さて、「坪貴」で地元の海の幸をたっぷりと味わった後、
実は皆でカラオケのできる地元のバー(スナック?)に行きました。
そもそも、そのスナックというのも某海将の奥方の親戚(姉妹?)がやっていて
術科学校勤務自衛官御用達の店なんだとか。
カラオケ好きのTOは大張り切り、同席の方の中にはギター持参の方もいて
(坪貴からお迎えのバスが来た時、ギターを持っている人がいたような気がして
まさかと思い何かの見間違いだろうと思ったら本当だった)
そのギターの生オケでこの日初めて聴いたのが
「え・た・じ〜まが 好きじゃけん〜」
というちょいラップ調のご当地ソングでした。
江田島が好きじゃけん/753Φ (なごみ)
地元の市役所職員が手がけたそうで、覚えやすく馴染みやすい曲です。
ところで、今回の訪問では、自衛隊ことに若い候補生について、
中の人である自衛官から多岐にわたって伺う機会があった訳ですが、
やはり年配の自衛官たちは、
「今の若い者は昔と違う」
という目で若い人を見ていることがわかりました。
全般的な傾向として、若者の「草食化」が言われている昨今ですが、
自衛官を目指す若者にも明らかな草食化が見られるのだそうです。
その表れとして、
「あまりお酒を飲まない」
これはあくまでも話をしてくれた佐官クラスの自衛官が、
自分の若い時と比べて言っているので、比較にすぎませんが、
一般社会でも、会社の飲み会などを極力避ける、宴会は好まない、
上の人とお酒を飲んでも楽しくないので行かない、という傾向が
特に平成後期になって顕著になってきたと言います。
そしてここ江田島の候補生も皆とは言わないけど、
お酒そのものを飲まなくなっているとか。
飲むとしてもコンビニのイートインでお酒を買って飲んだり。
「それは”コンビニ飲み”ですか・・・」
「しかしコンビニでお酒飲んで楽しいんですかね」
こんなお酒の飲み方をする人類には、雰囲気とか語らいとか、ましてや
女性を侍らせてお酌をさせることの意味など全く理解できなさそうです。
いや、しかし、自衛隊にはお酒好きそうなイメージがいまだにあるぞ。
特に陸自。
「陸自は『宴会多め』だと聞きましたが」
今現在のところ、陸自のことをうかがい知るための重要な情報源の一つ、
「トッカグン」で仕入れたネタを元に聞いてみたところ、
「海自は陸空にはない『下宿制度』というものがありまして、
週末には下宿に行ってしまうので、みんなでの宴会になりにくいのかと・・」
「下宿」は海軍兵学校に関するものを読んでいると必ず出てくる言葉で、
江田島には今でも幹部候補生を週末だけ寄宿させる「下宿」が存在し、
車で走っていると、時々民家の軒先に
「下宿 3000円」
とかいう看板がかかっているのを見かけたりします。
下宿は、昔兵学校の生徒を下宿させていた同じうちが、いまだに
幹部候補生の下宿をやっているという例もあるとか。
「ウチ(第一術科学校)は一番地元とうまくいっているんじゃないでしょうか」
海軍の街として栄えた呉よりも地元との関係は良い、と
当の海上自衛官が胸を張って言えるのは、ここ江田島は「赤煉瓦の住人」との間に
長年にわたって築かれてきた絶大な信頼関係で結ばれているからです。
ところでこの写真をご覧ください。
前回日没後に江田島を訪れたとき、
「夜の江田島を見てみたい」
とお星様にお願いしておいたのですが、今回、それが叶いました。
まさに夜の江田島構内を歩くことができたのです。
もちろん忍び込んだわけではなく、正当な理由あっての入門ですので念のため。
幹部候補生は夜、構内といえども外を歩き回ることはできないそうですが、
理由あって偉い人と一緒にいるのなら大丈夫。
この時、物影を歩いている自衛官の姿を見かけましたが、聞いたところ
職員(つまり自衛官)だということでした。
昨年の水害直後作られ、それ以来ここにあるという
「がんばろう江田島」
の大きな布バナーも夜の灯りの中でなかなか幻想的です。
実は、坪貴の後に流れた術科学校近くのカラオケ屋(スナックか?)で
われわれ一同が盛り上がっていると、ふらりと一人で現れたお客が、
何を隠そうこのバナーの「仕掛け人」だったと知りました。
地元で会社経営をしておられる方で、自衛官とも顔見知り、
このように江田島の自衛隊を応援しているとのことです。
かつて海軍兵学校時代に、江田島で火災や台風の害があると、必ず
すぐさま隊伍を組んで生徒たちが「地響きを立てながら」到着し、
