シリコンバレーに滞在中、TOの知人が当地に来ることになり、
サンフランシスコは初めてだという彼を案内していわゆる
お上りさんコースをドライブしたときの話です。
やはり最初はゴールデンゲートブリッジであろう、と
いつも車を停めるクリッシーフィールドの海岸沿いから、
ブリッジを渡った観光用の展望台に行ってみました。
週末なので予想はしていましたが、パーキングに車が溢れていたので
無駄な待ち時間を費やすことをすっぱりやめて、
わたしはそのままブリッジを渡り、対岸からブリッジを眺めるという
「地元民コース」を選択しました。
「ライムポイント」とあるのが橋のたもとです。
ブリッジを渡ったところ全体を「ゴールデンゲート保養所」というのですが、
そのサンフランシスコの対岸に当たるところには見た目通り馬てい形をした
「ホースシュー・ベイ」というのがあり、そこには観光客はまず来ません。
ここはフォートベイカーという地名で、本日お話するつもりの
サンフランシスコ防衛のための要地でもあった一角。
現在はヨットハーバーとベイエリアの歴史博物館、そして
沿岸警備隊の基地が置かれています。
当てずっぽうで車を走らせ、数台しか車が停まっていない空き地に
車を停め降り立ったとき、わたしたちは思わず感嘆の声をあげました。
「すごい」
「こんな風にブリッジが見えるところに初めて来た」
「おまけにここまったく観光客がいない・・・」
ブリッジの写真は数多くありますが、こちらから見た角度の方が美しい。
わたしたちは冷たい風の吹きすさぶ岸壁から行き交う船を見ていました。
ふと後ろを見ると、全く整備されていない小高い丘があり、
そこが展望台のようになっているのに気づいて登って行きますと・・・・、
全く整地されていない(つまり柵とか舗装した道がない)
踏み分け道のような階段でずっと上に登っていくことができました。
わたしたちの停めた車が下に見えています。
ここからはさらにヨットハーバーも一望できます。
さらに左に首をめぐらせば、アルカトラズ島が。
向こうにベイブリッジが見えているアルカトラズなんて初めてです。
普通には見られない建物の後ろ側と巨大な給水塔が認められます。
ブリッジの下に、ここに来なければ絶対に見ることのできない建築物発見。
フォート時代の監視所かもしれません。
廃屋になっているのかと思ったら、敷地になんとソーラーパネルが見えます。
岸壁に衝突しないように夜間照らすライトの電源をソーラーで取っているようです。
ブリッジの下は日本なら「銀座」と呼ばれるであろうくらい交通の激しいところです。
船好きであればここで1日でも行き交う船を見て過ごせるでしょう。(寒くなければ)
このとき、わたしのセンサーにひっかかった一隻のボート、いやカッター。
なんと沿岸警備隊の巡視船ではないですか。
この直前、ニューロンドンでコーストガードアカデミーの見学を
したばかりなので、このご縁に少し驚いてしまいました。
ここホースシューベイにコーストガードの基地があることは
後で地図を見て知ったことですが、このときにも
コーストガード専用のポンツーンがあるのをわたしは
目ざとく見つけて注目していたのです。
実はこの前、写真に写っている崖沿いの道路に車を止めていたとき、
コーストガードの隊員がみんなでだーっと走ってきて、
いかにも緊急事態!な騒然とした空気のままカッターに乗り込み、
わずか1分以内に出動してしていく様子を目の当たりにしたのです。
そのときわたしは自分のカメラを息子に貸していたため、
iPadで撮ったのがこれ。
ブリッジの上から人が飛び込んだときの捜索などに対応するためにも
ここにコーストガードの基地があり、非常時に出動しているのです。
しかしこのときになんのために出動したのかはわからずじまいでした。
こちらの写真は、その後帰ってきたカッターから隊員が降りているところです。
大事に至らなかったようですね。
日本ならこんなところにはあっという間に柵ができてしまうところです。
ここに登ってくるのも勝手なら、落ちるのも自己責任。
こういう部分に関してはこれが世界のスタンダードであり、
日本というのは本当に甘やかされた優しい社会だと思います。
この花を供えられている人は、ここから飛び込んだのか、滑落したのか。
あるいはここから望むブリッジから飛び降りたのでしょうか。
ちなみに「世界で2番目に自殺者の多い建造物」(1位は南京)
であるGGブリッジでは2014年現在でわかっているだけで1,653名が
ここから飛び降りて自ら命を絶っています。
さてところで、ここから帰ってきた日、わたしはこの場所を
確かめるためにグーグルアースを見て気づきました。
これ・・・・砲台跡ですよね?
