金毘羅宮における本年度の掃海隊殉職者追悼式が行われる日になりました。
車は追悼式終了後の食事会が行われる旅館の駐車場に停めて、
そこから出発しているシャトルバスで会場近くまで運んでもらい、
そこから少し参道を下っていくと追悼式会場です。
山門前には「五人百姓」といって、古くから金刀比羅宮に奉仕してきて
境内で商売を許された五軒の飴屋さんがあります。
ミカさんにはここで売っているべっこう飴、「加美代飴」を
家族の人数分いただきました。
ここに来るとつい立ち寄らずにはいられないひやしあめの屋台。
生姜を入れるかどうか、聞いてもらえます。
ひやしあめ屋さんの舞台裏。
大村崑の「元気はつらつオロナミンC」の看板を廃物利用。
さてそろそろ、と会場に向かい始めると、隊伍を組んだ儀仗隊の列が
颯爽と追悼式会場に向かって階段を降りていくのを目撃。
参拝客は皆目を丸くするように立ち止まって見ています。
殉職者追悼式が行われることは、参道から少し入ればわかるように
大きな案内が出ています。
本日の天気は雲が太陽を隠し、晴天ではありませんが、むしろ
列席者にとっては大変凌ぎやすい天候だったと言えます。
会場で地レンジャー発見。
自衛隊のリクルートを行う地元協力本部のことを地方連絡部、略して
「地連」と言っていた頃には、存在していた「地レンジャー」ですが、
略称地本となった今は絶滅しました。
しかしこの本部長はレンジャー出身なので、
「地レンジャー」とお呼びしても良いかと思われます。
この日緑の制服を着ておられる地レンジャー本部長に
「まだ制服を新しいのに変えておられないんですか」
と質問すると、
「今日その質問100回くらいされてるんですけど」
と憮然として答えられました。
将官と新入隊員クラス、つまり上と下からじわじわと新しくなっているので、
真ん中の佐官クラスはもう少し後になるのかもしれませんね。
というわけでわたくしの席は、ここ。
一番前から執行官と幹部、政治家、歴代地方総監、そして掃海隊員、
と続き、掃海隊司令の真後ろです。
会場全面にテントを張る設営法は去年と同じ。
それまでは真ん中を通路として列席者が通路を挟み、
向かいあう形になっていたのですが、去年からこの形に変わりました。
これだと慰霊碑も国旗掲揚も見えないのではないか、などと、
去年追悼式が終わった直後、僭越ながらいくつか進言させていただいたのですが、
今回、追悼式の直前、それに対してこのようなご返答をいただきました。
1️⃣ 参列者の席の向きについて
慰霊碑に正対することが正しい座り方であり、
後方の席の方はテントの影になり見えにくくなりますが、
参列者が200名を超え、さらに朝日岡が慰霊碑に対し
長方形となっているため、止むを得ないものと考えています。
したがって配席は昨年どおりとします。
2️⃣ 儀仗隊の動線について
儀仗隊は本来待機場所から正面に出てくるもので、
参列者席の中央を通すやり方は礼式上、本来の姿ではないと考え、
本年度も昨年どおりとします。
3️⃣ 現職自衛官の配席について
ご指摘のとおり追悼式執行者は呉地方総監であり、
現職が掃海殉職者のご遺志を顕彰するものであります。
現職自衛官が最後列に位置するのは適切ではないため、本年度から
歴代総監、歴代掃海隊群司令の次に配席し献花順も改めました。
一番大切なことは殉職者に捧げる慰霊の形であり、それゆえ
列席者が慰霊碑に正対すべき、というお答えには得心がいきました。
何より、呉地方総監部が、たかが一般人のわたしごときの具申を拾い上げ、
検討してくださったことに対し、感激するとともに深く感謝する次第です。
まだ到着していない列席者の席もありますが、儀仗隊はご覧のように
微動だにせず待機して降ります。
会場の入り口でご遺族を迎え、政治家をエスコートするために待つ式執行官。
ここに見える金毘羅宮の宮司の名前、「琴陵」はことおかと読みます。
現権宮司琴陵容世氏は、金毘羅宮の宮内にブロンズ像のある
琴陵宥常(ことおかひろつね)[1840~1892年]
の子孫で、琴陵は代々権宮司を務めてきた家の名前でもありますが、
その一人琴陵宥常は「金刀比羅宮」と言う神社名の「名付け親」でもありました。
ところでみなさんは、金毘羅宮がなぜ海の守り神となっているかご存知ですか?
こんぴらさんは象頭山という金毘羅宮が祀られている山そのものが神様という考えなのですが、
昔からこの山が航海するものの目印となっていたことが起源と言われています。
そして「海の神様」といえば琴陵宥常にまつわるこんな話もあります。
1886年、イギリス船「ノルマントン号」が紀州沖で沈没する事故が起きました。
この時、イギリス人船員は全員助かったのに、日本人乗客は全員水死し、これが
人種差別的な対応によるものではないかとして裁判にまで発展しています。
この事件の後、琴陵宥常は海上安全を祈願し、「大日本帝国水難救済会大旨」を作成し、
水難救助活動に携わる団体への顕彰、補償などを行うことを目的に
「海の赤十字」とも言われる「大日本帝国水難救済会」を創設しています。
現在、同会は
公益社団法人日本水難救済会
として、沿岸地に設置された民間ボランティア救助組織、
救難所に対する支援を行なっています。
殉職隊員の遺族の皆さんの入場です。
式典は、
国旗掲揚
霊名簿奉安
黙祷
に続いて追悼の辞が何人かによって行われました。
儀仗隊による敬礼・弔銃発射
が終わると、名前が呼ばれ、献花が行われます。
献花はまず遺族の方々から始まり、そのあとは前列から順番に行われるので、
わたしの献花の順番は現職自衛官のあと、最初ということになりました。
そして、呉音楽隊による追悼演奏が行われたのですが、
前日の立て付けの通り、追悼演奏の最初が歌付きの「掃海隊員の歌」。
独立日本の朝ぼらけ 平和の鐘は鳴り響き
大国民の度量を持て 雄飛の秋は迫りけり
今躍進の機に臨み ああ 掃海は世の鑑
このあと「軍艦」と「海行かば」が演奏される、と確か
昨日司会が言っていたはずなのに、曲は続きました。
・・・・あれ?二番も歌うんですか?
