「ミッドウェイ」についてお話ししていくと言っておきながらなんですが、
その前に、ここ「ミッドウェイ」のあるサンディエゴと、海軍のつながりについて
艦内見学に入る前に3回に分けてお話してみようと思います。
「ミッドウェイ」フライトデッキの艦首に立つと、
この写真のようにその向かいにある海軍基地が見えます。
昔はそう大きくなかった砂州のような土地に基地を作り、
だんだん土地ごと大きくしていった結果、現在のような
西海岸最大の海軍の根拠地が形成されていったのですが、
ここに立って基地を眺める人誰もがおそらく知りたいと思うかもしれない
「海軍基地の成り立ちとその歴史」が、パネルにまとめられていました。
こんな感じです。
「サンディエゴ:海軍基地発祥の地」
として、
◆ 先駆者たち 1911ー1924
から説明は始まっていました。
一番初めに顔写真があるのは「海軍航空機の父」である
グレン・H・カーチス。
”グレン・カーチスは自らがデザインした飛行機を自分で操縦した
例えばエルロンロッドは自分の肩で操縦したりしていた
このようにしてライト兄弟のシステムは大きく進歩することになったのである”
サンディエゴのイブニング・トリビュート、1911年1月21日付の記事です。
「グレン・H・カーチスの偉業により世界がサンディエゴに注目」
とヘッドラインがありますね。
サンディエゴに到着してわずか6週間後、カーチスはここに飛行学校を設立しました。
それは、この「ミッドウェイ」のちょうど艦首の左側にあったそうです。
(タイムズスクエアのキスのあたりかもしれません)
その時の初めての生徒の中に、当ブログでもお話ししたことがある
「海軍パイロット第一号」となった
がいました。
エリソン中尉の他の3人は陸軍士官です。
写真の水上艇の上にいるのはカーチスと4人の生徒たちの授業風景です。
カーチスの最大の功績は水上艇の発明をしたことでした。
陸上と水上のどちらからでもテイクオフすることができる優れものです。
上の新聞記事は、カーチスがサンディエゴ湾を横切り、
機体を見事着水させた記念すべき偉業を行った時のものです。
その時カーチスは巡洋艦「ペンシルバニア」に機体をホイストさせ、
続いて甲板から もう一度舷側に沿って海上に機体を降ろさせています。
(つまり船での運用の方法を示したということですね)
彼のこのデモンストレーションを目の当たりにして、
これからの海軍に航空機が重要な役割をするであろうことを
誰一人否定する者はありませんでした。
カーチスは彼の初期の水上艇を「スパニッシュバイト」という
彼自身の水上艇基地で製作していました。
デモを見た海軍は、早速カーチスに3機の水上艇の注文をしましたが、
翼の上にオプションで「浮き」をつけることを要求したということです。
海軍としてはいまいち飛行機の「浮上性能」を信じてなかったんでしょうか。
さて、その後1917年9月25日、海軍は初めての「海軍航空基地」を
半島のノースアイランドに設立し、早速ここから「ミッドウェイ」のある
陸地と直接往復を開始しています。
なんのことはない、航空機運用の練習も兼ねて、水上艇はノースアイランドと陸地を
頻繁に往復し、便利な交通手段として早速活用され始めました。
ノースアイランドの飛行学校には、パイロットの養成だけではなく、
同時にメカニックの学校も併設されています。
その海軍最初の飛行機パイロットとなったセオドア・エリソン中尉。
白黒で写真からはわかりませんが、赤毛なので「スパッズ」とか呼ばれていたようですね。
海軍は次に彼にカーチスの基地のあった「スパニッシュ・バイト」で
11名の士官とともに訓練を受け、史上初の
「空飛ぶオフィサー」
となっています。
後年彼が娘の病気を見舞うため乗り込んだ飛行機が墜落し、
帰らぬ人となったという話は、当ブログ
でお読みください。
