シェーンブルン宮殿でなぜかヒートアップし(笑)解説が長すぎて
大幅に時間を食ってしまったとガイドさんは恐縮しています。
幸い、次の予定のスタッドパークはすでに見学を独自に終えていたので、
そこを飛ばして本格的な街歩きに突入しました。
「ベートーヴェンの住んでいたアパート、見たいですか?」
個人ツァーなので、ガイドさんはこんな風に意向を聞きながら
案内先を即興で決めていきます。
途中で見せてくれた10年前のコンサートのパンフレットによると、
もうお歳は70歳くらいになっておられるはずですが、
案内に半日歩き回るなど、大変お元気です。
むしろ、ガイド業で歩くから元気なのかもしれません。
「この階段を上ったところなんですが、階段脇のこれなんだと思いますか?」
「非常脱出用の滑り台」
(無視して)「これは、上に住んでいる人が汚穢を捨てたんです」
つまりあれですか、家の中で用足しをツボかなんかにしておいて、
溜まったら一気にドバーッと流してああスッキリ、って、
そんなことをしたら町中が大変な匂いになるやないかい!
とツッコむも虚し、昔のヨーロッパちうのは基本それがスタンダードだったのです。
これを見る限り、我が先祖の日本人って衛生観念においては当時から
世界の最先端だったようですね。
ベートーヴェンがここに住んでいた1804〜1815年ごろというのは、
ペストの流行(1830年)より前なので、当然のことながら、
のちの楽聖も窓からブツを捨てていたということになります。
階段を上っていくと、ハウスの前でランチを食べている人がいました。
昔のヨーロッパだったらとてもこんなところで物を食べられません。
ロンドンでの話ですが、
「夜10時以降に窓から捨てちゃダメ」
という法律があったそうです。
ということは昼間なら普通に上からバンバン降ってきますわね。
シェーンブルン宮殿で傘をさしていた中国人のおばちゃんの話をしましたが、
そもそもヨーロッパでパラソルを持つようになったのも、元はと言えば
上から降ってくるものを避けるためだったと言いますから笑えません。
という話はさておき、これがベートーヴェンの住んでいたパスクァラティハウスです。
ウィーンでは史跡となる建物には赤と白の旗が飾ってあります。
パスクなんたらというのは大家さんでありベートーヴェンのパトロンだった人です。
4階にベートーヴェンの部屋があるのでご自由にどうぞ、とあります。
ヨーロッパでは日本の一階はグランドフロアで二階から一階、と数えますから
ベートーヴェンは5階に住んでいたことになります。
入り口の脇にあるこれは馬車を繋いでおくための杭だそうです。
無人で停めておくこともよくあったということでしょうか。
ここでベートーヴェンは34歳から45歳までの間間を開けて住んでいました。
この時期彼が作曲した作品は交響曲第三番(エロイカ)に始まって、
ロマン・ロランいうところの「傑作の森」の樹々を成します。
ただし、ベートーヴェンは引っ越し魔で、生涯に70回住居を変え、
大家兼パトロンがこの家をキープしてくれている間も、
いろんなところを転々としていたということですので、
この家で何が作曲された、とかはわかっていないかもしれません。
「どうしてそんなに引越しばっかりしてたんですかね」
「家賃が払えなかったみたいですよ」
それって食い逃げならぬ住み逃げってやつなのか。
後世に名を残すような人物はもう少し偉人の自覚を持つべきだと思うがどうか。
一階には案内所とちょっとしたグッズを売っているスペースがありました。
案の定ベートーヴェンのシルエット入りのマグとかそんなものです。
中庭から建物全体を見上げてみました。
他の部屋には普通に人が住んでいます。
こういう中庭付きのヨーロッパの建物を見ると、
中村紘子著「ピアニストという蛮族がいる」
で紹介されていた大正期の女流ピアニスト、久野久が、ウィーンの
ホテルの中庭に身を投げたという悲しい逸話を思い出します。
当時日本で最高のピアニストと煽てられ、ウィーンに乗り込むも、
当地でレッスンを受けたエミール・ザウワーに技術を根本から否定され、
彼女は絶望して滞在先のホテルで38歳の命を絶ってしまったのでした。
「これ、何をするものかわかりますか?」
アパートのドアの前の馬蹄形のものは、靴の裏を擦り付け、
家の中に泥や雪、何より道に落ちている色んなモノを、
持ち込まないようにする工夫です。
主に一番最後のモノのためにわざわざ作られたと見た( ̄▽ ̄)
なぜか奥にレッドブルの空き缶が捨て置かれていますが、実は
レッドブルってオーストリアの企業だってご存知でした?
