帆船「バルクルーサ」の甲板から一階したに降りると、
そこはすでに荷積みしてある貨物を搭載しておくデッキです。
建造以来、何度かジョブチェンジをした「バルクルーサ」は、
雇い主によって様々な貨物を運んで航行してきました。
1886年から1930年まで大きく分けると三種類の違った任務に就いた船、
ということで、このフロアではそれらの任務を船内を三つに分けて紹介しています。
1、イギリス船籍だった頃の「バルクルーサ」は13年間、木材、
麦などをアムステルダムやアントワープ、インドから運び(黄色)
2、アメリカの船主に買われてからの3年間、サンフランシスコを起点に
太平洋、主にオーストラリアとの間を往復し(緑色)
3、28年間アラスカでサケ漁を行っていました。
こうして見ると、一番過酷だったサケ漁に携わっていた時間の長さが目を引きます。
1899年頃、木材の運搬を行っていたことがあります。
「ランバージャック」というのは木こりのことで、アメリカのアニメの翻訳で
「たーおれーるぞー」
と言っている木が倒れる時の掛け声は、英語では
「ティ〜ンバ〜〜〜!( Timberrrrr!)」
と言います。
これだけをやって生計を立てていた人たちの写真がありますが、
木が巨大なほど危険も増えたと・・・でっていう。
切り倒した木は加工しなければなりませんが、それがまた
大変危険な仕事だったんですよ、っていう。
前回船の中で航路途中に生まれた「インダ・フランシス」の話をしましたが、
その頃「バルクルーサ」がインドからサンフランシスコに持ち運んでいたのは
ジュート布でした。
カリフォルニアの農家が穀物袋に使うために輸入していたそうです。
手前の箱はイタリアから輸入するオリーブオイルのようです。
「BERIO」はフィリッポ・ベリオが創始したオリーブオイルの会社で、
現在でも世界中で製品を買うことができます。
わたしが思わず色めき立ってしまったコーナー。
「ピアノがある!」
「LIVING IN STYLE!」
というボードには、当時のサンフランシスコでは、デパート
「W. & J. SLANE 」に並ぶビクトリア朝の最新型のファンシーな家具、
そして陶器に夢中になって、こぞって買い求めたことが書かれています。
デパートがあったとされるマーケットストリートは、現在でも
古くからの建物と最新型のビルが混在するビジネス街で、デパートもあります。
「コールマンズ・マスタード」のマスタードは、創業200年のイギリス企業です。
アメリカではS&Bが主流ですが、コールマンも時々見ます。
フランスから輸入されたスピリッツの木箱。
アメリカの建築業界では当時西海岸の建築物に使う窓ガラスやセメントを
ベルギーからの輸入に頼っていました。
「バルクルーサ」が1889年、アントワープから2万2千ケースのガラスを
積載して運んできたという記録があります。
ガラスは右側の図のように積み重ねて運搬しました。
右側の会社は「バルクルーサ」が運んできたガラスを売っていました。
こちらは船内で使用されていた道具など。
真ん中はストーブですね。
そしてアラスカでサケ漁をしていた頃の展示です。
後ろの木箱は完成形で、手前の積み重ねられた木材は木箱の素材です。
サーモンのオイルというのは、最近オレイン酸やDHA/EPAが取れる
サプリメントとして需要がありますが、この頃はそんな健康志向はありませんから、
普通に魚油としてマーガリン、ショートニング、あるいは固形石鹸の原料、
製革用油、重合油、ボイル油、低級塗料用油としても利用されたのだと思われます。
トマト、もも、チェリー、サヤインゲンなどの缶詰がありました。
これはもしかしたら船員の食事に使われたものかもしれません。
アラスカ・パッカーズという缶詰会社のためにサケ漁をしていた時、
漁師として乗り込んでいたのは、主にノルウェー人とイタリア人でした。
彼らに対して、アラスカ・パッカーズはまともな食事を出していたからです。
例えば、チキン、やぎ、豚など、船内のオリで飼われていた家畜は、
外人部隊である漁師と船の上層部のクルーの口にしか入りませんでした。
彼らは一日三回の食事をすることができたと言います。
しかしながら、船には「下層」の乗組員がいて、ほとんどが中国人でした。
彼らを雇うのも中国人の請負人で、中国人の他には日本人、フィリピン人、