海上保安の重責をその双肩に担いつつ荒天怒涛もなんのその
浄めつくさん 機雷原 防衛庁(省、に変えて歌っていた)
内にその名あり ああ 掃海は世の鑑
周りを見ると、皆配られた小冊子の歌詞を見ながら聴いています。
実はこの「掃海隊員の歌」、五番まであって、三番は
「北は室蘭稚内」と始まり、後段には「英霊眠れ安らけく」、
四番は
「肉弾砕く釜山港」「痛恨虚し対馬沖」
と、ストレートに朝鮮戦争などの表現が出てくるのです。
この三番と四番を歌うのかどうか、ドキドキしながら聴いていると、
挺身集う臨関掃 精鋭すぐる吉見沖
良心こめし丈夫が 水も漏らさぬこの布陣
成果は挙がるかくやくと ああ掃海は世の誠
という最終の五番だけを歌い、演奏は終わりました。
食事会の時に地方総監が暴露?したところによると、
やはり直前まで一番だけで終わる予定だったのが、どういう経緯か、
1、2、5番を急遽演奏することになったということです。
気の毒だったのはリハなしぶっつけ本番で歌わされた指揮者でした。
確かに1番は朗々と歌い上げていたのですが、2番、5番と、
明らかに声が遠慮がちだった謎が解けたというわけです。
「この次はちゃんと練習させるようにします」
食事会でご挨拶した時、地方総監がわたしになぜか恐縮しておられましたが、
音楽関係者としてはこの事情を聞いて歌手に大いに同情しました。
その後、霊名簿を降納し、国旗を降下して式典は恙無く終了しました。
歌、現場の設営、献花の順番、運営の全てに遺漏なく、曇りがちな天気も
列席者にはある意味天助となって、厳かで心に残る立派な追悼式となりました。
まあ、確かに中にはつまらない追悼の辞を述べた「小物議員」もいましたが、
この追悼式にとって全くどうでもいい話です。(断言)
毎年恒例の、遺族と自衛隊等による記念写真撮影。
カメラクルーの姿が見えますが、これはNHKの制作で、
またしてもどなたか遺族の方を追いかけているのだと聞きました。
去年の殉職者を扱った番組の内容を人伝に聞く限り、また今回も
「戦争の後始末をさせられて命を失った気の毒な人たち」
的なコンセプトで番組が作られるのは間違いないと思われます。
どなたか番組を視聴された方、またぜひご報告お願いします。
霊前へのお供えは果物、鯛、餅、酒に野菜、昆布など。
海軍の艦内帽を被り、杖をついて参加されている方を見ました。
かつて殉職者の同僚として共に掃海に当たった方でしょうか。
大正11年に東宮殿下がの御時とあります。
ということは、皇太子時代の昭和天皇のこととなります。
追悼式の後は、金毘羅宮を下山したところにある料理旅館で
遺族の皆様を囲む昼食会が行われました。
追悼式の後なので「乾杯」ではなく「献杯」を梅酒で行いました。
月桂冠のボトルが置かれていますが、飲めないわたしには無縁のものです。
この時隣に座った方が、現在大企業の子会社の社長をしておられる元自衛官で、
共通の知人がいたことから、初対面なのにすっかり話が弾みました。
執行官、呉地方総監池太郎海将のご挨拶。
この時に、指揮者の歌の後半がぶっつけ本番だったことが暴露され?
「後になるにつれだんだん声が小さくなってしまって、申し訳ありません」
という言葉には会場から暖かい笑いが起きました。
ご遺族代表で挨拶をされた方。
この方の親族である掃海隊員は、触雷ではなく、艇の沈没で殉職されました。
殉職当時追悼式で読み上げられた式辞は、当時遺族の手に渡り、
何年もの時を経てこの日皆に公開されたということになります。
語尾が「なり」「けり」で書かれた式辞は、今のものより
より濃く当時の空気を感じさせ、皆は真剣に聞き入りました。
この方の甥御さんは、殉職者の遺志を継ぎ、長じて海上自衛隊に入隊、
現在航海長として練習艦隊随伴艦「まきなみ」に乗り組んでおられます。
宴はたけなわでしたが、わたしは飛行機の時間があるので、一足先に会場を離脱しました。
飛行場の芝に「さぬき」と書かれていることをこの時初めて知りました。
離陸。
次に高松にくるのは一年後でしょうか。それとも・・・。
今年も戦後の日本の海の安寧を取り戻し、復興の足がかりとなった
尊い掃海活動に命をかけられた殉職隊員の皆様に対し、
追悼の誠を捧げることができたことに微かに安堵を感じながら、
わたしは翼の下に広がる讃岐の地に別れを告げました。
終わり