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アメリカ海軍ヘリコプター史〜ミッドウェイ博物館

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サンディエゴにある「ミッドウェイ」博物館、空母艦載機の整備や
指令をだす部署の見学の見学が終わりました。

ここに、空母艦載機の一つである米海軍ヘリコプターの歴史コーナーがありました。

 

人類最初のヘリコプターが空を飛んだのは1940年5月24日。
この時には不安定で振動も多く、パイロットがテスト飛行で
縄をつないだヘリをかろうじて「持ち上げた」というものですが、
その後、技術は急速に進化していきました。

この技術進歩の歴史の中には、多くの勇敢な勇者たちの、
理想を追求した技術者たちの、そして計り知れない危険を承知で
戦いに挑んだセイラーの物語があります。

この展示では、過去七十年間にわたりアメリカ海軍のミッションの可能性を
大きく広げてきたヘリコプターの歴史についてを紹介しています。

ところで、皆さんは「ヘリコプター」というものを誰が発明したかご存知ですか?
去年の夏、ボストン郊外にある「シコルスキー」本社の写真を高速から撮ろうとして
失敗したということがありましたが、シコルスキー社を作った

イーゴリ・イヴァノビッチ・シコルスキー(1889−1972)

です。

自らが操縦することもでき、フランスで航空機の研究を重ねた彼は、
ロシアで飛行機開発に携わり、当時すでにのちのヘリコプターとなる
機体のアイデアを持っていたといいます。

ロシア革命の後アメリカに亡命したシコルスキーは、まず
商業空輸の会社

「シコルスキー・エアロ・エンジニアリング・コーポレーション」

を設立。

その後会社はのちにユナイテッド航空となったユナイテッド・エアクラフトの
ヴォート・シコルスキ部門として吸収され、そこの部長であった彼は
自らがパイロットとして飛びながら開発を行い、
1939年9月、ほんの数フィートではありましたがVS−300なるヘリで
空を飛ぶことに成功しました。

操縦しているのはシコルスキー本人。
これにカバーをつけて?操縦者の体を保護したバージョンも
その後開発されています。

機体の下にフロートが三つついており、史上初にして水陸両用が可能でした。

このいかにも危なっかしく見える機体をよく自分でテストしたものだと思うのですが、
自身がパイロットであったシコルスキーにしてみれば、
危険なテスト飛行だからこそ自分で行う方が気が楽だったのかもしれません。

余談ですが、シコルスキー社の前を通り過ぎた時、息子が

「最近(2015年)ここロッキード・マーティンに買収されたんだよね」

というので、なぜそんなことを軍事オタクでもないのに知っている?
と非常に不思議だったということがありました。
ネット時代の子供って・・・・・。

シコルスキーHSS。
海軍の対潜哨戒機の必要性から開発され、その後のSー58、
シーキングの原型となりました。

HO4S。
朝鮮戦争で活躍した乗員搬送ヘリの海軍用です。

MHー53。
海兵隊&海軍バージョンは「スーパースタリオン」と呼ばれます。

海上自衛隊でも使用されていましたが、順次退役し、最後の1機は
今年2017年の3月に除籍となって運用が終了しました。

ちなみに後継機は アグスタウェストランドのMCH-101。
掃海隊でおなじみですが、「しらせ」にも搭載されています。

 

シコルスキー本人は、

「私の行った個々の仕事は人類を進歩させるための火花を未だに放っている」

とおそらく晩年に豪語していたそうですが、これが決して
高すぎる自己評価でないことは皆さんも納得されるでしょう。

確か浜松の空自の資料館にパイアセッキのヘリが展示されていて、
それをここでご紹介するのに、

「パイアセッキとはさても面妖な名前であることよ」

と感じいったのですが(いつの時代の人だよ)、その後これが
ポーランド人にはよくある人名であることがわかりました。

フランク・パイアセッキ(1919-2008)

はポーランドから移民してきたテイラーを父に持つフィラデルフィア生まれ。
本人はペンシルバニア大学とニューヨーク大学で工学を学んでいます。

ちなみにこれも同一人物らしいのですが、どうして
「これ」が「あのように」なるのか理解できません。
外国人の歳の取り方って謎だわ。

小さい頃から飛行機模型を作るのが好きだった彼は、10代のうちに
ローターを上に付けた固定翼機

「オートジャイロ」

を開発するという一種のオタク天才でした。
シコルスキーとほぼ同時に友人と共同でシングルローターのヘリ、
PV-2(Pはパイアセッキ、Vは共同開発社のヴェンジー)を開発。

この時の貴重な実験の様子が残されていました。

Piasecki PV-2 first flight, April 1943

うーん、これで飛んだってことにするのか?それでいいのか?
という怪しい動きではありますが、一応宙には浮いています。
ヘリの足はどっかに飛んでいかないようにロープが付けられていますね。

