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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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光と影〜陸自衛生学校 医学情報資料室「彰古館」

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さて、衛生学校で公開された第1級救難衛生訓練見学を終わり
次に資料館の見学を行いました。

彰古館。

陸上自衛隊衛生学校、教育部教材課に設置された
「参考品展示室」を母体として、かつて軍陣医学と呼ばれていた
軍事医療の資料を収集している、全国でも稀有な医学情報資料の公開施設です。

ここは、体系的で機能的な展示の仕方も、湿度管理が完璧に行える
専門の電気ショーケースを使った資料の保存も、今まで見たどんな資料館をしのぎ、
しかも資料館の担当である自衛官の説明は素晴らしいの一言でした。

資料を見ながら軍事医療について時系列に語ってくれるのは従来通りですが、
単にものの説明にとどまらず、幕末期から大東亜戦争までの軍事医療の発展と
改革を横軸に、縦軸として近代日本の軍事史をおさらいしているような感じです。

ある程度のことを知っている者にも、全く軍事を知らない者にとっても、
その名も悉知(しっち)さんという自衛官の解説は明快でわかりやすく、
歴史に対する興味を掻き立てずにはいられない魅力に富んでいました。

おかげでみっちり1時間の解説が、全く長いと感じられなかったほどです。

というわけでこの見学について詳しくお話ししたいのは山々ですが、
内部にはあちらこちらに写真撮影禁止の貼り紙がありました。

貴重な資料で保管にも最新の注意を払っているせいかと思いきや、
説明終了後に「撮っても構いません」

ただし、写真はご自分の飼料用としてお使いくださいとのことでした。
というわけで、本日画像は現地にあったものではなく、
パンフレットからの転載になります。

 

資料館外には陸軍病院と軍医学校の写真が展示してあり、
こちらは公開しても大丈夫そうなのででご紹介しておきます。

明治3年、政府に要請されて来日していたオランダ人医師ボードウィン(右上)
が大阪軍事病院の中に陸軍医学校を設立しました。

こちらは昭和4年に牛込に設立された陸軍軍医学校玄関。
広大な敷地に最新の建築が並びました。

標本館と図書館だそうです。

関東大震災の時には倒壊した建物から毒ガスが漏れるなどの騒ぎになったそうです。
現在ここには現在、厚生労働省戸山研究庁舎(国立感染症研究所および独立行政法人国立健康・栄養研究所)
新宿区立障害者福祉センター、全国障害者総合福祉センターが設置されています。

内部資料のコピーなどが一部だけですがロビーに展示されていました。
資料館では、原子爆弾投下に関する資料、例えば黒の部分だけ焼け焦げた
着物の切れ端などを見ることができます。

日華事変から終戦までの資料は、その多くが戦災や焼却処分、さらには
戦後の混乱期に散逸してしまったのですが、当資料館(というか防衛省?)は
その欠損を埋めるべく収集活動を継続しているということです。

また和紙に書かれた資料は大変保存がきき、現在も展示していますが、
特に大東亜戦争中の紙の資料は酸性化が進んでしまっているので、
これ以上の劣化を防ぐために公開していません。

しかし、将来の公開に向けて、電子ファイル化を進めているとのことです。

展示室入口にあった指差しマークは明治40年に使われていた
野戦病院への方向を示す道標がプリントされて使われていました。

これが彰古館の広報パンフレット表紙です。

医療を表すアスクレピオスの杖(蛇が絡まっている)と桜が組み合わされ、
英語で「メディカルスクール」と記された衛生隊のマークの下に、
赤一文字の医療背嚢を背負った西南の役での看護卒の後ろ姿の絵があります。

この赤一文字はどういう意味があるのでしょうか。

当時、軍衛生部の標識を決めることになった時、当然ですが
海外で使われているレッドクロスを採用するという運びになりました。
ところがここで、

「キリスト教の十字架はまかりならん!」

と時の太政大臣がしゃしゃり出てきて使用することを禁止したため、
やむなく十字の縦の棒を取り去って、横に赤一文字だけを描き、
いざとなると縦の棒を描き加えて十字にすることにしたのです。

