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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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皇女エリーザベトの憂鬱〜ウィーンの街を歩く

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さて、ウィーン街歩きシリーズ、最終回です。

午前中で終わる予定が、カフェ・ツェントラルの昼食を挟んで
まだ延々と続いており、これは昔の日本人らしく義理堅いガイドさんが
昼食をご馳走したことに対するお礼のつもりだったのでしょう。

 

70歳のガイドさんは、外地にあっても、いや、多くの在住外国日本人が
そうなるように、ある意味日本国内に住んでいる人より強烈に
自分のアイデンティティを意識して来られた方のようで、
この日、一緒に歩いていて、こんな出来事がありました。

路上に店舗の立ち並ぶ混雑したところで、観光客か現地人かわかりませんが、
親に放置されて走り回っていた子供が、ガイドさんを見るや、

「チャン・チョン・チン!」

と笑いながら叫んだのです。

何年か前の夏、サンフランシスコ空港でアシアナ航空機が墜落した時、
どこかのテレビ局のインターンシップが、機長の名前として

Sum Ting Wong=Something wrong (なんか変だぞ)
Wi Tu Lo=We're too low (俺ら低過ぎね?)
Ho Lee Fuk=Holy F○○○(説明なし)
Bang Ding Ow(バン!ドン!ワー!)

とテロップを出し、騒ぎになったことがあります。
アメリカ人ちうのは、コリアンもチャイニーズも一緒くたなんだなあと
変なところで感心したものですが、とにかくエイジアンを見ると
非アジア人の程度の悪いのがやるのが、「チャンリンシャン」とか、
(あのシャンプーの宣伝、今なら絶対に問題になってると思う)
目を横に引っ張ってつり目にして見せるとか、
\ /←こんなマークをスタバのカップに書くとかいうイタズラ。

わたしの同級生もドイツ留学中、子供に吊り目ポーズをされたそうですが、
その人は普通のヨーロッパ人より目の大きな人でした。

とにかく、それを聞いたガイドさんは、通り過ぎずにくるりと後ろを向き、
二、三歩子供の方に戻って、わたしのドイツ語の能力でも聞き取れるくらい、
はっきりと子供に向かって、

「今、チャン・チョン・チンって言ったけど、それはとても失礼だよ。
それに、わたしは日本人(ヤパーナー)だ。中国人ではない。
君たちはアジア人を見れば皆中国人のようにいうが、それも失礼なことだ」

と言ったのです。
悪ガキどもは、(男女合わせて三人いた)気まずそうに黙り込みました。

もしかしたらドイツ語がわからない旅行者の子供だったかもしれませんが、
少なくとも自分が叱られたことだけははっきりと自覚したでしょう。

彼らが今後そういう悪ふざけを慎むかどうかはわかりませんが、
子供相手に正面からそれは間違っている、と叱るガイドさんに、
わたしは海外で生きる日本人の気概のようなものを見た気がしました。

都市開発で地面を掘ったらローマ時代の遺跡が出てきた模様。
わたしたちにはピンときませんが、ウィーンというのは
古代ローマの時代に都市国家として誕生した地なので、
街全体が遺跡の上に立っているようなものなのだそうです。

街のところどころに、レンタルのキックスケーターが設置してあります。
どういうシステムかは知りませんが、ネットとカードで予約する模様。

ガイドさんは音楽家なので、楽譜屋さんにも連れていってくれました。
店先にはグレゴリオ聖歌っぽい(適当)アンティークの楽譜が
実に無造作に飾られています。

ホテルの入り口にワーグナーの彫像を見つけました。

1875年の終わり、ワグナーと彼の家族は、オペラ「タンホイザー」と、
「ローエングリン」の公演の準備のために、ほぼ2ヶ月間、
このホテルに滞在しました。

ワグナー死後50周年記念に当たる1933年に制作されました。

ところで、この時ガイドさんから聞いた音楽家ネタを一つ。

ウィーンの歌劇場の近くで、辻音楽師がロッシーニの曲を演奏していたところ、
自分のオペラが演奏されるので当地にきていたロッシーニ本人が通りかかりました。
黙って通り過ぎることができない彼、辻音楽師に