1945年3月7日、パイアセッキは初めて「ちゃんと飛ぶ」タンデムローターのヘリ、
P-V エンジニアリングフォーラムXHRP-Xの開発に成功します。

P-V Engineering Forum XHRP-X, 1945

有名な「フライング・バナナ」の形をすでに備えていますね。
ってかあれが完成系というのも如何なものかって気もしますが、(個人的感想)
バナナに似ている度だけでいうと、こちらの方がかなり完成度は高いです。

パイアセッキの実験は記録が残っているものが多いらしく、
楽しい音楽とともにまとめた映像があったのでご紹介しておきます。

Straight Up: Frank Piasecki’s Flying Machine


さて、ヘリコプターを開発した人物は同時期に三人いました。
もう一人が、ローレンス・デイル・ベル(1894−1956)です。

 

どうしてヘリの開発者は皆全体的に似ているというか安定の良さそうな容姿なのか、
と少し不思議な気がするのですが、それはともかく、”ラリー”・ベルは
グレン・L・マーチンカンパニー(のちのロッキードマーチン)
でマネージャー、コンソリデーテッドでは副社長にまで登りつめたあと、

ベル・エアクラフト・コーポレーション

を立ち上げます。
1941年からヘリコプターの開発に着手したベルは、1943年、
伝説のヘリ、

BELL 30

の初飛行を成功させます。

Bell Model 30 Crash

実験ではものすごい失敗をしていますね。
地面に機体が叩きつけられると同時にパイロットは放り出され、
その瞬間ローターに激突しているように見えるのですが、
怪我は手首の骨折だけで済んだということです。

その後この事故を教訓として(多分)スタビライザーを開発、
1947年には「ベル47」を完成させました。

アメリカの人気戦争ドラマ「M*A*S*H」のオープニングクレジットでは
負傷者を搬送する朝鮮戦争のシーンがベル47を有名にしたそうです。

「スイサイド・イズ・ペインレス」(自殺は痛みなし)

というテーマソングとともに記憶しておられる方もいるでしょうか。

金魚鉢のようなユニークなキャノピーはオールラウンドビジョンが可能で、
スキッドの形は、荒れた地形に着陸することができ、
2つのエクステンション・ポッドが装備されているため、
重症者を搬送するのに活用されました。

ニクソンか?と思ってしまったこの悪役っぽいおじさん、
わたしが今回初めてその名を知った

チャールズ・カマン(1919ー2011)

は、26歳の時に発明したサーボフラップ制御式ローターを提げ、
友人二人と三人で立ち上げた会社、

カマン・エアクラフト・カンパニー

で1947年に初めてのヘリK−125を開発します。

海軍のために開発されたH43ハスキー。

カマンはその後艦載用対潜ヘリコプター、
Hー2シースプライトを産みました。

スタンリー・ヒラー・ジュニアについては、
サンフランシスコ空港近くの「ヒラー航空博物館」を見学した後、
一項を費やしてその作品群について語ってみました。

早熟の天才 スタンリー・ヒラー・Jr.

この項でも触れているように、ヒラーの発明歴は10歳前に始まっており、
12歳に動力付きミニチュアカーを売る会社の社長になりました。

最初にヘリコプターの発明をしたのは15歳のとき。

1944年には

XH-44 "Hiller-copter"(ヒラコプター)

を開発することに成功。
ヒラー・エアクラフト社は朝鮮戦争で規模を拡大し、
軍からの発注を受けるようになりますが、その中でも

 Hiller OHー23(レイブン)

はヒラー社でもっとも有名な機種となりました。
また、彼は「フライング・プラットホーム」という垂直一人用のヘリを発明。

「早熟の天才」のページでも説明した「ホーネット」というヘリは、
ティルトウィングで史上初の高速垂直離着陸を可能にした画期的なものでした。

ヒラー自身がこれに乗っている動画が見つかりました。
驚いてしまったのは、後付けしたローターの先が回る時にボーボー燃えてること。

Hiller YH-32 Hornet Helicopter (1951)

ヒラー氏、サングラスをかけて瀟洒なスーツのまま優雅にこれに乗り、
空中でサングラスを外してこちらにカメラ目線で声をかけております。

彼の案外なナルシーぶりが楽しめるお得な映像となっておりますので、
みなさまこれだけはぜひご覧ください(笑)

最後に。

ヒラーは自分がちびっこ社長だった頃、主力商品(ミニカー)の素材だった
金属を使ってままごとセットやハンガーも売っていますが、
チャールズ・カマンは自分がギタリストだったこともあり、
ヘリコプターで財をなしてからは、趣味の音楽事業の会社も作ってしまいました。
「オベーション」ブランドのギターは、今でもギタリストに評価を受けています。

続く。

 

 

 

 


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