平成30年度の幹部候補生が各課程を終了後、
大講堂で任官任命を受け、その後赤煉瓦の生徒館から
かつての海軍兵学校の卒業式と全く同じ表桟橋に続く道を行進し、
内火艇に乗り込みました。
わたしたちは地面に指定された「お立ち場所」から、
新任幹部を見送る表桟橋まで誘導されて歩いて行きました。
見れば海幕長と学校長が用意された双眼鏡を渡され、
見送りの準備をしている真っ最中です。
とりあえず赤いテープの後ろに立てばいいらしく、
指示されるがままに位置を決めるとちょうど広島市長の後ろでした。
赤いテープから桟橋の柵までは5mくらいあるので、
どうしても柵が写り込んでしまいます。
しかもこの右側の柵には報道などのカメラマンがぎっしりと立っていて
どうやっても人垣が邪魔になります。
つまり、写真が目的なら表桟橋はあまりおすすめできません。
というか、来賓の立場でまともな写真を撮ろうとするのが大きな間違い?
艇上には表桟橋から乗り込んでいった幹部たちが
身じろぎもせず起立して、出航を待っています。
出航は、海幕長と学校長が用意を済ませ、壇上に立つと行われます。
出航の合図があり、新幹部たちが敬礼を行うと同時に各内火艇が岸壁を離れ始めます。
「帽(ぼーう)振れっ!」
音楽隊の演奏する「蛍の光」(オウルド・ロングサイン)が鳴ると同時に
艇上の卒業生たちと見送りの間で帽振れが行われます。
わたしの場所からは内火艇の帽振れが見えないので諦めて、その代わり
隣にいた第一術科学校長と江田島市長の帽振れを撮らせていただきました。
後ろからスマホで写真を撮る手が出ていますが、これはどこかの軍人のもの。
そんなことをしていると、海将補に「こちらにどうぞ」と
右側の人と人の間に入れていただいたのですが、
そこから内火艇を撮ったとき、すでに帽振れは終わっていました。
前回の卒業式では内火艇の出航に若干の混乱があった記憶がありますが、
今年は流れるようにスムーズに、各内火艇は乗り込む艦に向かっていきました。
この2隻はいずれも「かしま」に向かいます。
一番左の内火艇は航空幹部が乗る「すずつき」に。
残りの2隻はそれぞれ「やまゆき」と「いなづま」に向かいます。
各内火艇から幹部たちが乗組間に以上するのを大乗から見守る海幕長と校長。
幹部候補生校長にとっては、浮き桟橋から撮られた帽振れをする姿が
校長としての象徴的な写真として後世に残ります。
ところで、以前にも一度当ブログで紹介したことがありますが、
海軍兵学校の生活を撮った、「勝利の礎」というドキュメンタリー映画があります。
映画制作が行われた昭和17年の卒業式で、表桟橋に立って
候補生たちに手を振る兵学校長草鹿任一中将のその眼に浮かんだ涙を
キャメラが捉えていたことを書いてみました。
大東亜戦争真っ最中のこの時期、表桟橋から旅立つ候補生はこの後すぐに任官し、
遠洋航海にではなく、直接軍艦に乗り込んで、あるいは戦地に赴いたのです。
その頃と寸分変わらない江田内の海に浮かぶ練習艦隊に乗り組む
新幹部を見守る海幕長と校長の後ろ姿を眺めながら、二度と再び
若い人たちを涙で見送る時代が来ないことを願わずには要られませんでした。
練習艦隊が出航準備をする時間に、祝賀飛行が行われます。
小月から飛来した練習機T-5に続き、SH-60Kの2機編隊。
鹿屋基地からはP-3Cが一機だけ祝賀飛行を行いました。
「しょうりゅう」の引き渡し式の時に川重でお会いした
アマチュアカメラマン(今年の自衛隊カレンダーにも作品掲載)は、
この祝賀飛行のP-3Cだったかに乗るという話があったのだけど、
一機しか飛ばないので断った、と言ってたなあ。
その心は、
「編隊飛行じゃないので横を飛ぶ他の飛行機が撮れない」
わたしなら喜んで乗せてもらうけど、カメラマン的にはアウトなのか。
最後に横田基地からきたP-1哨戒機が1機。
P-1が江田島上空を飛ぶのを見るのは初めてです。
祝賀飛行を行う飛行機は、かなり早くから現場上空で
時間を合わせるためにぐるぐる回って待っているのだそうですが、
