もう少しご報告が先になるかと思いますが、今週末、またしても呉におりました。
メインの用事の合間に、前にもここでご紹介した「艦船クルーズ」に、
しかも念願の夕暮れクルーズに乗ることができたのですが、呉軍港にはつい先日
その甲板上でのレセプションが行われた「ぶんご」が停泊していました。
掃海母艦「ぶんご」は呉が定係港なので当たり前なのですが、
高松での記憶がまだ新しいので、海の上から見る「ぶんご」の甲板に一週間前
自分がいたことが何か不思議な気持ちになったものです。
さて、その高松でのことをお話ししていきます。
レセプションから一夜が明けました。
「ぶんご」と掃海艇たちを見ながらお風呂に入れる部屋で目覚めます。
まだフェリーポートには人気がなく、静かな港の海面が朝日を照り返しています。
ここから見る「ぶんご」たちがもっとも美しく見える時間。
艦首には日の出とともに掲揚される艦首旗がもうはためいています。
ふもとから自衛隊の出してくれたバスに乗り金刀比羅宮に到着。
バスの到着地から会場までは、階段を少し降りていきます。
会場前には白い詰襟の自衛官が立っていて、ご挨拶をいただきました。
ちょうどこの向かいにあるお土産屋では、ちょっと休憩もさせてもらえるので、
それを知っている「常連」さんたちが、何人か開式までの時間を過ごしていました。
制服の自衛官がいて、さらにたくさん人が入って行くので、
参拝客は何事だろうと首を巡らせて眺めていきます。
右側の割烹着のような白衣を着た方は、金刀比羅神宮専属のカメラマンで、
昨日の神式の慰霊祭の写真も撮っておられました。
そこに儀仗隊が到着。
会場入りするのもちゃんと一列に並んで行進してきます。
慰霊碑の広場に続く道には「はやせ」の主錨が展示してあります。
掃海母艦「はやせ」については、この前の晩、うどんをご馳走になった偉い方から
最初の国産掃海母艦として「そうや」と同年度に建造された、と伺いました。
「そうやというと南極に行った船ですか、と聞かれるんですが、
実は自衛隊の『そうや』は機雷敷設艦だったんですよ」
やはり国産初の機雷敷設艦「そうや」は、掃海母艦の機能も持っていたそうです。
さて会場入りしようと思ったらなぜか長蛇の列が。
今まで追悼式の後には、金刀比羅宮内の建物で会食を行なっていたのですが、
そこが老朽化したため、今年は昼食会場をふもとの料理旅館に移すことになって、
昼食代を会場入りの際に徴収していたからでした。
わたしの真横は、儀仗隊の待機場所になっていました。
追悼式という儀礼でもっとも要となる儀仗隊は、何度も正面に出て、
捧げ銃やあるいは弔銃発射を行うたびにここに帰ってくるのですが、
隊長は全員を鋭い目でチェックし、少しでも服装に不備があると、
近づいて注意したり、乱れを直してやったりしていました。
一人の儀仗兵(って言ってもいいよね)はゲートルのベルトを
土踏まずのところに引っ掛けていなかったため、ベルトが穴から外れてしまい、
注意されてそれを直していたのですが、彼がそれをしている間、
代わりに銃を持ってやるのも隊長の役目でした。
わたしは前日の立て付けの時に追悼式の流れを写真に撮っておき、
本番はカメラを手にしないと決めていたのですが、それ以前に、今回は
写真など撮りたくとも全く物理的に無理であることがすぐにわかりました。
この写真を見ていただければお分かりだと思いますが、今年の配置は
全天候型で、会場全体にテントで屋根を作り、さらに今までの対面式から
全員が前を向いて座ることになったため、前の人の頭とテントの隙間から、
わずかに向こうが見えるだけで、霊名簿の奉安や後納はもちろん、慰霊碑も、
儀仗隊も、国旗掲揚も、献花をする人の姿も全く見えなかったのです。
あとでミカさん(仮名)と、ご遺族の方々と献花台との距離を近くするための
仕様変更だったのだろうか、などと話し合ったとき、彼女は
「変な野次馬がはいって来にくいのでこれもよかったんじゃないですか」
