さて、大正13年度帝国海軍練習艦隊の国内巡航、もう一息で終了です。
■ 名古屋
その昔那古野(なごや)と云われた荒涼な原野も今や
人口六十余万を有する大都会となって、その繁華、
流石中京の名に背かぬ。
「尾張名古屋は城で持つ」謳われた城は市の北方に聳え、
天守閣上の金鯱は燦として輝く。
乗員一同はすぐ近くの熱田神宮に詣でて武運長久を祈った。
城で持つという名古屋城。
昨日の俗説によると、名古屋は不美人の三大産地の一つということですが、
こちらは何を根拠にそうなっていることやら、と思い一応調べてみたら
「徳川御三家の尾張藩が美人をみんな江戸に連れていったから」
もう一つの仙台についても、伊達政宗が美人をみんな(略)と、
甚だ怪しげな俗説にすぎないようです。
同じ俗説でも秋田、博多に美人が多いというのはなんとなく納得しますが。
名古屋城見学をしている水兵さんたち。
このスタイルは、(上夏服、下冬服)合服です。
ということはこの写真が撮られたのは9月後半、7月末に日本を出港し、
出雲から名古屋まで約2ヶ月かかったことになります。
「中京」というのが「中部の京」を意味していたことを今知りました。
この頃から結構な都会だったんですね。
中心部には市電も走っています。
一行は熱田神宮に参拝を行いました。
官(朝廷、国)から幣帛ないし幣帛料を支弁される官幣神社である
熱田神宮は現在でも神宮(伊勢神宮)を本州とする神社本庁です。
三種の神器である草薙剣を祀っているそうです。
そして、現在でもそうですが、伊勢神宮の後、練習艦隊は横須賀に入港し、
その後遠洋航海までの間帝都で様々な行事をこなすことになります。
中でも皇居に赴き天皇陛下の拝謁を賜るのが最も大事な行事となっていました。
しかし、アルバムにはただこの冊子中唯一のカラー写真として
皇居お堀と橋の画像(昨日の冒頭写真)が挟まれているだけで、
他の寄港地のような感想もなんの説明すらもありません。
そのことが、皇居参内の儀式を神聖なものとみなし下々の語るところではない、
としたように思われました。
アルバムの写真に添えられた感想ごときで陛下の拝謁について述べるのは
あまりにも畏れ多い、とされたからでしょうか。
おかげで、皇居参内を率いたのが国内巡航を行なった古川中将なのか、
それとも遠洋航海司令となった百武中将なのかもわかりませんでしたが、
翌年全行程を率いるのが古川中将ということに決まっていたので、
この時だけは舞鶴から百武中将が馳せ参じたのではないかと考えます。
国内巡航を無事に終え、大正13年度練習艦隊は横須賀に寄港し
帝都における行事の合間に候補生たちは東京見物や見学などを行います。
明治神宮や海軍関係の施設、靖国神社参拝より何より、
若い地方出身の候補生たちにとってもっとも楽しみにされていたのが、
実は銀座だったらしいということが、後年の彼らの供述から推察されます。
銀座ツァーには東京出身の地元に詳しい候補生をガイド役に、
カフェーや天ぷら屋、買い物を楽しんだということです。
また、この頃は寄港地出身の候補生の家に宿泊することも許されていたので、
各地の候補生の実家ではクラスメートを地域を挙げて歓迎したものでした。
そして、美人の妹の写真を何かの折に見て密かに期待を寄せ、
練習艦隊寄港の際に彼女を見たさに級友の実家に押しかけ、
実際に嫁にしてしまう候補生も結構いたという話です。
戦前は海軍士官の結婚には届けが必要で、身分が不釣り合いな女性
(芸者とか外国人とか)はその許可が下りなかった頃ですから、同級生の妹、
というのはある意味最も確実な結婚相手候補とされていたのです。
■ 横須賀出航 大正13年11月10日
雄々しい首途!!
希望に輝くその鹿島立ち!!
