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ピッツ、コルセア、キティホーク〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館の展示について
いよいよお話する時がやってきました。

予告編?でもご説明した通り、スミソニアンの
航空宇宙博物館はワシントンの中心部にある本館と、
ダレス空港の近くにある別館で構成されています。

どちらも訪問してみて、当ブログ的には何と言っても
第二次大戦時の世界の航空機が充実している別館から
お話するべきだと思いました。

空港から約15分の距離にある別館。
昔は本館と別館の間をシャトルバスが運行していたそうですが、
今では空港と別館の間だけになっています。

こちらの建築についての言及は見つかりませんでしたが、
本館の建築を設計したのはギョウ・オバタという日系人建築家です。

経歴だけ見ても蒼々たる有名建築を手がけているのがわかります。
2018年現在95歳でまだ健在だそうです。

別館は15年前の2003年にオープンしました。
正式名は

スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター
(Steven F. Udvar-Hazy Center)

といい、スミソニアン協会に6500万ドルを寄付した人物の名前です。

ここを開けると、すぐに金属探知機があり、荷物検査を受けます。

ウドヴァー・ヘイジー氏はハンガリーのブダペスト生まれ。
12歳の時に家族と移民してアメリカにやってきて、
長じて飛行機のリースを専門とする

インターナショナル・リース・ファイナンス・コーポレーション (ILFC)

を創立し、CEOを勤めていた人物です。

別館のエントランスをまっすぐ進んでいくことにしましょう。
このエントランスの右手にはIMAXのシアターがあります。
ここで出発前に「空母のお仕事」というとてもわたし好みの映画を観ました。

正面には

BOEING AVIATION HANGAR(ボーイング航空機格納庫)

とあり、その上に皆様をお迎えするべく紅白の
非常におめでたい柄の飛行機が展示されています。

こ、これは・・・まるで旭日旗ではないですか。
さあ、旭日旗柄とみれば太陽にも文句をつける何処かの反日国の人、
スミソニアン博物館別館に今すぐ電話するんだ!

というのはもちろん冗談ですが、(あの人達は冗談通じなさそう)
当時ももちろんこの色柄で空を飛んでいたわけですね。

白黒写真のコクピットに女性の姿があります。

ピッツ・スペシャル S-1C リトル・スティンカー


スティンカーって・・・「臭い奴」って意味だよね?
もしかしたらスカンクとかを意味するのかしら。

それでは説明を読んでみます。

現存する中で一番古いピッツ・スペシャル「リトルスティンカー」は、
カーティス・ピッツによって作られた二番目の飛行機です。
ピッツが最初のS-1を世に出したのは1945年で、この一番機は
1960年代から1970年大の曲芸飛行のシーンで有名になりました。

その理由は機体が小型で軽量、回転半径が小さく、敏捷だったからです。
この後継型は現在でもエアロ飛行の現場で基本となっており、
その頃よりさらに進化した曲芸のトレーニングにも対応しています。

ところで、この写真の女性は誰でしょうか。

Betty Skelton Frankman Erde (June 28, 1926 – August 31, 2011) 

ベティ・スケルトン(フランクマンとエルデは彼女の二人の夫の名前)は

「初めてのファーストレディ」(First lady of firsts)

というあだ名を持つ記録マニア、いやホルダーでした。
見ての通り飛行機での記録だけでなく、テストドライバーとしての記録、
そして曲芸飛行士であり、スタントマンであり、ナレーターであり、
編集者であり、GMの広告のディレクターであり、
宇宙飛行士のテストも受けたという・・・・。

つまり、スピードに関するものならなんでもおk、という
文字通りのファスト(fast)レディだったというわけです。

彼女は宇宙飛行士の適性テストに合格しており、当時女性はまだ
宇宙飛行士に採用する計画がなかったので実現はなりませんでしたが、
マーキュリー計画の宇宙飛行士たちとは大変意気投合したようで、
彼らから「マーキュリー7」をもじって、