と肯定的でしたが、わたしが最もこのレイアウトで問題であると思ったのは、
● 掃海隊幹部の席が参列者の後方で、人々の目に触れなかったこと
● ご遺族の方々の後ろ姿しか見えなかったこと
の二点でした。
掃海隊員たちにとって後ろの方に追いやられているような位置は不満でしょうし、
参列者とっても彼らの姿が目に入るかどうかでは儀式の印象が全く違います。
そしてご遺族が膝に抱えていた遺影や、ご遺族のご様子すら、人びとの
目に止まらないまま式が終わってしまうというのもあまりに残念な気がしました。
そして、苦々しく思ったのは、列席者のほとんどが白いテントと人の背中と
テントにひっきりなしに飛び込むハチを眺めながらアナウンスを聞くだけなのに対し、
興味本位で入り口まで入ってきた非招待者が、そこから遠慮会釈なく、なんとiPadで
式の様子を撮りまくっている姿だけは、なぜかほとんどの席から見えていたことです。
つまみ出してやればいいのに!などという雑念が浮かんで慰霊に集中できないのも
視界が極端に遮られていたせいかもしれない、などとわたしは考えました。
というわけで、追悼式は終了。
今回の行事について特筆するべきことがもう一つあるとすれば、今回あの
民進党の玉木雄一郎議員が
艦上レセプションにも、追悼式にも招待されていたことです。
少し前までれんほーに「男が泣くな」と言われたくらいしか
話題に上がらなかった玉木議員ですが、今や例の加計学園問題で(悪い意味で)
有名になってしまいました。
特区については、民主党政権で格上げをしたのに取り組みを進めず、
現政権になってスピーディに推進を図ったので、物事が進み出した、
というのが実際のところだとわたしは思うのですが、野党にすればそれは
「それは加計学院理事長が安倍総理の”お友達”だったからだ」
この野党連中がわざわざ使う「お友達」という言葉が
虫酸が走るほど気持ちが悪く、吐き気がしてくる今日この頃です。
玉木議員は、既得権益側の親族から献金をもらって、獣医学部の創設を妨害し、
さらにそれを政争に使っている、とも世間ではいわれているようですが、
そんな中、艦上レセプションなどにのこのこ出てきて、ただでさえ保守系で
アンチ民進の多い自衛隊支持の人々に取り囲まれる勇気を果たして持っているか?
もし現れたらさぞ面白いことになるだろうとワクワクしていたのですが、
さすがに白真勲議員ほど面の皮は厚くないようで(笑)レセプションは欠席。
追悼式には出席していましたが、平凡で通り一遍、心のない弔意の言葉を、
メモなしで述べてさっさと引き上げました。
悪意でいうのではないですが、どうせ、この追悼式出席も、
国会で政府追及の枕に使うネタとしか考えてないに違いありません。
儀仗隊の皆さんは、最初から最後までこの姿勢で待機していました。
顔が痒くても虫が寄ってきても掻いたりできないのはもちろん、
(ここは今の季節虫が多く、顔の周りを飛び回る)
首を動かすこともできず、本当に大変だと思います。
海士の帽子は鍔がないので眩しいでしょうし・・・本当にお疲れ様でした。
会場入り口には本日寄せられた電報が掲示してありました。
自民党の国防部部長である寺田稔先生はじめ、国会議員のものです。
昼食会場までのバスに乗るまでのわずかの時間に門前の屋台に寄りました。
ここにきたら一度はこの冷たい生姜入りの甘酒を飲みたいので・・。
昼食会場になったホテルは、地元の温泉旅館といった感じです。
この昼食会に先んじて、会場ではご遺族の方の紹介が行われました。
すなわち殉職隊員との関係と、隊員がいつ殉職されたかという説明です。
慰霊式に出席されたのは殉職隊員の甥、弟夫妻、長女夫妻、兄など、
7家族、12名という数のご遺族で、出席者は年々減少しているそうです。
この出席者のうちお一人が、朝鮮戦争時の昭和25年10月17日、
元山沖で触雷したMS14号内で殉職された中谷坂太郎海上保安官の兄上でした。
朝鮮戦争における掃海活動については、日本側に依頼してきたバーク少将自らの