そのこともカメラマン氏がお断りした理由なのだそうです。
祝賀飛行が終わると、「かしま」艦長から発光信号のメッセージが送られてきます。
わたしは航海長だったこともある一尉でも現役を離れると
たちまちわからなくなるということを前回の卒業式で知ったので、
当然ながら、特にこの周りにいる自衛官には絶対にわからないはずと心得ていましたが、
初めて参加する同じツァーの年配女性(何かと空気読めない質問多め)が、
近くの海将補を捕まえて
「あなたあれわかるの?」
とタメ口で(まあ彼女から見ると息子くらいなのかもですが)質問。
海将補は全然わかりません、と言った後で、
「15年くらい前までは読めましたが、現場を離れるとすぐ忘れてしまいます」
トンツーは語学みたいなもので、遠ざかるとたちまちわからなくなってしまうものみたいですね。
発光信号が出されている間、海幕長は司令のみ使用を許される
黄色いストラップの双眼鏡でそれを熱心に観ておられます。
しばらくすると、解読した信号の内容を読み上げる係の海曹が
海幕長と校長の元にやってきました。
わたしの立っているところからもその内容がよく聞こえます。
この少し後、内容がアナウンスされました。
そして、その後「かしま」を先頭に練習艦隊出航・・・・・
ということになるはずなのですが、なぜかいつまで経っても動きません。
見送りの人々が『?』という感じになるとほとんど同時に、
海幕長のもとに状況を説明する係がやってきました。
「かしま」の錨が上がらない、というのです。
「錨が上がらないんだって」
「巻上げ機が壊れちゃったのかな」
周りでは皆がてんでに予想したことを口にし始め、そのうち
「このまま直らなかったらどうするんでしょうか」
「直らなかったら江田島で一泊かもですね」
「うーん、そんなことになったら縁起悪いねえ」
などという会話が飛び交いました。
いつまで経っても状況は変わらず。
おそらく「かしま」座乗の艦隊司令の判断で、先に「いなづま」が動き出しました。
動けるフネから動かしてしまおう、ということのようです。
この時、初めて音楽隊の演奏する「アンカーズ・アウェイ」が始まりました。
件の年配女性はこの慣例ともなっている出航の音楽が
「錨を上げて」であったことに甚く感銘を受けられたようで、
「出航なので『錨を上げて』ってわけね」
と感に耐えない様子で叫んでおられました。
しかし、おばさまと違い、わたしたちはなぜ「かしま」が動けないのか、
そちらの方が心配で感激するには微妙な気持ちです。
「錨を揚げて」が、
「かしま、錨を揚げて!」
という懇願、あるいは
「かしま!錨を揚げてえええっ!」
という叫びにさえ思えてくるのでした。
「かしま」艦上には実習幹部が登舷礼の態勢を維持して立っていますが、
「いなづま」はその横を白波を立てて通り抜けていきます。
ある意味こんなシーンを見られた今回は貴重な経験をしたと言えます。
続いて「やまゆき」、「すずつき」が出航していきました。
登舷礼のために「帽振れ」が今一度行われます。
「いなづま」艦上でも帽振れが行われていますが、「かしま」では・・・・。
実はこの時、「かしま」艦上では大変なことになっていたのでした。
この3日後となる神戸港での「かしま」艦上レセプションの席で、
わたしは「かしま」艦長にご挨拶をしました。
前日の大阪のホテルで行われた壮行会の席上では、艦隊司令始め
関係者からある程度の事情について伺っていたのですが、
実際に艦長自らが語ったところによると、こういうことだったようです。
卒業式の前夜、江田島は雨に見舞われました。
その際、この一帯に吹いた強風が、江田内の海底の泥を動かし、
底質が粘土状の泥がすっかり錨を固定してしまったのです。
「錨を巻き上げる機械が故障したという噂もあったと聞きますが、
実はそうじゃなかったんです」
「わたしの周りでもそんなことを言っていた人がいました」
前日の予行では問題なく引き揚げられた錨がうんともすんとも動かない。