1941年までに、ノースアイランドは「スパニッシュバイト」として
知られている浅い入江によってコロナドと分けられました。
つまり上から言うとコロナド、スパニッシュバイト、そしてノースアイランドです。
この写真の赤い矢印のところに海軍基地ができたのは1917年のことでした。
1924年までにはノースアイランド海軍航空基地は
国内でももっとメジャーな海軍基地となりました。
この写真にある赤の矢印2つの部分が、水上艇の離発着の場所となります。
当時は「ミッドウェイ」のあるあたりを、しょっちゅう飛行機が行き交っていたのです。
◆ 空母の発展 1924ー1940
1924年、海軍の最初の空母、「ラングレー」がノースアイランドに繋留されました。
石炭による動力で、500フィート(152m)の長さの甲板を持ち、
34機の戦闘機、爆撃機、そして偵察機を搭載することができました。
写真は「ラングレー」とそのハンガーデッキです。
ハンガーデッキには当時の爆撃機と戦闘機がぎっちり搭載されています。
そういえば当ブログでも「機動部隊」というゲイリー・クーパーの
主演映画をご紹介したことがあるわけですが、この映画でクーパーは
「ラングレー」の最初の艦載機パイロットという中尉の役を
40がらみで無理やり演じております。
甲板から海に落ちて殉職した同僚パイロットの奥さんと結婚するという
実にありがちなストーリーでしたね。
1925年に行われたノースショアでの「ラングレー」からの
カタパルトでの発艦実験の写真。
思いっきり「ラングレー」が岸に近く着けているのが目を惹きます。
この時に使用された飛行機はカーチスの
SBC-4「ヘルダイバー」Helldiver 偵察爆撃機
でした。
1934年には「ダイブ・ブレーキ」「ランディングギア」など、
空母に着艦するための革新的な技術が導入され艦隊に導入されました。
パイロットの他に後部座席に銃撃手を配する、というその後の
戦闘機の基本となる形もこの時に確立されることになります。
1928年、アメリカ海軍は空母「サラトガ」と「レキシントン」を導入しました。
どちらも巡洋艦の艦体に空母使用の甲板を備えた仕様です。
写真は現在のサンディエゴのブロードウェイ・ピアに投錨した
竣工したばかりのUSS「サラトガ」。
写真の丸で指し示した棒の先が、現在のネイビーピアの当時の姿です。
こちらはUSS「レンジャー」。
少し後のことになりますが、1935年に初めて最初から空母として建造されました。
ちなみに、我が帝国海軍では「ラングレー」登場の3年前に当たる
1922年において既に最初から空母として建造された「鳳翔」を生んでいます。
実は「鳳翔」は「世界最初の空母」と言っていいかと思います。
世界で最初の空母として船を建造していたのはイギリス海軍でしたが、
(1918年起工)その「ハーミーズ」は第一次世界大戦が終了し、
完成を急ぐ必要がなかったのでのんびりと建造していたら、
後発の「鳳翔」に竣工だけ先を越されてしまったというわけです。
「鳳翔」は確かに国産ですが、その技術は多くをイギリスと
イギリス海軍から招聘した技術者に頼っていたということもあり、
イギリスの立場では
「日本が最初に空母を完成させた」
と言うことには渋い顔をしていると思われますが。
写真は、完成後の「レンジャー」が初めてサンディエゴにやってきたときのものです。
ここの説明には、
”1928年、「サラトガ」と「レキシントン」が「ラングレー」に続き
サンディエゴにやってきて、海軍搭乗員の訓練が行われるようになった
このことは14年後のミッドウェイ海戦でアメリカに勝利をもたらすことに
大きく寄与したと言うべきであろう”
と書いてあります。
まあ言われてみれば確かにその通りなんですが・・・・。
単に「ミッドウェイ」と言う文字を使いたかったので無理やり
こじつけてみました、みたいな?
