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グレイト・ホワイト・フリートとサンディエゴ市民〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」甲板上で、この艦首部分に突き出した部分が
なんなのか、色々調べましたがわかりません。

どなたかご存知の方、教えていただけないでしょうか。

という切なるお願いはともかく、この部分に設置してあった

「サンディエゴの海軍基地歴史」

についての展示版について、3回に分けてご紹介しております。

前回はここでカーチスが航空機の空母運用実験を行なって以来、
発展して来た海軍航空隊について、1940年までお話ししました。
今日はなぜか、時代は遡ります。

アメリカ海軍がここサンディエゴに根をおろすきっかけとなった出来事についてです。


◆ 「約束」 1908ー1910

第26代大統領、セオドア・ルーズベルトは、自分の政権下で

「グレイト・ホワイト・フリート」

と称する白で塗装させた大艦隊を組織させ、世界一周の航海を行わせました。

Dispatched largely as a goodwill gesture to Japan

現地の展示にあった言葉、

「日本に対する善意のゼスチャー」

という言葉がなかなか当事者ながら辛辣ですね。

これが日露戦争で勝った日本に釘をさすためであり、米国の軍事力を
見せつけるのが第一の目的だったというのはなんども書いてきたことです。

このバックの南米アメリカ大陸の地図に見えるオレンジの矢印は、
艦隊が出発したヴァージニア州のハンプトンロードから始まっています。

時に1907年12月16日。

こうやって示威行動を見せつけたにも関わらず、ちょうどこの日から34年後、
日本は「暴発」して両国は戦争に突入することとなってしまいますが・・。

というか、こういうことをやりながら禁輸政策を取り、日本をイジメ倒すから
窮鼠猫を噛んでしまったのだとわたしは思いますが、それはともかく。

この頃はパナマ運河も開通しておらず影も形もありませんから、
艦隊は南アメリカを時計回りして、サンディエゴとサンフランシスコに寄港し、
その後太平洋を横断し、ニュージーランド経由で日本に向かうことになりました。


ここで、サンディエゴの歴史を決定的に変えることになる一人の男が現れます。

このジョン・D・スプレックルズさんは、サンディエゴの地元の実業家。
艦隊の北上のニュースを知った彼は、艦隊を寄港させれば地元に大きな利益をもたらす!
と確信し、早速アクションを起こしました。


音頭をとって蒸気船をチャーターし、メキシコ最北の州である
「バハ・カリフォルニア」を出航した後艦隊をサンディエゴに立ち寄らせてはどうか?
と考えたのです。

当初海軍にはこの地域への寄港の予定がなかったのですが、彼は司令官を直接説得し、
サンディエゴに艦隊が寄港するスケジュールを無理やりねじ込もうと考えたのです。

強引なおっさんやなー。

スプレックル氏の扇動、じゃなくて先導により、是非とも「おらが街」に
艦隊のみなさんを招聘するべ!そうするべ!と賛同したサンディエゴ市の
商工会議所の有志一同は、いてもたってもいられず(たぶん)、
艦隊が寄港しているメキシコのバハ・カリフォルニア州にあるマグダレナ湾まで
直々に押しかけ、

「次の寄港はうちに!ぜひうちにお願いしまっす!」

と艦隊司令にお願いに行きました。

皆難しい顔で写真に写っていますが、結構悲壮な覚悟だったみたいですね。
町興しが成功するかどうかの瀬戸際ですから、こんな顔にもなるでしょう。

これはグレイト・ホワイト・フリート、GWFの戦艦「イリノイ」。

強引に熱烈歓迎を決めたサンディエゴ市のチャーターした船が
補給の荷を積んで接近してくるのを大人しく待っているところです。

つまり・・・・熱烈なお願いは功を奏したのです!

ちなみに、現在の記録を見ても、白艦隊はメキシコのマグダレナから
直接サンフランシスコに行ったことになっています。
残念ながらサンディエゴ寄港は公式に記されていないわけですが、
それは記録の上だけで、実際のサンディエゴ寄港は海軍、サンディエゴ市民、
どちらにとっても大変なイベントになったのでした。

この写真はすごいですね。
当時の軍艦は石炭艦なので、単縦陣で航行するとこうなるわけです。
まるで黒煙でビーズのように船が繋がれているように見えますね。

「ホワイトフリート」の名前の通り、艦体は全て白く塗られているので、
かろうじてその分だけが明るく白いのが何か不思議な構図です。

これは、サンディエゴ商人の熱烈な押しに負けて、(かどうか知りませんが)
ついにGWFがサンディエゴ沖に堂々その姿を現したところです。

ちなみに「グレイト・ホワイト・フリート」は当時は正式名称でもなんでもなく、
当時の大衆紙がそう名づけて記事に書いたのが始まりだそうです。

そしてこれがサンディエゴ商人に押し切られたところの艦隊司令。
なかなか凄みのある面魂を感じさせる軍人です。

と思ったらその名前も、

ロブリー・D・” ファイティング・ボブ”・エヴァンス少将

でした。
やっぱり写真に現れてくるものってありますよね。

そして、非公式にとはいえ、GWFのアンカーがサンディエゴ沖に降ろされたのは
1908年4月14日、ヴァージニアを出航してから4ヶ月後のことでした。

サンディエゴ市民が船でメキシコまで赴いてまで、司令官と交わした約束。
「ファイティング・ボブ」司令官は、約束を守ってくれたのです。

(このパネルのタイトルが『プロミス』であるわけがここでやっとわかりました)

