う気持ちは、損得勘定抜きの愛情である。
我が身を顧みず困難に立ち向かおうとする勇気は、他者への優しさがあるからこそだ。
掃海隊群の中でも、当初、行方不明者の捜索に怯む隊員はいた。
A士長ばかりではなかった。
しかし被災地の人々から「ありがとう」という言葉を聞くたび、
彼らは強くなっていった。
この人たちのためにがんばろうと奮起したのだ。
私は未曾有の災害に立ち向かった隊員たちに、
真の強さを秘めた「武士道精神」を見たように思っている。
自衛官の勇気は、まさに国民の負託によって支えられているのだ。
今後、「真に戦える自衛隊」として、
日本も国際社会のなかで役割を果たしていかなければならない。
またそれを求められるようになっていくだろう。
自衛隊OBとして、後輩についてはあまり心配していないが、
一方で政府は、国民はどうだろうか。
これまでも自衛隊には職務中の事故で亡くなる者がいたが、
彼らは「殉職」であり「戦死」ではない。
しかし今後、自衛官の戦死者が出ることを想定しておく必要がある。
これを私達は真剣に考えなくてはならない。
自衛隊を戦場に送り出す政府は、国民は、
果たして「戦死」を受け入れる覚悟が本当にできているだろうか。
もし戦死者が出たことで時の政府がひっくり返るようなことにでもなれば、
自衛隊は戦うことなどできないのだ。
最悪の事態を想定することを、「言霊」を理由に忌み嫌い、その結果、
原子力災害を拡大させてしまったような愚を繰り返してはならない。
40年ほど前、「人の命は地球より重い」と言った首相がいた。
命の尊さという意味では、これは正しいのかもしれない。
しかしそれは、「事に臨んでは危険を顧みず」と服務の宣誓をした
自衛官の任務遂行を否定するものではないはずだ。
世界のどの国も、国家のためにその尊い命を捧げた者は永遠に顕彰され、
そのための施設が整っている。そこには他国の元首も訪れる。
翻って日本はどうか。
国民は死ぬことを従容として受け入れた自衛官を忘れずにいるだろうか。
また彼らを弔うに相応しい場所があるだろうか。
防衛省(市ヶ谷)には殉職者慰霊碑が建立されているが、
一般の人が気軽に訪れるような場所にはない。
国家元首が訪れる場所として想定されているわけでもない。
さりとて靖国神社は政争の具になってしまって久しい。
自衛官が戦死する。
そのときどう弔うのか。
「死」を意識しない国家の基盤は脆弱であると言わざるを得ない。
著者 福本出 ふくもといずる
(株)石川製作所東京研究所長
元海上自衛隊幹部学校長(海将)
79年防衛大学校卒(23期)
在トルコ防衛駐在官、呉地方総監部幕僚長を経て、
2010年12月に掃海隊群司令。
14年8月退官。