コネチカット州ニューロンドンのテムズ川沿い潜水艦基地。
そこに併設されたサブマリンミュージアムの前庭に、
その姿を見つけた時、わたしとTOは思わず息を飲みました。
「これは・・・」「もしかして・・・」
日本では江田島の海上自衛隊術科学校校庭に、
甲標的「甲」型があるのは何度も訪れて知っていますが、
まさかアメリカでこの特殊潜航艇を見ることになろうとは。
現在、江田島の海上自衛隊第一術科学校の敷地内にある甲標的は、
真珠湾攻撃に参加した5隻のうちの一つです。
みなさまもご存知のように、真珠湾で鹵獲された潜航艇の1隻目は
「捕虜第1号」となった酒巻少尉艇です。
2隻目はその直後見つかりましたが、そのとき捕虜であった酒巻少尉は
収容所で読んだ新聞のニュースでそれを知り、潜航艇の写真も見たということです。
酒巻氏によると、それは司令塔に二発の砲弾の貫通孔のある艇でした。
そして3隻目が江田島にある潜航艇で、戦史叢書によると、
昭和35年7月15日、真珠湾口外1.6マイル、水深約40mの海底から米軍が発見し
引き揚げられ、翌36年7月、我が国に返還されました。
この潜航艇には自爆の跡はなかったということです。
これが見つかった当時の江田島の潜航艇の姿。
この様子では、おそらく中に乗員のご遺体も残されていたことでしょう。
甲標的甲型は魚雷の発射管を2門、このように前部に備えていました。
搭載していた魚雷は九七式酸素魚雷で、空気を注入することによって発射しました。
ところで、ここにある潜航艇はどういう由来のものなのでしょうか。
現地にあった簡単な説明はこのようなものです。
第二次世界大戦中、日本軍の「タイプ A」(甲のこと)、
二人乗りの小型潜水艇は、母潜水艦に背負われ(piggy back)、
作戦海域まで運ばれて運用された。
タイプ A小型潜水艇は、真珠湾攻撃に始まり戦争中を通じて
投入されたが、概ねその攻撃は失敗に終わった。
これでは、その由来も鹵獲の場所も状況もわかりません。
しかしサブマリンミュージアムのHPには詳細が記されていました。
日本軍は1930年始めに小型潜水艇の開発を始めた。
タイプ "A"はおそらく、第二次世界大戦中に海軍が開発した
もっとも最先端の小型潜水艦であった。
これらは特別仕様の船舶または潜水艦によって
行動海域に運ばれるように設計されていた。
5隻の同タイプの"A"潜水艦が真珠湾攻撃に参加したが、
すべて失われている。
1943年5月7日、潜水艦救難艦USS オルトラン(ASR-5)は、
ガダルカナルの北海岸沖で日本の特殊潜航艇を発見した。
潜航艇はククム湾に引き揚げられ、その後ガダルカナルまで曳航された。
1943年6月、潜航艇はニュー・カレドニアのヌーメアに到着。
便宜的にHA-8と識別された。
この潜水艇はHA-8 だけでなくHA-10、HA-30と3つの識別番号がつけられている。
その後、この小型戦史艇はグロトンの潜水艦基地に運ばれ、
1943-1944年の間、国債を売るためのプロモーションに使われていたが、
それ以来ずっとここグロトンに残されたままになっていた。
現在、タイプAの潜航艇は4隻が現存し、世界で展示されているが、
ここにあるものはそのうちの一つである。
鹵獲した特殊潜航艇に彼らはHAという名前をつけて識別していたようですが、
酒巻少尉が載っていた筒(日本側は潜航艇をこう呼ぶこともあった)は
とされていました。
どうして最初に鹵獲した甲標的が19なのかいまいちわかりませんが、
ここにある甲標的に三つも識別番号がついていることを考えると、
これも単に便宜上以外の何ものでもなかったのでしょう。
リンク先の英語のwikiによると、鹵獲後酒巻艇は”国債を買いましょうツァー”で
全国を見世物になって巡業し、その後はフロリダで展示されていました。
アメリカ政府はこれを国家歴史登録材に登録していましたが、
キーウェストの博物館がこれを売却に出し、1991年にテキサス州の
太平洋戦争国立博物館に引き取られることになりました。
同じ年、酒巻和男氏はテキサスで行われた歴史会議に参加し、
その際自分がかつて乗った特殊潜航艇と再会しました。
酒巻氏がそのときどんなことを考えたのかはもちろん、それを見て
どのようなことを言ったのか、その時の様子はどうだったのかについて、
詳しくはありませんが、こんな新聞記事が現在残されています。
WWII’s first Japanese prisoner
shunned the spotlight
(終生表舞台に出ることがなかった二次大戦の捕虜第一号)
ところでついでだから書いておきたいのですが、日本版のwikiの
酒巻和男のページ、捕虜になってすぐ撮られた酒巻少尉の写真に
「 両頬にはアメリカ軍兵士により煙草の火を押し付けられ拷問された痕が見られる」
と書いているのは実にまずいというか正しい情報ではないと思います。
前掲の新聞記事にも同じ写真が掲載されていますが、そのキャプションには
「酒巻は写真を撮るポーズをする前に、自分でタバコを押し付けて頰を焼いた」
と書いてあります。
どちらが正しいかは、酒巻氏本人が
「日本に何らかの形で写真が伝わり、新聞などに載った場合、
それが自分であることを少しでもわからなくするため」
自分でタバコを押し付けて焼いた、と言っているので明らかなのですが。
日本側のこの捏造記事は一体何を目的にしているのでしょう?