「日本掃海隊は優秀でわたしは深く信頼している。
北朝鮮軍が敷設しているソ連製機雷の危険について、
国連軍が困難に遭遇した今日、日本掃海隊の力を借りるしかない」
という言葉を聞いた海兵74既卒のMS14号艇長の言葉が残されています。
この掃海艇の触雷について少しお話ししておきましょう。
元山沖で緊張と疲労の一週間の掃海活動を続けていた時、鋭い音がして、
MS14号艇は喫水の深い後部に触雷し、木っ端微塵になりました。
艇長が真っ先に思ったのは、
「前方を進んでいた艇が無事なのに、なぜ後方にいた俺の艇だけがやられたんだ」
ということだったそうです。
海に投げ出された乗員を救助したのは米軍の小型艇でした。
点呼を取ると一名を除き全員が揃っていました。
艇長が掃海面にきた時、全員を上甲板の待避所に待機させていたのです。
しかし、たった一人、夕食の支度のために艇内にいた中谷隊員だけが
不幸にして触雷に巻き込まれてしまったのでした。
中谷隊員は艇の司厨員で、
「今夜はご馳走しますよ」
と言いながら下に降りていき、そのまま危禍に遭い、その後の捜索でも
遺体を発見することができませんでした。
その時に掃海活動を共にしていたMS06号のある乗員は、
お互いの艇が掃海索を接続する時、双方の艇乗員同士で雑談をかわした際、
ブリッジから見下ろすMS14号の烹炊所で、中谷隊員が
「揺れないで食う夕食は久しぶりだから、頑張って美味しいのを作らなければ」
と快活な声でいうのを聞いて、彼の人柄の良さを感じると共に、
張り切って美味しい料理を作ろうとする気持ちが彼を後甲板ハッチ下の
貯蔵品庫に向かわせたのだろう、と追想しています。
「総員が避難した前甲板から一人だけ抜け出て後方に向かった彼の頭には
『美味しい夕食を皆に』だけが溢れていたのでしょう。
献立が決まった時、彼は無意識に歩き出して下に降りてしまったのだと思います」
朝鮮海域に日本掃海艇が派遣されたことは当時政府によって秘匿されていました。
その活動は日本国民に伝えられず、隊員及びその関係者には、
厳格な箝口令がしかれていたといいます。
中谷隊員の場合もそうで、MS14号が触雷沈没した時、政府は殉職者並びに
重症者に対しても補償の措置をとっていませんでした。
そのため、バーク少将の手配により、GHQの問と保証金という措置が取られました。
10月25日に行われた海上保安庁葬には中谷隊員の遺族は出席できず、
「『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は絶対に口外しないように』
と言われ、『瀬戸内海の掃海中に死んだことにしよう』と皆で申し合わせた」
と証言しています。
掃海隊の慰霊碑には、中谷隊員の名前は刻まれたものの、
殉職場所と時期については記されることはありませんでした。
殉職後29年経った1979年の秋、戦没者叙勲で、中谷隊員には
勲八等白色桐葉章が贈られましたが、その時においてなお、
勲章の伝達は内輪にしてほしいとの内閣の意向で新聞発表は取りやめ、
所管の海上保安部長が遺族の自宅を訪れて伝達したといいます。
それでも藤市さんは、
「叙勲によってやっと坂太郎の殉職が公認された。
これで晴れて弟の史を語ることができる」
と話したとされます。
確かこの中谷氏だったと思うのですが、昼食会場までのマイクロバスの中で、
遺族の家に今回NHKが長時間取材をするために滞在していった、
ということを話しておられるのをわたしは耳にしました。
NHKというテレビ局に対して、わたしはこのような取材をした結果を
自局の主張のために切り貼りして都合よく使うつもりではないかなどと、
猜疑心に満ちた目で見てしまわずにはいられないくらい、信用していません。
隊員の殉職という一事を「素材」として勝手に物語を作り上げ、その結果、
遺族の気持ちをかき乱すようなことをしなければいいが、と
わたしは淡々と取材を受けたことを語るご遺族の声を後ろに聞きながら、
ひとり要らぬ心配をしていました。
続く。