さて、卒業生が任官したあと、赤煉瓦から行進して内火艇に乗り込み、
その練習艦が無事に全艦出航を済ませて江田内を出ていきました。
構内には幹部候補生学校の卒業式が終了したとのアナウンスが流れ、
岸壁を埋め尽くしていた見送りの家族などが入り口に向かう頃、
表桟橋にはこのような船がお迎えにきてくれていました。
「かしま」左舷には、ブルーの将官艇(偉い人が乗る船)が搭載されていて、
あれに一度乗ってみたいなあと練習艦隊行事のたびに思っていたのですが、
その将官艇に乗って江田島を出航することになったのです。
それもこれも、今回の卒業式出席で招待客ツァーの一員に加えていただけたせいでした。
内火艇に乗り込む新幹部たちをお見送りした桟橋からポンツーンを渡って、
案内された順番(よくわからないなりに序列順になっていたらしい)に
将官艇に乗り込みます。
最初にツァーの引率?をしてくださった海将補が乗り込み、
続いて自衛官の敬礼を受けながら一人ずつ船に移ります。
この船はつまり海幕長クラスの人が乗って移動したり視察したり、
といった目的のためにあるものだと理解していましたが、
本日海幕長はホストとして、一術校長と並んで敬礼を送ってくださっております。
ああこのわたしごときに、なんて勿体無いことでございましょうか。
これが将官艇の操舵室と船室である。
背もたれの後ろに取手が付いているのは、噂によるとこの小艇、
波があると半端なく揺れるかららしいです。
内部は信じられないくらい清潔でシートは偉い人を表す紫。
上着をかけるハンガーまでさりげなく装備されています。
まだ乗り込んでおりませんが、操舵のメンバーには女性自衛官が一人いました。
わたしたちが窓の大きな二列目のシートに座って待っていると、
海幕長が在日米軍司令官とチリ共和国大使と共に乗艇してきました。
そしてすぐさま出航。
桟橋で幹部候補生学校長と第一術科学校長らが敬礼で見送ってくれています。
岸壁の上でも敬礼している自衛官が。
間違いなくわたしたちではなく海幕長とフェントン少将に送られたのだと思いますが。
出航したと思ったらあっという間に岸壁のボートダビッドが、
そしてさっきまでいた桟橋が小さくなってしまいました。
驚いたのは将官艇のスピードです。
前方の練習艦隊をこれから追い越すのですから、速くて当たり前ですが、
Wikipediaの「かしま」のページには、先代の練習艦隊旗艦「かとり」が
搭載していた将官艇はスピードが遅かったので、「かしま」搭載のものは
その反省から速力向上が図られた、とあります。
今回乗せていただいたものは「かしま」搭載のブルーのものとは違いますが、
速力に関してはおそらくかなり向上型なのではないかと思われました。
将官艇の大きな特徴は、艇の後部がデッキになっていてそこに人が立てることです。
つまり、ご覧のように海幕長がそこに立ち、見送りの人々や、
そして練習艦隊の登舷礼に向かって挨拶をするために設計されているのです。
海幕長が在日米軍司令官フェントン少将とともにデッキに立ちました。
二人の後ろに立っている赤いストラップの双眼鏡の海曹は、
将官艇の艇長ではないかと思われます。
まず海幕長が岸に向かって大きく手を振り始めました。
そこは津久毛瀬戸で、江田内の唯一の出口であるその海峡の右岸には、
例年、帽振れが終わるなり幹部候補生学校を飛び出し、ここに駆けつけて、
江田島の幹部や家族、ファン?などが手や旗を振って見送っているからです。
前回の訪問でお世話になった学生隊長もいます。
メガホンを持っておられますが、これで檄を飛ばしでもしたんでしょうか。
後ろで帽振れをしているのは幹事付、赤鬼あるいは青鬼さんではないですか。
赤ちゃんを抱いたお母さんも見えます。
そして、「武運長久」の幟をわざわざ製作してきた関係者も・・・・。
練習艦隊を最後の「かしま」まで見送って、最後に彼らの前を通り過ぎたのが
