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総短艇用意・・・?〜海上自衛隊幹部候補生学校訪問

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かつて海軍兵学校があった広島の江田島は、現在でも第一術科学校と
それに併設される幹部候補生学校があり、海上自衛官の「原点」です。

わたしが海軍の史跡を求めて最初にこの地に訪れてから、何度目になるでしょうか。
またしても江田島にやってまいりました。

今現在、地図を見ると、旧海軍兵学校の敷地の住所は「無番地」、
「第一術科学校」が正式名称になっています。
江田島には第一術科学校と幹部候補生学校があり、どちらにも
校長が一人ずついて、つまり「別の組織」ということになるのですが、
今回幹部候補生学校の校長に伺ったところ、第一術科学校と称しているのは

「幹部候補生学校が間借りしている形」

だからなんだそうです。
メインたる第一術科学校は艦艇職域の術科の教育をする組織です。

しかし、赤煉瓦の校舎や海軍兵学校と同じ卒業式を行うことから、
一般には江田島=「幹部候補生学校」のイメージで捉えられていそうです。

広島空港から車で江田島まで。
アレイからすこじまを見ながら行く道はいつも渋滞するということで、
高速を降りてから音戸の瀬戸まで東の海岸沿いを走りました。

この眺めがなかなかのものです。
重なり合って見える瀬戸内の島々と波のない穏やかな海。

車の窓からガラス越しに撮った写真ですが、よく見ると画面中央下に
かなり大きな白い「エイ」らしい影が写っていますね。

そういえば、知り合いが瀬戸内海でウィンドサーフィンをしていた時、
自分の真下を4畳半くらいの大きさのエイが横切ってゾッとした、
と言っていたことがあります。

大きな島は「情島」。

右側の半島の先にあるのも情島で、「大情島」「小情島」と呼び分けます。
どちらも離島で、面積は0.69km。
大情島の方は有人島で、グーグルアースで見たところ、建物は
せいぜい10軒といったところ(2010年現在では6世帯9人)。

戦後は引き揚げ者とその家族が200名ほど住んでいたのがピークで、
その後は減る一方だそうです。

実は、この島、大東亜戦争中には「海軍さんの島」と呼ばれていて、
特四式内火艇を使った奇襲作戦、あの黒島亀人が発案したという
「竜巻作戦」の訓練基地「Q基地」がここに置かれていたそうですが、
輸送船が攻撃されたりして、結局作戦の実行には至っていません。

有名な呉空襲の写真にもこの大小の「情島」が写っています。

上の写真ではちょうど角度的に見えませんが、この写真の
島の北側に写っている船は浮き砲台になっていた戦艦「日向」です。

呉大空襲では「日向」はアメリカ軍の波状攻撃によって艦長は戦死、
乗組員約1000中204名が戦死、重軽傷者600名、着底大破しました。

wikiに上がっている米軍の撮影した「日向」の艦橋の写真を見ると、
むしろよくこれで死者が200名余で済んだなという印象です。

現在、かつて「日向」を望んだ島の北側には
(少し凹んだように見えるところ。Googleアースでも確認できる)

“日向殉忠碑” “軍艦日向戦没碑”

という慰霊碑が建立されているということです。

海辺に人影あり。
両手に海藻を持っていますが、これも「漁」なのでしょうか。

何れにしても、2019年現在見られるとは思わなかった風景です。

さて、広島空港から2時間弱のドライブで江田島に到着しました。
車のまま構内に入っていくと、作業服を着た幹部候補生の一団が
目を引くくらいの勢いで、「表門」のある岸壁に向かって走っていきます。