そこで、艦長は艦体を少し前進させては後進、また前進、後進をかけて
泥から錨を引き抜く作業を根気よく繰り返したのだそうです。
「舷側から登舷礼に立っていた人がいつの間にかいなくなっていましたね」
「あれは、その作業を行うために安全上の理由で人を退けたんです」
出航作業にまつわる事故でもっとも危険なのが、錨の鎖が切れることです。
もしそうなったら何トンもの錨を繋いでいた鎖は跳ね上がり、
甲板に跳ね飛んで人を何人も殺傷してしまう可能性があるからだそうです。
遠くから見ているわたしたちにも、ほとんどの自衛官にも、まるで白鳥が
水面で脚を必死で動かしているような(by花形満)「かしま」の奮闘は
全くうかがい知ることはできなかったわけですが、艦長によると、
その作業が功を奏し、何回か目に錨は泥を抜け出しました。
お見事。
「あ!動き出した」
皆が見守る中、前方の3隻にほんの少し遅れをとっただけで、
練習艦隊旗艦「かしま」は出航し、江田内を航行し始めました。
粘度のある江田内では、あり得ない話でもないと思うのですが、周りでも
「卒業式にこんなことになったのは初めてじゃないか」
「いや、もしかしたら歴史上初めてかもしれない
とささやかれていたように、滅多にないアクシデントだったようです。
わたしは艦長に、ついこう聞かずにはいられませんでした。
「これまでこういった事故を経験なさったことは・・・?」
「もちろん初めてです」
「見聞きしたことも」
「ありません」
「なのにすぐに泥に錨が埋まったとお分かりになったんですか」
「そうです」
「そしてすぐその対処法を決定して実行されたわけですね・・」
艦乗りの中の世界のことはわたしにはわかりませんが、艦長というのは
例えば操艦ミスで「引っ掛けた」(突っかけた?)だけでも、
その責任を問われるだけでなく昇進にも響くと聞いたことがあります。
そのプレッシャーというのは半端ではなく、わたしはその前日、
艦長を経験したことのある海将補に、
「艦長時代は、直角に切り立った(笑)水路を前に『ここを操艦するのか!』とか、
ものすごい浅瀬を行かなければいけない!みたいな夢をしょっちゅう見ました」
と伺って目を丸くしたばかりです。
この時の「かしま」艦長の口吻には、抑えきれない安堵と
達成感からくるのであろう高揚が明らかに感じ取れました。
どうなることかと見守っていた一同が、「かしま」の舷側にもう一度白い帽子が並び、
帽振れこそしないままだったものの、出航していったのを見て、
「良かった良かった」
「もしかしたら向こうの舷には上がりきってない錨がぶら下がってるんじゃないか」
などと軽口を叩いていたことを艦長にいうと、
「これを見てください」
脇に置いていた封筒から引き伸ばした写真を見せてくれました。
それは出航直後の「かしま」を津久毛瀬戸の対岸から撮ったもので、
引き揚げたばかりの左舷の錨がはっきりと写っていました。
「黒っぽいでしょう。まだ泥がこびりついているんです」
全く未知の経験にも関わらず、不具合の原因をすぐさま突き止め、
最善最速の方法で窮地を切り抜ける判断を下す。
これこそ乗員全ての命の責任を全て引き受ける艦長の真骨頂ではないですか。
「かしま」が動き出したとき、やはり近くで見守っていた呉地方総監が、
「これで海上自衛隊の”リカバー”力をおわかりいただけたかと思います」
おっしゃったのですが、艦長直々からその一部始終を聞いた後、
あらためてその言葉の意味するところが感動とともに蘇ってきました。
そして、余計なことかもしれないと思いつつ、地方総監の言葉をそのまま
艦長にお伝えさせていただきました。
その時の反応から推察するに、その言葉は「かしま」艦長にとって
おそらく嬉しい援護射撃?となったのではと思われます。
「かしま」といえば、有名な「女王陛下のキス」の逸話を生んだ艦です。
今回、艦乗り視点からによる新しい「かしま」伝説が一つ加わった、
とわたしは思ったのですが、いかがなものでしょうか。
続く。