「ロングサイン」の「メロディ。
万歳の叫び。
帽の波。
横須賀あとに万里の長途にのぼる我等は、
「日本の御山富士よりどんな臆を受けたことであろう。
平成29年度の練習艦隊司令官真鍋海将補は、江田島を発つとき
「鹿島立ち 見よ若桜 みをつくし(澪標)」
という句を詠まれました。
練習艦隊旗艦が「かしま」であることと、「旅行に発つこと・旅立ち」を意味する
「鹿島立ち」を掛けたのは素晴らしく気の利いた洒落だと感心したものですが、
そもそも練習艦隊旗艦を「かしま」「かとり」としたというのも、遡れば
「鹿島立ち」にあやかってのことだった、ということを皆様はご存知でしょうか。
いい機会なので説明しておきますと、「鹿嶋」「香取」は旧軍艦の名前になっているように
いずれも元々は軍神であり、両神宮共に武運の神を祀る処とされています。
鹿島立ちの語源とされている説は二つあります。
一つは奈良時代のこと。
東国から筑紫、壱岐、対馬などの要路の守備に赴いた防人は、
任地へ出発する前に鹿島神宮の前立ちの神たる阿須波神(あすはのかみ)に
道中の無事を祈願したということから、のちの武士にもこの習慣が伝えられました。
もう一つは、鹿島の神、武甕槌(たけみかづち)、香取の神、経津主(ふつぬし)が
天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先だって、
葦原中津国(あしわらのなかつくに)を平定したことからという説です。
防人が無事を鹿島神宮に祈願するようになったのは(前説)
後説の伝説が流布したから、ということですよね・?
つまりどちらも正しいとわたしは思うんですが・・・。
それはともかく、この練習艦隊参加の「出雲」や、翌年参加の「磐手」の後釜として
設計された練習艦の名前はまさに「鹿島」「香取」と言いました。
この頃の武人の語彙に「鹿島立ち」という言葉が生きていたからこその命名です。
このアルバムの頃には軍艦「鹿島」「香取」は存在もしていませんが、
その壮途に対し「鹿島立ち」といういにしえの言葉が送られているのです。
さて、そんな具合に、国内巡航でいいことがあった候補生も、
なかった候補生も、等しく横須賀を出航する日がやってきました。
横須賀に停泊した練習艦隊旗艦には、海軍大臣財部彪が来訪しました。
財部は前にも書いたように軍神広瀬中佐と同期で恩賜の短剣のクラスヘッド。
山本権兵衛の娘婿だったこともあり超スピード出世で、この頃には
加藤友三郎内閣の海軍大臣にまで成り上がっていました。
この数年後、ロンドン軍縮条約で全権を務めた財部は、当時の艦隊派や
肝心の海軍軍令部(が味方につけた犬養毅と鳩山一郎)に糾弾され、
統帥権干犯問題で辞任することになっています。
(時の海軍と組んで、『日本の艦隊保有量が不公平だ』とする側に
野党の犬養が与したことについて、以前そのダブスタを指摘したことがあります。
結局犬養って今の野党と同じ、単なるアンチ政府主義だったってことですよね。
『憲政の神様』はそれらを思うと過大評価ではないかといつも思います)
不鮮明ですが、手前の白い列が見送りの軍人たち、そして
艦上の候補生たちが帽振れをしているのが確認できます。
これは現在護衛艦が繋留している岸壁でしょうか。
帽振れをしているので出航直後だと思いますが、場所は・・・
右側が現在の潜水艦基地にも見えるのですがどうでしょうか。
岸壁を離れ横須賀港を出て行く「八雲」「浅間」「出雲」。
動力は石炭なので、煙突からは黒々とした煙がたなびいています。
横須賀に停泊している海軍の艦船の乗員たちが見送っています。
ここで注意して欲しいのは、練習艦隊と見送りが白の第二種なのに、
この艦上では全員が冬服を着ているということです。
季節的には秋の衣替えシーズン過渡期(多分9月)で、
一般にはもう冬服が着用となっていたのが、練習艦隊は
出航の儀式は白と決めて行ったようです。
そういえば!
我が日本国自衛隊の練習艦隊も出航は5月で衣替えには早いですが、
純白の礼装で臨むのが慣例になっています。
過渡期であれば出航は白、というのは海軍時代からの不文律だったのでは・・。
続く。