なんと、写真を撮っていたところをさらに登っていくと
そこにはこんなフォートレスの遺跡があったのです。
そう、先ほども言いましたが、ここはサンフランシスコ沿岸防衛のために
かつては全てが軍用地であった一帯です。
有名なブリッジ下のフォートレス(またお話しします)のように、
ここにもフォート・ベイカーという基地がありました。
現在博物館になっている建物の多くは当時の兵舎だったりします。
このあと、ブリッジに乗ってサンフランシスコに帰ろうとしたのですが、
ブリッジの入り口わきの道に、せっかくの機会なので入ってみました。
完全に観光道路となった山の上の2車線道路は、深い霧の中
どんどんと高度を上げていき、ついにはブリッジが下に見えてきました。
車を停めて降り、写真を撮ったところからは、一車線一方通行の
細い急な坂道がどこかにつながっており、車が降りていきます。
ここにあった案内板を見てびっくり。
この辺りは、要塞だったころの砲台の遺跡がいまでもごろごろあるのです。
この地図の丸いのが二つの砲台跡。
火薬庫や弾薬庫、コンプレッサーなどが示されています。
砲が2門据えてあった砲台。
「バッテリー」という名の砲台は「バッテリー・メンデル」、
『バッテリー・ウォラース」「バッテリー・スペンサー」、
「バッテリー・タウンズリー」、「バッテリー・カービー」などと
名前が付いていて、この一帯をまるでハリネズミのように防御します。
現地の看板には当時の写真もありました。
「最後の要塞砲台跡」と説明があったので、それを訳しておきます。
史上最も巨大で最も強力であったアメリカ陸軍の16インチ砲。
2,100パウンドの砲弾を26マイル外洋まで撃つことができました。
1942年に着工が始まり、1943年には完成したこれらの砲台。
第2次世界大戦は、この湾岸を日本軍の攻撃から防衛するために
この一帯を軍用地に変えました。
第2次世界大戦勃発までサンフランシスコ湾は西海岸でも
最も需要な防衛拠点と認識されてはいましたが、真珠湾攻撃における
日本軍の航空攻撃が、それまでの防衛の概念を永遠に変えたのです。
あとにご紹介するビデオの中でも言っていますが、真珠湾のあと、
日本軍が次にどこを狙ってくるかということは彼らに想像もつかず、
可能性としてはサンフランシスコが最も濃いとされていたことがわかります。
未だに残る「リング」。
これは砲台にある砲身を操作するためのワイヤが繋がれていました。
砲台に続くトンネルの入り口。
これらの現地にある写真を見てふと気付いたのですが、
最新の「ターミネーター」って、この辺でてきたよね?
この説明のあった部分は「バッテリーナンバー129」という場所でした。
フォートそのものは米西戦争の30年も前の1861年には完成していました。
1943年、マリーン・ヘッドランドに運搬される砲身。
129番の砲台が活動をやめたあとは、砲身などはトンネルの中に置かれ、
1948年に裁断してスクラップになるまで放置されていたそうです。
なぜここに砲台が集中しているかというと、サンフランシスコに攻めてこようと思ったら、
この狭い海峡とブリッジの下をくぐらないといけないからです。
これは、別のところ(朝鮮戦争のメモリアルゾーン)で見つけた写真ですが、
朝鮮戦争のとき、(1953年)、 「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」
(輸送艦)がブリッジの下を航行していくところです。
搭載しているのは戦争捕虜で、これから朝鮮に送還するところだったとか。
World of Warships - San-Francisco Artillery Corps
英語ですが、当時の映像とCGによって分かりやすく
サンフランシスコの防衛について説明してくれています。
これによると、砲台勤務の兵は砲台のコンクリートに付けられた
簡易ベッドで寝ていたようですね。
タバコも吸えず大変過酷な任務だったようです。
10年以上前から数え切れないくらいなんども来ていながら、
こんな軍事遺産があったことをわたしは今まで知りませんでした。
怪我をしたアシカなどを保護して治療し、また海に返してやる
海洋哺乳類センター
もあって、見学できるそうですし、来年はカメラを持って
1日ここで過ごしてみることにしましょう。