アラスカ原住民、メキシコ人に黒人といった人種がこのクラスでした。
彼らは錆びたブリキの食器などで1日二回食事をしましたが、
「バター、フルーツ、デザート、みずみずしい野菜やミルクなどは
決して口に入らなかった」
イタリア人とスカンジナビア人の漁師たちが自由に食べられた、
ジャムとバターなどが欲しければ、彼らは自分で買わねばなりませんでした。
そして、船尾の一部分のこの寝台で寝起きをしていました。
実際にこの場に立ってみると、風は防げず、おそらくアラスカでは
さぞ劣悪な環境であったと今でも思われます。
辮髪をした船員もいます。
キャンバスのカーテンのようなもので寒さを防ぎ、
皆で身を寄せ合うようにして固まって生活していたのでしょう。
もちろん風呂など航海中は一度も入れるわけがありません。
おまけに彼らの仕事はは採れた鮭をほとんど手作業で捌くような
いわゆるダーティジョブだったため、おそらく彼らの居住区は
悪臭紛々かつ酸鼻を極める状態であったでしょう。
「奴隷よりほんの少しだけマシな生活」
彼らの扱いはそのようなものでした。
ここで働いていた者が「錆びたブリキの食器」で食べていたといっているのですが、
ここには中華風の箸や食器がおそらく雰囲気を高めるために置いてあります。
彼らがこのように自分の食べたいものを自分で作れるような立場ではなかったことは
残されている証言からしても明らかなのですが。
彼らは嘘しか言っていませんでした。
あなたは、もし我々がここでの実態を知っていたら、
それでもここにやってきたと思いますか?
想像してください。
船の船首部分の隅には100個くらいの寝床の棚があって、
労働者は人種によって分けられているのです。
空いている寝床はほとんどありませんでした。
この寝床は「チャイナタウン」と言って、最初の頃は、缶詰め労働者は
中国人であったことを表しました。
左の写真は、天気のいいある日、中国人労働者通称『チャイナ・ギャング』が
船首付近で賭け事をしている様子です。
どんなに劣悪な労働環境であっても、ここで働くしかない人たちが
ここにはたくさんいたのです。
横からしか見られないので中身がイマイチよくわかりませんが、
これは、
「サーモン・ブッチャリング・マシーン」 (鮭処理機械)
です。
残酷なことに、この機械の正式名称は、
「Iron Chink」(アイアン・チンク、鉄の中国人)
と言ったそうです。
チンクとは、もちろん中国人の蔑称です。
エドムンド・スミスという人物が特許を取ったこの機械は、
先ほどの中国人居住区「チャイナタウン」の真横に置かれ、
四六時中ここで中国人労働者が鮭の解体を行っていました。
当時でさえ、このあまりに人種差別的な名称は世の顰蹙を買ったため、
1912年に名前は
「スミス・ブッチャリング・マシーン」
に変えられました。
メーカーの触れ込みによると、操作に必要なのはたった二人で、
しかし機械の性能は15人分の働きに相当する、というものでしたが、
中国人労働者の賃金の目を覆うばかりの安さを考えると、
あまりコストカットにはならなかったかも・・・
あ、それを中国人に操作させていたのか(苦笑)
しかも、この機械でできることは限られていて工程の一部に過ぎず、
頭を取ったり、ヒレや内臓を取り除いたり、という仕事は
全部手作業で行わなくてはいけません。
というわけで、こちらの仕事には
「鉄でない中国人(ノン・アイアン・チンク)」
がやはりたくさん必要だったというわけです。
差別意識とかいう以前に、当時のアメリカ人は、有色人種を
言葉が通じて人間の仕事ができる動物程度に思っていた、ということです。
日本が日清・日露戦争に勝ち、国際的に台頭してくるのを
苦々しく思い、何が何でも日本を潰そうとしていた彼らの意識の中には
この船の中の白人種とそれ以外の扱いの違いに表されるような
「そもそも有色人種は我々と同じ人間ではない」
という価値観からきた、恐るべき傲慢さと驕りが、国家首脳から
末端の民衆に至るまで拭い難く染み付いていたということなのです。
あまりの労働環境のひどさに、流石のアメリカでも問題になったという
当時の有色人種船員の扱いが偲ばれるこの部分の展示を見ていて、
わたしは何やら陰鬱な、やりきれない気持ちになってしまったのでした。
続く。