それはもうほとんど全力疾走。

非常呼集がかかったようなこの勢い。何があったのでしょうか。

「総短艇がかかったのかもしれません」

「総短艇」という言葉は海軍兵学校のことを書いたような本や資料で
目にすることもあった単語ですが、一緒にいた自衛官に聞いてみると、

「『総短艇用意』の号令がかかると、何をしていても中断して、
ダビッドまで走っていき、短艇を下ろしてコースを回って帰ってくるのです」

グラウンドを左回りしてダビッドのあるところまでやってきました。
わたしたちにはわかりませんが、ちょっといつもと様子が違うようです。

「ちょっと降りて見てみましょう」

「ええっ、皆さんの邪魔になりませんか」

「大丈夫ですよ」

車から降りて後ろから回り込む感じで岸壁に近づいていきました。

「総短艇ではなかったようです」

なんでも総短艇とは、

「予告なく開始される競技であり、号令を出す方と出される方の
『腹の探り合い』の丁々発止があるんですよ」

「腹の探り合い、とは?」

「時間を選ばず行うというものの、そろそろ来そうだなとか、
号令を出す側もその予想の裏をかいたりするんです」

思わぬ時に発動して「ハットトリック」をかますと、
それは「かました側の勝ち」ということになるんでしょうか。

最近では流石に「いつでも」というようなことはなく、
やはり中断できない作業とかもあるわけなので、
以前より予想は立ちやすくなっているのではと思われますが。

Wikipediaによると、

かつては時間を選ばず行われていたが、近年は起床後や昼休み、
もしくは「別課」と呼ばれる時間に行われる傾向にある。
また、金曜日の外出点検時や、入隊予定者見学のような
広報実施時に行われることもある。

だそうです。

もちろんネーミングもその内容も、ここ江田島の海軍兵学校伝統で、
だいたい月3回といったペースで行われることになっています。

なぜそんなことをするのかというと、それはもちろん、いつ何時でも
「出撃」する戦闘準備態勢をいつも身体に染み込ませるため。

「総短艇」といっても、全ての幹部候補生が行うのではなく、
学生隊1隊の中の分隊が競い合うことになります。

ちなみに第1学生隊は「A幹」といい、防大卒と一般大卒。
第2は「B幹」、いわゆる「部内」か航空学生、公募幹部。
そして第3がC幹、部内選抜の海曹長以上准尉以下となります。

C幹になると、年齢はA幹の2倍くらいの人もいるのでしょうか。
若者と同じように「いきなりダッシュ」して心臓発作とか脳梗塞とか大丈夫なのか?
と心配してしまいますが、自衛官だけあって日頃鍛えているのでしょう。 

「総短艇用意」でカッターを降ろした場合は、沖を回ってくると
表桟橋を目指し、終わると櫂を立てます。

戦前の「海軍」という真珠湾の軍神の一人を主人公にした映画で
総短艇がかかり、主人公と同じカッターの生徒が櫂を立てるときに
ばったりと死んでしまうというシーンがあったのを思い出します。

そのシーンが撮られたのももちろん海軍兵学校時代のこの同じ場所です。

ここに立って周りを観察して気づきましたが、彼らは
グラウンドからこのコンクリート部分に上がるとき、
靴を脱いで裸足になり、そのまま作業を行なっていました。

つまりカッターは裸足で漕ぐんですね。当たり前か。

でも冬とか寒いだろうなあ。

それでは「総短艇用意」ではないのにどうしてあの一団が走っていたかと聞くと、
つまりその発動に備えて練習をしていた、ということらしいです。

走っていった一団はボートを降ろすところまでは行なっていないようでした。


この写真を見ると、舵取りをしているのは女子候補生のようです。
今では兵学校と違い、女子自衛官が普通に混じっているわけですが、
男性と全く同じ作業をこなすのは、口で言うほど簡単ではなさそうです。

女の子は冷え性も多いし、裸足の作業は辛いだろうなあ・・・。

さて、その日の晩は、江田島の料亭で食事をいただく予定になっていました。
夕日の沈む江田内を眺めながら走っていきます。

これも海軍兵学校時代からの伝統である遠泳はこの江田内で行われ、
だいたいこの辺りまでは泳いでくることになっているようです。

防衛大学校でも遠泳は行われますが、太平洋の荒波を受けるこちらの方が
波のない江田内と違って色々と大変そうな気がします。

また、このとき聞いたのですが、江田島は昔Yの字の形の右側
(江田島)と左側の能美島と言う別の島に分かれていて、
浅瀬で隔てられていたのですが、昭和の初めに埋め立てられて
現在の地続きになりました。

こんな大掛かりな工事をしたのは海軍ではないか?と思うのですが、
その辺りについてはネットでは検索できませんでした。

この日のお食事処は、これも海軍時代に「レス」だった「坪希」でした。

創業約130年で海軍御用達、と言うことは当然ながら、
兵学校勤務の軍人もここで盃を傾けたということです。
昔は「エス」(芸者)さんもきたかもしれません。

そもそも江田島に兵学校ができたのは、俗世から離れ、
ネオンの巷の誘惑がないような僻地だったからと言うのも理由の一つで、
兵学校の映画を撮りにきたクルーなどは撮影中あまりの「無菌」ぶりに耐えかね、