海幕長を乗せた将官艇ということになります。
海幕長はつい癖なのか(?)帽子の鍔に手を当てていますが、
慣例として将官艇からは帽振れは行わないらしいですね。
その理由・・・やっぱり帽子を飛ばしてしまうからじゃないかしら(笑)
手を振る海幕長に自衛官は熱烈な帽振れでお見送りを行います。
練習艦隊に打ち振った自衛艦旗はこういう時には振らないようですね。
そして、この津久毛瀬戸の岸には、江田島市の好意により、
江田島を出て行く自衛艦のために、
「また帰ってきんさいやぁ」
「ご安航をお祈りいたします
I wish you a pleasant voyage」
という文字が添えられた「ご安航」の信号旗が描かれた看板が
この日のために設置されました。
海幕長が鍔に手を当てているのは、どうも帽子が飛びそうなんですね。
おそらくフェントン少将に、このUW信号旗の由来を説明しているのでしょう。
津久毛の瀬戸の見送りの人々がたちまち小さくなっていきます。
なんと、そのよこの砂浜や岩場にも人がいるので驚きました。
卒業式のあと、ここから練習艦隊を見送る、あるいは写真を撮るのを
決めている人もどうやらいる模様です。
津久毛瀬戸を通り過ぎて江田内を出ると、すぐに練習艦隊が見えてきました。
ご覧くださればお分かりですが、錨が泥に取られて上がらないという
前代未聞のトラブルに見舞われたものの、冷静沈着な艦長の判断で
あっという間にそれを回避し、出航した「かしま」は、本来旗艦として
艦隊の先頭に立つはずが、最後尾を航行しています。
前の3隻に追いつくためにかなりスピードをあげているらしい「かしま」。
出航時にはなんとか登舷礼に立つことができたものの、状況が状況だったので
「帽振れ」をせずに江田内を出て行くことになってしまいました。
ということは、この将官艇に対して行う帽振れが、「かしま」乗員にとって
本日初めての舷側に立っての帽振れであるということになります。
その感慨こもる「帽振れ」、確かに見届けました。
将官艇に送る「帽振れ」は、艇が完全に「かしま」を追い越し、
目前からいなくなるまでの間行われるので、従来の岸に向けてのものより
時間的に長い間にわたります。
彼らがゆっくりと頭上で回す白い帽子の波は、前に行くにつれて少しずつずれ、
まるでウェーブのようでした。
右舷の錨は普通ですが、左舷の錨をこの時見ることができたら、
江田内の海底で粘土質の泥に埋まった痕跡が確認できたはずです。
デッキでは「かしま」幹部も帽振れをしています。
右側の緑のストラップは練習艦隊幕僚長でしょうか。
それとも隊付?
操舵室ウィングデッキの写真を撮ったら、こんな光景が。
上で帽子を振りながら下をのぞいているのは練習艦隊司令官梶元海将補。
赤いストラップをして梶元司令と話しているのが「かしま」艦長、高梨一佐です。
高梨艦長の右側の階層はずっと測距儀を覗きっぱなしの様子。
つまり、「かしま」は今、出港時の遅れを取り戻し、前に追いつくために
速度をあげている最中なので、帽振れをしながらも幹部はそちらにも注意を払っているのです。
司令と艦長の間で何事か伝達し合っているのもそれに関することでしょう。
多分ですけど。
本来最後尾となるはずの「やまゆき」に追いつきました。
窓越しに撮ったので、うまく画面に収めることができませんでした。
「かしま」ほどではありませんが、実習幹部が乗り込んでいます。
午餐会で隣に座った幹部くんも「やまゆき」に乗る、と言っていたのでここにいるはず。
舷側に立っている人で実習幹部らしい人を数えたら二十人少しでした。
海幕長とフェントン少将はこのように練習艦隊に向かってずっと敬礼を続けます。
喇叭手がその度に喇叭を吹鳴し、大変美しい光景・・・・となるはずですが、
どうもこの後部デッキの大混雑はいただけませんなあ。
海幕長、フェントン少将と喇叭手、チリ大使とその通訳、少将の副官、