サンディエゴ市民にとって、これは名誉なことであり、感激のひとときでもありました。
この時だけで、2万人もの市民が海辺に集まり、艦隊を熱烈に歓迎しました。

 

写真はこの時サンディエゴに寄港した8隻のGWFの船です。
しかしよく考えたら、いやよく考えずとも、この時サンディエゴには

港はなかった

のですから、そんな場所に海軍の艦隊を寄港(じゃないよね、厳密には)させるように
頼みに行った人たちの度胸は大したものだったと言えるでしょう。

艦隊が投錨している間、小さなボートがしょっちゅう艦体と錨の間を縫って
軍艦から人を乗せて陸との往復を忙しく続けました。

サンディエゴ市民の歓迎ぶりはとどまるところを知らず、岸壁では
あらゆるガラ・イベント(祝祭行事)が計画されました。

そしてこれが、「ファイティング・ボブ」が座乗していた旗艦、
USS「コネチカット」。
コロナド沖に投錨している周りには、小舟がたくさん待機しています。

 

◆ セレブレーション

ここではサンディエゴにおけるGWFの様子をお話しします。

沖に投錨した艦隊からは、サンディエゴ市が用意した蒸気ボートが
乗員を次々と乗せて岸に運搬を続けました。

岸壁には艦隊の乗員がきちんと整列して待っています。
彼らはこの後、このブロードウェイ・ピアからシティハイツまで
パレードを行い、市民はこれを暖かく迎えたということです。

「偉大なる大西洋艦隊が到着」

何千人もが船を見るために出かけた

彼らを声援しよう!

艦隊は今ここに!

のような見出しが踊ります。

艦隊から総出となる5千人の水兵たちは街をパレードし、
カリフォルニア州知事は彼らを歓迎するためにわざわざサンディエゴまでやってきました。

文中にある「The U.S. Grant Hotel 」は現在もあって、
その荘重な姿を残しています。

この一番左部分が昔の写真に見えていますね。

艦隊がサンディエゴに投錨していたのは4日間でした。
この間、市では委員会まで立ち上げて、艦隊を歓迎するために
舞踏会、市内観光ツァー、お茶会、そして演芸などが途切れることなく行われました。

この歓迎に対し、艦隊は64小隊からなるブルージャケッツ(海軍)と
海兵隊のオフィサーからなるパレードも挙行しています。

このパレードを実に7万5千人の市民が見たと言われています。

コロナド沖に投錨していた「ヤンクトン」の甲板で
乗り込んできたカメラマンの求めに応じてポーズをとる乗組員たち。

イブニング・トリビュートの紙面はこう始まっていました。

「それは”偉大なアメリカのアルマダ(艦隊)”が港にやってきたという
ただそれだけのことであったが、そのことは、この国の人々に
サンディエゴという街が地図上に存在していることを気づかせた」

写真は街をブルードレスで行進する水兵と観衆。

この訪問によって、海軍はサンディエゴという街を新たに心に留めるようになりました。

「サンディエゴは海軍に感謝し、海軍はサンディエゴに感謝した」

と当時の海軍広報も書き残しています。
互いにとってランデブーともいうべきその後の蜜月のきっかけとなったのは間違いありません。

艦隊を歓迎する行事に出席したり、彼らのパレードを見るために
人が集まってきたので列車の混雑がもう無茶苦茶、とか、
この件に関して市長が出した公式声明とか、とにかくすごいことになっています。

艦隊の皆さんも、他にはない歓迎ぶりに感動したに違いありません。

こうして一連のグレイト・ホワイト・フリート寄港招致と、その歓迎、
その後のこの地での海軍の発展を見ると、サンディエゴがその後
海軍の街になることは、他ならぬサンディエゴに住む人々が望んだ結果であり、
艦隊の寄港は両者を永遠に結びつけた、どちらにとっても
幸せな出会いだったのだと思わずにはいられません。



そして、サンディエゴが海軍の船を迎えるために新たに浚渫した港
(『ミッドウェイ』が現在係留されている突堤の横)に
USS「カリフォルニア」が堂々とした姿を現し、その錨を下ろしたのは、
グレイト・ホワイト・フリート寄港からわずか約2年後の1910年のことでした。 


続く。

 

 

 

 


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