ただしこれは西南戦争の時だけの措置だったようです。

これらも全て所蔵物で実物を見ることができます。

当時のメスや、顕微鏡、薬籠など。

上記の赤一文字背嚢も現物が展示されています。
右側は、西南戦争の戦傷者の形成手術ビフォーアフターを詳細な絵に描いたもの。
このビフォーアフターはコピー化されてファイルになったのを見ることができます。

これ以外にも頭皮からの傷口への移植手術の過程を表したリアルな模型、
(もちろん当時のもの)があって、医療関係者は必見!だと思います。

森林太郎、ペンネーム鴎外の肖像や写真も当然ですがありました。

森軍医総監は脚気論争で海軍の高木軍医と対立した時、高木の

「B1欠損による脚気併発論」

を嗤い、俺理論で突っ走ったため、
日清日露戦争で脚気蔓延の大惨事を招きました。

文学者としては明治の最高峰と言われた森鴎外ですが、軍医としては
その業績において後世に残る汚点を残したと言えるかもしれません。

 

右は日露戦争の捕虜収容所となった習志野捕虜収容所の写真。
当時の日本は国際法を守り、捕虜の扱いを人道的にどころか
教育まで与えるという紳士ぶりで世界の評価をえました。

バルトの楽園(予告編)

第一次世界大戦後になりますが、四国にあった捕虜収容所を舞台にした映画

「バルトの楽園」

という映画がありましたね。
日本で初めてベートーヴェンの「第九」を演奏したのが
ここに収容されていたドイツ人捕虜だったという実話に基づくものです。

軍トップの給料が九十円だった時代に、当時新しくドイツで使われ始めた
X線レントゲンを、

「どうしても欲しいんだい!」

とばかりに千円のポケットマネーで買ってきた芳賀栄次郎軍医。
持って帰ってきたX線に、たちまちみんなは興味津々。
どこも悪くないのに競ってレントゲンを撮ってもらったようです。

ただし、フィルム代はバカ高いので偉い人だけ。
あの乃木大将も好奇心を抑えきれなかったらしく(笑)
足の骨を撮ってそれが残っています。(左)

そして、右は、戦後腕を失った兵隊がタバコだけでも吸えるようにと
乃木大将自ら発明した「乃木式義手」で、これも実物が見られます。

 

乃木式義手といえば、わたしが個人的にここで一番印象的だった展示は、
ある陸軍近衛士官が、西南戦争の戦傷に受けた手術で取り出した骨の写真でした。


皆さんは渡辺淳一の直木賞受賞作「光と影」を読んだことがあるでしょうか。
わたしは知り合いの編集者のいう三文エロ小説家()になる前の、
医療小説ばかり書いていたころの渡辺淳一の小説が今でも好きなので、
ここで悉知さんの口からその題名が出た時、思わずぱあああっ(aa略)
となっちゃいましたよ。

「光と影」のモデルになったのは二人の軍人です。

西南の役の戦いで、ほぼ同じ時にほぼ同じ傷を
それぞれ右腕と左腕に受けた二人の若い軍人がいました。
寺内寿太郎大尉、そして阿武時助少尉です。

二人は同じ日に大阪陸軍病院の佐藤進院長の手術を受けることになりました。

当時の医学ではそのような銃創を受けた腕は切り落とすのが常識で、
カルテが先になっていた阿武大尉の腕はあっさりと切断されました。

ところが、ここで執刀者の佐藤軍医は、二人の運命を大きく変える
ちょっとした「気まぐれ」を起こすのです。

「あまりにもたくさんの腕を切りすぎたので」

同じことをするのに嫌気がさし、腕を残して粉砕した骨片を取り出す
ランゲンべックの方式を寺内の傷に試してみることにしたのでした。

(これは小説に基づいて書いていますが、実際の理由はわかりません)

結論としては腕の機能が戻ることはありませんでしたが、
それでもとにかく自分の腕が残っていたことで、寺内は軍務に復帰。

腕を切られた阿武大尉は寺内より優秀であると自覚し事実そうでしたが、
軍を去り、その後設立された偕行社の事務長になります。

小説では二人の運命の分かれ道が「カルテの上と下」にすぎなかったと知り、
小部は精神に異常をきたして、最後は巣鴨の廃兵院の鉄柵の嵌った
精神病患者用の部屋で亡くなるという結末となっていました。

