カリフォルニア州サンディエゴのマリタイムミュージアム、海事博物館には
帆船から潜水艦まで、様々な船のコレクションが公開されています。
左の「スター・オブ・インディア」、それと直角に繋留しているのがレプリカ「サプライズ」、
その後ろがソビエトの潜水艦フォックストロット型の「B-39」。
これらを見学して来たわけですが、その真ん中にある白い客船風のが
蒸気フェリーの「バークレー」。
ここは全ての展示船のための中心的なオフィスがわりになっています。
この中に入っていくと、反対側にもう一つ潜水艦があるのに気がつきました。
深度実験潜水艦であった「ドルフィン」です。
潜水艦の実験艦というのがあるとはこれを見るまで知らなかったのですが、
例えば「ドルフィン」での実験によって、1990年末には新しいソナーが
潜水艦隊に導入されたりしています。
「ドルフィン」という名前のつけられた艦はこれで7隻目になるそうです。
建造は1960年、同じ頃に隣にある「B-39」が起工からたった2ヶ月で
就役したのに対し、こちらは4年半もが費やされています。
実験艦であると同時に彼女自身の艦体が実験的な仕様だったせいです。
もし潜水艦に詳しい方がこの写真を見ておられたら、
この潜水艦の画期的なところに気づかれるかもしれませんね。
そう、この潜水艦にはシュノーケルマストがないのです。
実験艦であり戦略のために長時間潜行する必要がないからでしょうか。
その辺の理屈はわたしにはどうもよくわからないのですが、とにかく、
ディーゼルエンジンが稼働している時には必ずハッチを一つ開けておいた、
と英語の記述にはあります。
蒸気船「バークレー」の船内からドルフィンへのエントランスがこのように繋がっています。
現地でこの
「 DEEPEST DIVING SUBMARINE」
を見た時にはアメリカ海軍のフネによくあるキャッチフレーズみたいなものだろう、
と思ったのですが、実験艦であったと知ると、別の意味が見えて来ますね。
「ドルフィン」は1964年12月19日にメイン州のポーツマス海軍造船所で起工し、
進水式は1968年6月8日、あのダニエル・イノウエ夫人によって命名されました。
ダニエル・ケン・イノウエは日系人部隊出身の上院議員で、つい最近、
出身であるハワイの空港に彼の名前がつけられたことで知る人も多いでしょう。
ついでにサンノゼ空港には「ノーマン・ヨシオ・ミネタ」という名前がついています。
右側の潜水艦の全貌をご覧ください。
「ドルフィン」の外殻は全くの直径の円筒であり、その端部が
半球形の頭部で閉じられているだけというのがよくわかるでしょう。
シンプルなのは外殻だけでなく、バルクヘッド、内部隔壁も同じく、
代わりにフレームを使うなどして単純化されていました。
構造実験や試行での使用を容易にするためです。
就役してわずか2ヶ月後の1968年、「ドルフィン」は
3000フィート(914m)の深々度に潜行することに成功し、
これは当時の世界新記録となりました。
アメリカ海軍の記録でも、これは現在も破られていません。
また、翌年の1969年、「ドルフィン」は最も深い深度からの
ミサイル発射を行なった潜水艦として世界記録を更新しました。
調査と研究のために作られた潜水艦だったので、乗員は
海軍軍人(士官3名、兵員18名)以外に、民間の研究者が
4名乗り込んでいました。
彼女の功績についてはおいおいお話ししていくとして、
早速中に入って見ることにしましょう。
実験艦と知って中身を見れば、兵器としてのそれとは若干佇まいが違うというか、
搭載している機器類もその目的に応じていて非常に実験室的であります。
説明がないのでよくわからないのですが、真ん中の7角形に
5ミクロン フィルター
とあります。
海水を採取するものらしいと想像。
わざわざ洗眼器を備えている潜水艦を初めてみました。
確か「コンスティチューション」のメインデッキにも洗眼器がありましたが、
あれは作業的に目を洗う必要があるのだろうという気がします。
潜水艦の実験等で目を洗う必要がかなりあったということですよね?