「マーキュリー7½」

と呼ばれていたといいます。
おそらく彼らからも「一目置かれていた」のではないでしょうか。
頭のいい人ならではのユーモア溢れる人物だったようで、
「リトルスティンカー」という名前も彼女の命名だろうと思われます。

ベティ・スケルトンはこの飛行機を1948年に購入し、49年度、
ならびに50年度の国際女性エアロバティック・チャンピオンシップで
見事優勝を果たしています。

彼女の飛行技術とその完成度はピッツのデザインと機能を
大いに世間に知らしめることになりました。

「リトル・スティンカー」は1951年に一度売却されましたが、
彼女と彼女の夫はこれをスミソニアンに寄付するために買い戻しました。

ボランティアが5年がかりでこれをレストアし、ここにあるというわけです。

ちなみにベティ・スケルトンは機体がここに展示された2001年、
看病中の最初の夫を亡くしましたが、2005年、79歳で、
海軍で外科医をしていたアラン・エルデ博士と再婚しています。

共に80代の夫婦は余生をフロリダのホームで過ごし、彼女は
髪の色と同じ赤いコンバーチブルを85歳で死ぬまで運転していたそうです。

「ミッドウェイ」のハンガーデッキの機体をご紹介したことがありましたね。

ヴォート F4U-1D コルセア

コルセアは、エントランスをまっすぐ進んで行くと目の前に現れます。
スミソニアン別館は、二階から入って行く作りになっていて、
このようにまるで空中を駆けているかのような状態で牽引されている
コルセアに目を奪われて歩みよると、いきなり眼下には
最初に来る人ならあっと声を出してしまうくらいたくさんの航空機が
所狭しと並んでいるという仕組みです。

誰が考えたか知りませんが、心憎い演出だと感心しました。

右手はこんな感じ。
わたしが思わずこの眺めに嘆声したのもお分りいただけますでしょうか。

しかもスミソニアン別館、この反対側にはこの約二倍のスペースが広がり、
正面にはそれと同じくらいのスペースシャトルの展示場が広がっているのです。

果たして飛行機の出発時間までに全部見終えることができるのか?
驚くと同時にに不安になってしまいました。

この画面でもお分かりのように、ハンガー状の展示場は、両脇に
緩やかなスロープになったデッキが設えてあり、地面の高さからだけでなく
上から航空機を眺めることができます。

さて、ここにあった説明を読んでみました。
いきなりV-J Day(対日戦勝利の日)という言葉が出てムッとします(嘘)

1945年9月2日のV-Jデーまでに、コルセアパイロットの日本機に対する
キルレシオは11:1というものでした。

ムッとはしませんが、どうしてもこういうのを見ると日本人としては
完全に平静ではいられない心のざわめきを感じてしまうの。

キルレシオというのは1機に対する彼我の損失率で、つまりこれは
コルセア1機で日本機を11機撃墜したという意味です。

 機体の独特かつ独創的な逆ガルウィングのデザインは地上高が高く、
3枚のブレードを持つハミルトン・スタンダード・ハイドロマチックプロペラは
4メートル以上の巨大なものでした。

プラット&ホイットニーR-2800エンジンとハイドロマチックプロペラの
組み合わせは、これまでで最も大きく、史上かつて存在した機体で
これほど強力な動力を搭載していた戦闘機は他にありません。

あのチャールズ・リンドバーグは、海兵隊エア・グループ31にいた時
太平洋上の日本軍の拠点に対し、このコルセアで爆撃を行っています。

そうだったんですか!?

リンドバーグは戦争でアメリカ軍兵士が行った酷い所業を見たらしく、
それを告発するような発言をしていますし、ドイツに知己が
(最近DNA鑑定でドイツに子供が三人いたことがわかった)いたせいか、
思想がドイツ寄りだったせいで、彼の戦功らしきものは現在のアメリカで
全くなかったことにされているんですよね。
アメリカのユダヤ人団体が運動したからだとか。