キビキビと活動を行う姿を住民たちは見てきました。
現在でも一度地元が災害に見舞われると、現役の自衛官だけでなく
幹部候補生たちも出動し、災害地で救難活動や復興に活躍しています。
「江田島の海軍さん」に対する信頼は今日も全く変わることがありません。
今回、解説付きで見学させていただいた教育参考館のホールには、
先の水害への海上自衛隊、特に術科学校と幹部候補生学校が派遣された様子が
パネル展示されていました。
(卒業式で江田島に行かれる方はぜひご覧いただきたいと思います)
その時にこんな話を聞きました。
水害により大きな被害を受けた地域に出動した第一術科学校が
水没した一角にある一軒のお宅の普及作業を行いましたが、
このうちは、明治時代、兵学校が築地から移転してきた際、
校舎建設のため立ち退きを要求されてそこに引っ越しし、それ以来
ずっとそこに住んでいた人の子孫だったのです。
パネルには、作業を行なった地域の地図がが家主の名前を添えて掲示されており、
術科学校長が指をさして
「このお宅です」
「どうしてそのことがわかったのですか」
「作業をしていたら向こうからお礼とともにそのことを言って来られました」
そこで術科学校長はその方にこう言ったそうです。
「100年経ってやっとご恩返しができました」
夜の赤煉瓦生徒館は、まだあちこち電気がついています。
候補生がまだ勉強しているのかもしれません。
相変わらず歩きながら適当にシャッターを切ったので残念な画質ですが、
二階の幹部校長室と応接室の電気が消えているというレアな光景。
「一つ、至誠に悖るなかりしか」
で始まる「五省」を候補生が唱える時間にはまだもう少し間がありそうです。
夜の教育参考館。
「何か写るかもしれませんよ」
わたしがせっせとカメラを向けていると、そんなことを言われました。
「何か」というのはもちろん、幽霊とかのことです。
幽霊といえば昔、江田島の「怪談話」について少し書いたことがあります。
どれもあまりその前提が怪しすぎて、怖がろうにも今ひとつリアリティに欠ける、
というネタだったので、いちいちツッコミを入れてしまったものですが、
その後耳に入ってきた話によると、やはりそれらとは全く別に、
「江田島には出る」
のだそうですね。
もとい、誤解を招いてはいけないので、出るという噂は絶えない、としましょう。
硫黄島では「見える人」に言わせると出るのがほぼ当たり前で、
ご飯を食べていたら目の端に旧軍軍人が腰掛けてやはり何か食べていたりするとか。
(もちろん何も感じない人もいる)
ここでもやはり出そうなところ、特にここ教育参考館では
いるはずのない人の気配を感じた、などという話はしょっちゅうあるのだそうです。
でもそんな幽霊を見たとか見ないとかの話なんて、仲間内で
ヒソヒソささやかれるくらいであくまでも噂にすぎないとされるのが
一般社会の表向きの姿じゃないですか。
それが、この霊現象に対し、海上自衛隊が組織として「対処」をしていたとすれば?
そう、本当に・・・・あったんですよ・・・・
ある内部の方から聞いた「本当の話」をしましょう。
かつてここ第一術科学校では、お祓いが実際に行われたことがあります。
内部職員からの、(候補生もいたかどうかは聞きそびれた)
「あそこに行くと必ず何か出る」
「ここで寝ると必ず夜中に・・・」
という「報告」が上に上がってきたことを受けての作戦発動でした。
具体的には、おそらく内部の人ならご存知だと思いますが、
長らく物置になっている古ーいあの建物と、あとは個別の寝台など。
近隣の神社からゴーストバスターズ、じゃなくて神職が召喚され、
個別具体的にお祓いを実地し、塩を撒きお清めを行いました。
「だから今は大丈夫です」
それを語ってくれた方の、このあまりにもきっぱりとした言葉を聞き、
逆に、そんなもんなの?と不安になったわたしですが、この日の夜、
暗がりも含めて撮った一連の写真には何の不審なものも写っていませんでした。
ピントが甘すぎて写っていてもわからないだけでは?という説もありますが。
しかしここに出るからには、それはここを魂の故郷として座(おわ)す
海軍の、あるいは海上自衛隊関係者の御霊に決まっています。
というわけで、わたしのような者は
「お会いできれば光栄!いつでもご遠慮なくお出ましください!」
と割とマジで考えていたりするわけですが、そんな奴の前には
幽霊の皆さんというのは、案外出てきてくれないもののようです。
続く。