オーナーが航空機収集を会社ぐるみでやっていて、ウィーン空港の近くに
「ハンガー・ジーブン」という航空博物館を持っています。
今回はそれも見てきましたので、またここでご紹介します。
ベートーヴェンの部屋はこの螺旋階段を上っていった最上階です。
健脚とはいえ70歳のガイドには5階まで階段を登るのは辛いらしく、
「上ってみられますか?わたしはちょっと下で待ってます」
それでは、と階段を上りだして、この同じ景色を、
あのベートーヴェンが見ていたんだなあという感慨に浸る間もなく、
下から呼ばれました。
「すみません、今日は休館日で営業してないそうです」
わたしはすぐに踵を返しましたが、NKは一応ドアの前まで行って
そこから中庭の窓ぎわで寝ていた猫の写真を撮ってきていました。
内部にはベートーヴェンのピアノなどもあったそうですが、
これはまたいつかのお楽しみ。
ヨーロッパ人は建物に人間をあしらうのが好き。
INLIBLIという何かを持っている人(女性)の像がシュールです。
ベートーヴェンの部屋のある建物を左に見ながら石畳を下っていくと、
ガイドさんが、
「第三の男、って映画観ましたか」
「観ましたが・・・」
「オーソン・ウェルズが演じるハリー・ライムが、暗闇の中
このドアに佇んでいるシーン、覚えていますか」
「いえ、さっぱり・・・」
「とにかくそのシーンでオーソン・ウェルズが立っていたのがここです」
全く覚えていなかったので、このシーンだけ動画で探してみました。
石畳の形や様式も違いますが、映画が撮影された1949年から
70年の間に少しずつ整備されたのかもしれません。
暗闇の中佇むハリー・ライムの足元に、猫が近づいてきます。
この猫がどういう由来で映画に出演したのかわかりませんが、彼女は
歴史的な名画の、重要なシーンに登場する映画史上最も有名な猫になりました。
猫はオーソン・ウェルズのピカピカの靴を熱心に舐めだします。
どうも靴に何か猫の喜ぶものが塗ってある模様。
靴の大きさとの比較で、まだ小さな猫とわかります。
ハリーは恋人のアンナ(アリダ・ヴァリ)の部屋を見張っています。
実際には、オーソン・ウェルズの立った場所の向かいにはアパートはありません。
これは全く別の場所で撮られたシーンだと思います。
ピカレスク映画の印象的な悪役として名を馳せたウェルズの、
世紀のキメ顔。歴史に残る名シーンの一つです。
当時の映画ポスターはこのシーンを採用していたようですね。
わたしはこの映画のハリー・ライムのセリフを昔から、
というかここしか記憶にないくらいはっきり覚えています。
Remember what the fellow said…
覚えておくといい。こんなことを言ってたやつがいるんだ。
…in Italy, for thirty years under the Borgias, they had warfare,
terror, murder, bloodshed, but they produced Michaelangelo –
Leonardo Da Vinci, and the Renaissance…
イタリアでは三十年間のボルジア家の時代、戦火、恐怖、殺人、
流血に見舞われたが、一方彼らはミケランジェロやダ・ヴィンチなど
ルネサンス文化を生み出した。
In Switzerland, they had brotherly love.
They had five hundred years of democracy and peace,
and what did that produce?…The cuckoo clock.
スイス国民は同胞愛ってのを持っていてな。
彼らは五百年間というもの民主主義と平和を謳歌してきたが、
その結果何を生み出した?・・・鳩時計だよ。
ボルジア家はルネサンス文化のプロデュースをしたか?
というとそうでもない気がしますが、その根拠のない断言も
おそらくはハリー・ライムという悪人の独善性を表す演出だったのでしょう。
後ろに見えている「KUDAS」という字の書かれた家が、冒頭写真の
女性が出てきている扉部分に当たります。
TOは、オーソン・ウェルズの立ったドアの前に立ち、
写真を撮るといいと言われて本当にやっていました(笑)
あの映画のシーンに登場する場所に実際に行って以来、
「第三の男」をもう一度みてみたいと思っています。
ウィーンは観光都市なので、特に今の時期、暑い中市街を歩いているのは
ほとんどがお上りさんばかりです。
市内観光の方法として、わたしたちのようにとにかく歩き回るか、
さもなければこんなオープンカーで回るという手があります。
冬はとんでもなく寒いそうですが、冬の観光客もこれに乗るんでしょうか。
馬車に乗って街をガイド付きで回るというのも楽しそうです。
馬車は普通に車道を闊歩するので、ただでさえ狭い道は塞がれて
車が渋滞する原因になっていますが、ウィーンっ子は慣れているのか、
こんなものだと思って諦めているのか、粛々と馬車と同じ速さで
車をのんびりと走らせていました。
続く。