ところで今wikiを見てびっくりしたのですが、リンドバーグさん、
1970年の大阪万博の時に来日していたそうです。

戦前から二度目の来日だったことになります。

この飛行機は1944年7月当時、USS「エセックス」にあった、
海兵隊の近接航空支援戦闘機隊の「サンセッター」仕様にペイントされました。

近接航空支援(close-support fighter)とは、火力支援目的に
行われる航空作戦のことを指していいます。

そういえば、ここでご紹介したオヘア空港の名前になった
チャールズ・オヘアは、

「F6FはF4Uの相手にならない。F4Uこそが海軍最高の戦闘機だ」

と言ったとか言わなかったとか。

では『風が吹けばオヘアが儲かる』と言ったのは誰?←内輪受けネタ

冒頭写真に一緒に写っている関係でもう一機ご紹介しておきます。

カーティス P-40E キティーホーク

しかし、いろんなところでこのサメペイントを見ましたが、
さすがはスミソニアン別館、ここにあるキティちゃんの顔、
他のどこよりもちゃんとしていて上手いではないの。

手描きなので結構デッサン狂った不器量な子もいるんですよね。


ところでこのカーティスのP-40には「キティーホーク」の他に

「トマホーク」「ウォーホーク」

がその型番ごとにあるのを皆さんはご存知でしょう。
トマホークはご存知のようにインディアンの武器だった斧のこと、
そしてウォーホークは「タカ派」のこと。
それでは、キティーホークとは?

わたしなどにゃんこ関係か?とつい考えてしまったのですが、
なんのことはない、キティーホーク、地名です。
地名は地名でも、ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばした場所ですが。

語尾を「ホーク」で統一しようとしたけど案外ネタがなくて、
そうだ、ライト兄弟の初飛行のあそこ、ホークがつかなかったっけ?
みたいなノリで決まった名称という気がします。


このホーク三兄弟は、いずれも航空機として第二次世界大戦の
前半期における成功を収めたと言ってもいいでしょう。

シャークマウスのトマホークは、中国大陸で日本軍と戦った
クレア・リー・シェンノート元帥の「フライング・タイガース」機として
最も大戦中有名になった機体です。

P-40のパイロット、ボイド・D・ワグナー大尉は、1941年の12月中旬、
フィリピンで日本機を6機撃墜して初めてのエースとなりました。

アメリカの媒体で「フライングタイガース」の記述を見ると、いつも
それが「真珠湾以前だった」ことが書かれているかチェックするのですが、
ここの展示も含め、それに言及されているのを見たことがありません。
意図的にそれはアメリカでは触れないことになってるみたいですね。

それから、あのジミー・ドーリットル少佐は自分専用機として
シェンノートにP-40を所望し、移動に使っていました。

ついでに「紫電改のタカ」のジョージの兄トマス・モスキトンも、
黒いウォーホークで滝城太郎に復讐するために・・って誰も知らないか。


機体としてはごく平均的で変わったところのないのが特徴といえば特徴、
というP-40でしたが、その普通さが大量生産を可能にし、その結果
戦地に安定して送り出すことができたのも成功の一因のような気がします。

アメリカ人にはもしかして当たり前だったのかもしれませんが、
日本軍がこの飛行機を鹵獲しておそらく内心ショックを受けたのは、
飛行中にトイレができるように外に出せる蛇腹の管がついていたことだそうです。

戦闘機について詳しい方は、そのあたりの生理的なことを
日本機は全く顧みていなかったことも当然ご存知ですよね。

パイロット本人たちの生理的な苦痛もさることながら、
帰投してきた機の整備(掃除)をする整備員の苦労はいかばかりだったか。

最低限の人間工学を無視していいはずはないのですが、やっぱり
日本はそれどころではなかった、ってところに帰結するんでしょうか。

なんかやりきれんなあ・・・。

ここにある機体は1946年まで第111航空隊、カナダ空軍、
アメリカ空軍、個人と所有が移り、1975年にレストアされて
第75戦闘機隊、第23戦闘機群、第14空軍で飛び続けました。

最後の第14空軍は、空軍予備役の部隊です。


さて、この階段を降りていったところに、最後の写真にもちらっと見える
あの航空機が、その存在感も禍々しく(ごめん)存在しています。

 

続く。


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