まあ、あのインチキ嘘八百番組の「真珠湾からの帰還」でも、
酒巻氏が戦後自分のことをほとんど語らなかったのをいいことに、
拷問されて戦犯裁判で糾弾されて、と全てを捏造しまくりだったわけで(怒)
日本人捕虜がアメリカで虐待されていたということにしないと
都合が悪い団体がマスコミ界隈にはどうやらあるようですな。
例えばテレビだとNHKとかNHKとかNHKとか。
さて、ついつい腹立ち紛れに脱線してしまいましたが、この新聞記事です。
ここにわたしは初めて、晩年の酒巻氏の写真を見ることができました。
堂々たる体格はブラジルトヨタの社長だった頃のままに、
豊かな白髪に老いてなお知的な光を宿すまなざしは、
酒巻氏が戦後おそらくひと時も忘れることができなかったであろう
あの特殊潜航艇と再会したこの瞬間、悲痛に曇っているのが見てとれます。
なぜか日本の媒体ではまったく言及がない酒巻氏と甲標的の再会ですが、
この時の酒巻氏の心中は、その言動を何も伝えるものがなくとも、
この記事の最後の一文で全てが言い表されていると思われました。
「He wept.」 (彼はすすり泣いた)
コントラ・ロータリングと英語で説明されていた甲標的のスクリュー。
撮っている時には気づきませんでしたが、シャフトにスズメが停まっています。
これは二重反転スクリューのことで、2組のスクリューを同軸に配置し、
各組を相互に逆方向に回転させる仕組みです。
2組のプロペラで飛行機にももちろん使われますが、これは、
機体や船体にかかるカウンタートルクを相殺するという働きがあります。
コントラペラは特に魚雷によく使われます。
魚雷は、魚雷発射管から撃ち出すという制約上、
本体直径より大きすぎる安定板を採用できません。
小さな面積の安定板でスクリューの反動に持ちこたえることは難しく、
スクリューの反動で本体が回転してしまい推進効率が落ちてしまうのです。
このため二重の反転するスクリューを採用して反動を消すのです。
甲標的は魚雷ほどプロペラの大きさに制限はないとはいえ、
まるで葉巻のように艦体が細く、プロペラを大きくすると
反動も大きくなるので、この機構が採用されたのでしょう。
プロペラを回転させる動力は、前部に配置された600馬力の電動機から
ギアを介して送られました。
なお、プロペラを囲むようにしてつけられた丸いガードは、
港湾に張り巡らされた防潜網からスクリューを守るものです。
アメリカには「歴史的海軍艦船協会」という団体があって、国内に残る
歴史艦の情報管理を行なっていますが、そのHPには、この甲標的
(ここでは HA-30と呼ばれている)の戦歴はこのように残されていました。
日本側の資料これらのものが見られないのは何とも情けないことです。
1942年11月7日
0600
日本の潜水艦I-16(伊16)はガダルカナルの甲標的発射地点に到着
1942年11月11日
0200
ヤマキテイジ中尉とハシモトリョウイチ兵曹が甲標的に搭乗
0349
伊16 は、海面にPT-ボートを発見、潜航する
0421
甲標的、ケープエスペランスから10.8マイルの海域で射出
射出時に舵がダメージを受け、3分後に操縦不能となる
ヤマキ中尉は浮上し、任務を打ち切ることを決定
カミンボ湾への途中で2隻の敵船を発見し、魚雷を二本とも発射した
1900
マロボボ海岸に到着、両名ともに生還
(出典:サブマリンミュージアムHP)
1944年5月1日
ガダルカナルの北部海岸のAruligo Pointの近くに陸揚げされた
海底20フィートの海底から8人の海軍工兵隊シービーズによって引き上げられた
この写真の後ろに見えているのは輸送船山月丸。
山月丸についてはガダルカナルの戦績について研究されている方のブログに詳しいです。
山月丸
それにしても・・・・。
わたしがこの実物を見て絶句したのは、経年劣化したものをさらに再現したとはいえ、
それだけではない、その艦体の作りのあまりに粗悪なことでした。
司令塔の壁面がいびつなのは遺棄された後海岸に打ち上げられ、
それを引き上げたり曳航したりという経過を経たもので仕方がないとはいえ、
鋲も、溶接部分も手作り感満載の拙速建造に見えます。
甲標的はソナーなど搭載されておらず、索敵は潜望鏡を覗くために
浮上せねばなりませんでしたが、構造上縦横に動いて常に安定せず、
その状態で潜望鏡から索敵を行うのは至難の技。
たとえうまく発見しても敵艦の進行方向、速度などの諸元の割り出し、
魚雷発射の方位、タイミングの算定は艇長が暗算で行うのです。
いかに兵学校出で理数系に強くても、酸素不十分な艦内では
とても正答率が良くなるとは思えない絶望的な状況ではないですか。
成功率の低さを精神論のバイアスで補っていた非科学的な戦法と言いましょうか。
それは自死を伴う特攻を軍が命令として下す、
という外道の戦法を選んだ史上唯一の民族である日本人の、
ある意味非合理に振り切れたダークサイドの象徴であるようにも見え、
わたしはコネチカットの空の下、無性に情けないような、あるいは腹立たしいような
悲しみの気持ちに苛まれながら、その前に立ち尽くしていました。