「もとの田沼の濁り恋しき」

とばかりに不便を承知で呉・広島から通っていたと言う話があります。

外部の人はそれでいいですが、問題は兵学校に勤務している士官たち。
たまには羽目を外したいではないですか。
というわけでそのニーズに答えたのがここ坪希だったのではないでしょうか。

130年くらい前というと、1888年頃、つまり明治21年ごろです。
ちょうどこの年、海軍兵学校は東京の築地から移転してきており、
明らかにこれは「兵学校関係者の要望に応じて」か、「関係者狙い」
のどちらかで開業した料亭だと思われます。

現在の料亭のHPにはその歴史については何も触れておらず、
ちょっと残念な気がします。

呉の「五月荘」(隠語;メイ)のように、当時の写真などがあるなら
ぜひ見たいものですが・・・。

古い木造の和室の宴会場に通されました。
前菜としてもうすでに新鮮なお刺身が並んでいます。

これだけでもわたし一人なら十分、という量ですが・・・。

どおおおお〜〜ん。

思わず嘆声を上げてしまったカワハギのお造り。
羽を広げた鳥の姿を刺身でかたどっていて、外人さんなら
マーヴェラス!となってしまう美しさ。

カワハギの肝も付いてきて、これを醤油に溶かし、
白身をちょいとつけて食べるとヘヴンリーな味わいです。

そしてこれは外人さんならかなーり引いてしまうかもしれない、海老の踊り。

女将が見せてくれたざるの上では、海老の皆さんが、よくよく見ると
口から泡など出しながらまだ元気に動いています。

決してこういうのは平気ではないですが、生で食べるかと聞かれると
一も二もなくイエスと答えてしまうのが日本人のDNAってやつですね。

すると女将さんが海老の頭を取り、皮を剥いて小皿にヒョイっと入れてくれます。

「ひえ〜まだ動いてる・・」

口の中で暴れられたらちょっといやだなあと思いましたが、それはなく、
新鮮すぎる海老はとろけるような甘さ、プリプリした歯ごたえ。

生が苦手な人もいるわけですが、ナマ食を逃れた海老も、
揚げられて頭から尻尾まで食べ尽くされる運命です。

当料亭の名物でもある鯛の塩釜焼。

自衛官ばかりだと、塩を卓で豪快に「かち割る」そうですが、
今日は前もって塩を割ってから持って来られました。
鯛には塩が染み込んで、何も付けず食べることができます。

皮は取ってしまうのですが、同席の方が一人

「皮が美味しいんだから!」

といって皮だけを所望し、一口食べて

「やっぱり辛かった(´・ω・`)」

となっていました。
いかに辛党でもちょっと無理だったぽい。

天ぷらや肉の小鍋の〆は、じゃこご飯です。
たっぷりのチリメンジャコに野沢菜を入れて炊き上げたご飯。

お腹がいっぱいでしたが、食べられてしまいました。
残った分はおもたせにしてもらい、次の朝ご飯にしました。

 

江田島には料亭と呼べる料亭はほぼここだけらしく、
江田島の自衛隊関係者はよく行く人ならシーズンに3回は来るそうですが、
女将は日を分かたず来た人に決して同じものを出さないそうです。

お昼はランチもやっていて、自衛官の奥様軍団が昼食会に訪れることもあるとか。

全国にあった「海軍御用達のレス」は、戦後もとりあえず
自衛官などが贔屓にして存続してきたようですが、やはり代替わりしたり
客足が昔ほどではなくなり、ほとんどが閉店してしまいました。

最後に残っていた超有名店、横須賀のパインこと「小松」も
何年か前の火事で全焼してしまい、廃業。

今残っている「レス」は呉の「メイ」とここぐらいではないか、
という話でした。

ご覧に入れたような昔ながらの新鮮な海の幸を使った料理が
その豪華さからは信じられない値段でいただけますので、
みなさま、江田島にお出かけの際には宿泊もできる「坪貴」にぜひどうぞ。

今年中には宿泊施設の改装も完了するそうです。

 

続く。

 


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