寺内はその後フランスに皇族の補佐官として派遣され、
その後陸軍士官学校長を経て、なお順風満帆順風満帆の出世を遂げ、
陸軍大臣、そして内閣総理大臣寺内正毅として歴史に名を残します。

 

 

昔なん度も読み返した渡辺淳一の初期の小説の中でも特に印象的であった
「光と影」のストーリーが現場の説明で一気に蘇り、
「小部敬介」とこちらだけ仮名になっていた阿武時助の面影(イケメン)を
写真で見ることができ、感慨もひとしおでした。

ネットでは阿武時助については寺内正毅についての記述においても
何も出てこないので、彼の写真を見ることができるのはここだけかもしれません。

 

家に帰って早速「光と影」を読み返してみたのですが、小説中、
陸軍大臣となった寺内が偕行社の事務長である小武に

「この紹介状を持って行けば乃木式の義手を作ってもらえる」

というシーンがあります。

この乃木式義手というのがパンフレットの写真にも出ているそれで、
ここにはその実物が展示されているのです。

ちなみに小説では小武は陸軍大臣の前にもかかわらず、
自分より劣っていたはずの寺内を妬む心と劣等感に堪えきれなくなって
この申し出に激昂し、

「生半可な道場なぞはやめてくれ。俺は俺でお前はお前だ」

と暴れるということになっていました。

今回この資料を見て考えたことが二つあります。
渡辺淳一は、おそらく小説を書くために、この資料館を実際に訪れたであろうこと。
そして小説に書かれた小部の、寺内に対する気持ちと、二人の間に起こったこと、
例えば教官になった寺内が学生に

「同期に小部という優秀な男がいた。彼が怪我しなかったら今頃偉くなっていただろう」

とその名前を喧伝していたことなどは全て創作であるということです。

そう断言する理由は、二人の階級。

小説では同期ということになっていますが、戦傷を受けた時点で二人は大尉と少尉。
カルテでは上と下でも、両者が同期で俺お前の仲であろうはずはありません。

偕行社の事務長として小部が陸軍大臣の寺内と会うということはあったかもしれませんが、
そこで寺内に情けをかけられ(たと思い)キレて暴れるということなど考えられないし、
佐藤軍医が二人のカルテの順番や処置の違いについて、問われるままに
小部に真実を告げるというのも守秘義務の点でまずありえません。

「創作は創作」。

夢中になって読んだあの頃から何十年後になって、そのことに気づいてしまったわたしです。

 

さて、乃木大将といえば、海水浴場で撮られた半裸の写真がここには展示してあります。
実に均整のとれたしなやかな肉体で、説明によるとこれは
日露戦争より後のものだということでした。

「司馬遼太郎の小説だと日露戦争で乃木将軍はもうヨボヨボみたいに書かれてましたが」

そうそう、映画でもやたらどんよりしてやる気のない乃木将軍を
柄本明に演じさせてましたっけね。

「でもこれを見る限り、乃木さん全く若々しいです。
司馬遼太郎という人は・・」

そうそう、乃木さんのことあまり好きじゃなかったんでね。

「陸軍については随分いい加減なことも書いてます」

そうそう海軍についても・・

「海軍については正確に書いているみたいですが」

いやいやいやいや(笑)

司馬遼太郎は、不詳わたくしがブログのために行った程度の調査でも、
かなりの部分で「やらかして」いるのが判明してますよん。

 

展示にはこのほかにも、八甲田山の生存者の凍傷にかかった手足のカルテや、
戦後広島でGHQが作成した原爆患者の英文カルテ、
731部隊の石井四郎が考案した浄水器の実物などがあり、
軍事医療のみならず戦史に興味のある方なら一日いても飽きないかもしれません。

 

ロビーにあったイラク復興支援の際部隊が身につけていた防暑服。
胸には英語とアラブ語で「日本」と書いてあります。

マスクのようなものは砂塵マスクでしょうか。
この服装で「防暑」ができるとはちょっと信じられませんね。

 

 

当資料館の開館日は平日、希望者は2時間前までに予約をすれば
いつでも誰でも見学することができますので、みなさま折あらば是非
時間をかけて見学されることを心からオススメしておきます。

 

【陸上自衛隊衛生学校広報室】
 TEL (03)3411-0151

 広報 内線2211
 彰古館 内線2405

 

 

 

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