「ニューホーク」(新鷹)と言うあだ名で知られていた
カーチス BF2C-3 爆撃戦闘機
は、
「上空から敵の船を見つけ、それを沈めることができると言うことで広まった」
と割と当たり前の説明をされていますが、当時の常識からは
これは全くの「新戦法」で画期的だったのです。
ちなみに「ヘルダイバー」と言うのは実は鳰(カイツブリ)のことですが、
急降下爆撃をすると言うイメージと「地獄の」「ダイバー」と言う響きが
ぴったりだったため、後年誰もこの名前を鳥だと思わなくなりました。
こちらは「レンジャー」に艦載されていた偵察機SU-4。
偵察機の当時のミッションとは、敵の艦船を発見したら
その位置を空母に報告し、攻撃・爆撃機を発進させることでした。
PM-1 長距離偵察機。
1923年には海軍に導入され、沿岸部の警戒に当たりました。
小さくて航空機が搭載できる無線セットが普及した後は、
無線情報を沿岸の無線局で中継し陸上や艦載機に送ることができるようになります。
1930年、空母「サラトガ」に着陸する海兵隊の第14偵察部隊の飛行機。
1940年、サンディエゴには空母「ヨークタウン」そして「エンタープライズ」が
サンディエゴを母港としていました。
第二次世界大戦前夜のノースアイランドには、あらゆる航空母艦で
活用されることになる航空機が集結していたのです。
なぜかハルゼーの写真と説明がありました。
ウィリアム・F・”ブル”・ハルゼー・Jr.提督が
初めてサンディエゴを訪れたのは、彼の少尉時代。
1908年に「グレイト・ホワイト・フリート」の一員である
USS「カンサス」に乗り組んでいたときのことです。
「グレイト・ホワイト・フリート」とは1907年12月16日から1909年2月22日にかけて
世界一周航海を行ったアメリカ海軍大西洋艦隊の名称です。
略称「GWF」、日本語では「白い大艦隊」「白船」と訳されることもあります。
名前の由来は、GWFの艦体が白の塗装で統一されていたからでした。
この艦隊の目的は、実は
日露戦争で勝った日本を牽制するため
であったと言われています。
呉の三宅酒造の資料室でこの艦隊を迎えたときの日本の論調について
あまりにも無邪気にその立派なことを讃えているので、
「これは確信的か、それとも故意的か」
とここでも書いてみたことがありますが、実はそのとき、
若きハルゼー・ブルドッグは日本に来ていたわけですね。
この時に彼は日本で東郷元帥にも会っていますが、実際に会って
東郷元帥のファンになったニミッツやスプルーアンスと違い、彼は
「舞踏会の日本人はニヤニヤした顔の裏でよからぬ事を企んでいる」
と言い放ち、日本嫌いをさらにこじらせていったようです。
まーなんと言いますか、最初から
「日本海海戦は日本の卑怯な奇襲攻撃」
と決めてかかっての日本来航ですから、頑固(そう)な彼には
日本で見るもの聞くものそれを覆すことに至らなかったのかなと。
ともかく、ハルゼーはGWFのサンディエゴ寄港の際、
初めてこの地に立ち寄ったということになりますが、実はこの寄港、
その後の海軍とサンディエゴを結びつける大きなきっかけとなった出来事でした。
その経緯については次回お話したいと思います。
ところでここの展示にも書いてありますが、ハルゼーは52歳の時に
訓練を受け、搭乗員資格を得ています。
こ当時のアメリカ海軍のシステムで、パイロットの資格がなければ、
航空関係の指揮官になることはできなかったからなのですが、
彼は航空オブザーバー課程という上級士官中途教育コースを受け、
後にパイロットコースに変更し、成績は最低ながらとにかく終了しています。
彼が偉かったのは、52歳で大佐という階級でも訓練課程を一切省略せず、
パラシュートをたたむなどの雑務も自分でこなしたということでしょう。
失敗をした者に与えられる不名誉なマーク(多分デメリット)も甘んじて受けました。
ダグラス TBD 「ディバステーター」Devastator 艦爆
は、最初の総金属製単葉機で、海軍の注文によって製造されました。
1937年には艦隊に導入された、最初の電動式折りたたみ翼機でもあります。
クルーはパイロット、爆撃手、銃撃手で構成され、「サラトガ」や
「レキシントン」「レンジャー」などの空母の艦載機の基準となりました。
1940年ごろ、サンディエゴに会った海軍の組織は以下の通りです。
ノースアイランド海軍航空基地
32番ストリート 海軍駅
バルボア 海軍病院(現在のバルボアパーク)
海軍無線中継基地 (チョラス・ハイツ)
海軍補給処 (ブロードウェイ・ピア)
海軍訓練センター(ウェストコースト)
海兵隊入隊事務所 (ウェストコースト)
続く。