艇長、そこになぜか招待客のうち三人がなだれ込んで芋の子洗い状態です。
練習艦隊からカメラマンが海幕長らの写真を撮ると、自動的に
そこにいる人たちが写り込んでしまうわけで、そういうことを考えると、
いかにそちらの方がいい写真が撮れるとしても、わたしは到底
この人たちのように外に出る気にはなれませんでした。
なんというか、もうちょっと自衛隊の儀礼に敬意を払いましょうよってことで。
続いては飛行幹部が乗り組んでいる「すずつき」です。
飛行実習幹部はこの後すぐに海外への外洋練習航海のためタイに向かいます。
前日のパーティで、「すずつき」艦長は
「飛行幹部に『水上艦に行けばよかった』と思われるような
航海にしたいと思っています」
と面白いことをおっしゃっていました。
赤いストラップは「すずつき」に座乗している第8護衛隊司令、
本村真悟一等海佐です。
前日のパーティでお話しした時の様子とはガラリと雰囲気が違う・・・。
練習艦隊の中で唯一ヘリを搭載している「いなづま」です。
練習艦隊でヘリコプターは実習に使われるだけでなく、連絡や
人員や物資の移動などに大活躍するのだと「いなづま」艦長にのちに教えていただきました。
原則で帽振れをしている実習幹部らしい人を数えてみたら30名ほどでした。
「かしま」ではなく他の艦に乗る幹部はどうやって決めるのでしょうか。
そんなことを考えながら先頭の「いなづま」を追い越し、我々の乗った
将官艇は、ますますスピードを上げました。
グーグルマップで見ると、現在地点を表す青い丸が高速で移動しています。
江田島から広島港に向かう途中にある「似島」(にのしま)。
小さくて住人が八百人足らずという島ですが、実は有名なエピソード多数。
明治から終了直後まで陸軍の検疫所があった
日露戦争、第一次世界大戦当時は検疫所内に捕虜収容所も併設された。
第一次大戦時に収容されていたドイツ人捕虜カール・ユーハイムが、
収容中に日本初のバウムクーヘンを焼いたというエピソードがあり、
日本におけるバウムクーヘン発祥の地といわれる
原子爆弾投下後には、臨時の野戦病院となり、
1万人もの被災者が運び込まれた
島に埋められた死者も多く、2018年時点も遺骨の発掘が行われており、
慰霊碑も設置されている
検疫所跡地には、原爆投下により生じた戦災孤児、
戦災浮浪児に対する福祉を目的とした似島学園が設立されている
1919年(大正8年)には、第一次世界大戦で日本軍の捕虜となり、
島内の似島検疫所に収容されていたドイツ人と広島高等師範学校
(現・広島大学教育学部)学生による親善試合が広島市内で行われ、
これが「日本で初めてのサッカー国際試合」とも言われる
なんと、ユーハイムさんは神戸に来る前ここですでに仕事してたのか。
広島港にとってつけたようにある宇品島という根元で繋がった半島には
グランドプリンスホテル広島があります。
将官艇が着岸するのはプリンスホテルの船着場でした。
江田島でこの日バスに残した荷物は、全てバスごとすでにホテル前に到着していました。
わたしたちは将官艇を降り、ホテルの中を通ってバスに乗り込むと、
「本来は皆様を海幕長がお見送りする予定をしていたのですが、
海幕長が乗る飛行機の時間の関係で、着替えを優先させていただくことになりました」
とご丁寧にもお知らせをいただきました。
海幕長自らにお見送りなど、予想もしていなかっただけに恐縮です。
ホテル前から広島駅の新幹線乗り場までバスで送っていただきました。
写真はバスの車窓から途中で見た広島陸軍被服支廠跡です。
耐震構造に20億かかることから、遺構といえ放置されたままで、
県としては使用方法をいまだに模索している状態なのだとか。
広島駅到着後、わたしたちは広島空港に向かい、そこから帰途に着きました。
そして、中一日の休みを経て、またしても神戸で練習艦隊を迎えることになります。
続く。