洗眼器がどういう際に役に立ったかを知ることは、実験艦
「ドルフィン」の活動についてより詳しく知ることになりそうです.
アンプがあることから、通信室だと思われます。
スツール式の椅子はレールの上を稼働するようになっていますが、
違いが干渉し合わないような仕組みでこれも初めて見ます。
「あきしお」の中の士官用バンクにとても似ています。
整然と天井まで並んだ4段式のバンク。
機能的かもしれませんが、蚕棚みたいできつそうですね。
説明にもあるようにレイディオ・ルームです。
衛星を通じて声とデジタルデータで通信を行なっていました。
UHFのアンテナはセイルの頂上部分に設置されています。
レイディオルーム、反対側。
わざわざ「フォー・ディスプレイ・オンリー」として
展示用であることを断っている機器もあります。
この一帯がコントロールルーム。
ここに勤務するのは操舵手、バラストと推進をコントロールする
「コーントロールマン」2名、ナヴィゲーター、レーダー員、
デッキオフィサー、 艦首と艦尾を担当するメッセンジャー兼パシリ、
つまりランナーとなります。
この船窓のような丸い窓は中が真っ暗でしたが何でしょうか。
ここに写っているのはレーダーというかトレーサーだと思われます。
この下がポンプルームで、この説明には「ドルフィン」が遭遇した事故と、
それを救った「英雄的な行為」(ヒロイックアクション)について説明されています。
2002年5月21日、「ドルフィン」はサンディエゴ沖合およそ100マイルの海域で
作戦行動中浮上して航行しバッテリーを充電していたところ、
魚雷発射管の密閉ドアが故障し、海水が浸水してきたのです。
折しもサンディエゴは強風のため10から11フィートの波が立ち、
そのせいでおよそ70から85トンの海水が艦に流入してきました。
そして浸水による電気パネルのショートで火災が発生します。
「ドルフィン」はその時点で14℃の海水が溢れてきていました。
主任機関士のジョン・D・ワイズ・ジュニアは、海水が増していく
ポンプ室の中にためらいなく飛び込んでいきました。
90分後、艦長のスティーブン・ケルシー中佐は41名の乗組員、
および2名の民間人に対し総員退艦を命じます。
付近で活動中であった海洋研究船「マクゴー」(McGaw) は直ちに応答し、
乗員は小型ボートに乗って「マクゴー」に移乗。
移乗中に海に落ちた2名は沿岸警備隊のヘリによって救出されました。
その間にも乗組員は迅速にダメージコントロールを行い、
火災と浸水の危機から脱した艦はついに安定した状態になりました。
この日サンディエゴは荒天であったため、牽引することはできず、
その場に放置された「ドルフィン」ですが、翌日潜水艦支援艦の
「ケリー・チョーエスト」(MV Kellie Chouest) によって母港に戻りました。
この時の機関士ワイズ・ジュニアの働きは壮絶とも言えました。
区画内の機器の状態が全くわかっておらず、コンパートメントの中に
酸素がある状態かどうかもはっきりしないのに、彼はたった一人で
ポンプ室の中に残り、14°Cの水に浸かったまま、まず
区画内に1フィート未満の通気性の空間を確保して、海水弁が並んでいることを
確かめた上で、ポンプによる排出を開始できるようにしました。
弁を開けた後は、ポンプが詰まるのを防ぐために90分以上留まり、
一人で奮闘を続けたのです。
この勇敢な功績により、彼は海軍と海兵隊からメダルを授与されています。
「すべてのものが自分の仕事をしていました。
私は自分のいた場所で起こったことについて自分のやるべきことをしただけです。
とにかく私は艦から海水を放出することだけを考えていました」
受賞の時、ワイズ機関士はこう語ったと言います。
「メダルは『ドルフィン』に贈られたものです。
これを身につけることを許された一人になったのは
ただラッキーだったにすぎません」
同様の事故を起こした他の潜水艦で3名の死亡者を出したことを考えると、
荒天の中でのこの事故での犠牲者がなく艦体も残ったことは
このワイズ機関士の勇気あってこそだったと思われます。
続く。