「その曲はもっとゆっくりやったほうがいいよ」

「なんでそんなことを言うんですか」

「私が作った曲だからさ」

次の日、同じところをロッシーニが通りかかると、昨日の音楽師、
早速こんな看板を掲げておりました。

「私はロッシーニの弟子です」

ロッシーニという人は、自分の像が建つという運びになった時、
その製作費用を聞いて、

「それだけお金をくれたら私がずっと立っていても構わない」

とぼやいたというくらい、ユーモアのある人物だったそうですが、
この時は商魂たくましい音楽師にしてやられたというところです。

パリでもそうだった気がしますが、花屋というのはヨーロッパでは
街角に花を所狭しと並べているものです。

冬の間はどうなっているのか気になります。

わたしたちはどんどんと歩いて、インペリアルホテルまでやってきました。
ツァーの途中で日本人にはザッハトルテは甘すぎて不評だ、という話になり、
それならばインペリアルに行けば甘さ控えめのが買えるので行きましょう、と
てくてくここまで歩いてやってきたわけです。

ウィーンの帝国ホテルは非常に由緒正しい歴史を持ち、畏れながら
我が日本国の天皇陛下はもちろん皇族の皆様方は、当地にお越しになった際、
必ずここにお泊りになるそうで、インペリアルホテルの英語版ウィキペディアには
わざわざ日本の天皇陛下、皇后陛下がお泊りになった・・と書かれています。

ガイドさんはロビーを通り抜け、二階を案内してくれました。
元々は大公夫人の宮殿だったそうですが、1873年、売却された建物を
万国博覧会のためにホテルにしたのが当ホテルの始まりです。

大理石の円柱の立つ吹き抜けの階段の正面にはライトアップされた女神像。
天井の装飾も、シャンデリアも豪華すぎて息を呑むほどです。

シェーンブルン宮殿も、ザルツブルグのザッハホテルもそうでしたが、
宮殿仕様の階段というのは段差が以上に小さく、上り下りがが楽です。

お年寄りや、裾の長いドレスのご婦人が毎日行き来するので、
まだエレベーターのない時代に建てられたこれらの宮殿は
ストレスフリーの設計としてこの手法が好まれたのでしょう。

ちなみに、世界で初めて電動式のエレベーターを開発したのは、
ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンス(シーメンスの創業者)で、
このホテル開業7年後の1880年のことです。

二階にあったオーストリア皇后エリーザベト(相性シシィ)の像。

彼女もシェーンブルン宮殿の住人で、かつての居室には、
彼女が膝まで伸ばしていたという髪の毛を解いて立っている
マネキンが後ろ向きに置いてありました。

髪の毛は一ヶ月に一度しか洗えなかったそうです。

エリーザベトの正気の沙汰ではない美容法の数々

一ヶ月に一度の洗髪、庭で用を足していたフランス貴族並みの不潔さです。
そして浪費という点でも、彼女はフランス貴族並みだったそうです。

エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、
若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、ギリシアの島に絢爛豪華な城
「アキレイオン」の建設、あらゆる宮殿・城・別荘の増改築、
彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていた。
だが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまることができず、
乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオンなどにもすぐに飽きてしまった。(wiki)

尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、
皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみ
ほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によって
ヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、
自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かったとされる。
当時のベルギー大使夫人は、
「この女性は本当に狂っています。
こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、
この国の国民がまだ寛大だからです」と書いている。(wiki)

それでもやっぱり美化されて宝塚のお芝居になったりするのは
彼女が美しかったから・・・なんでしょうねきっと。
もちろん彼女が慕われる理由はそれなりにあった説もありますが、
興味があれば調べてみてください(投げやり)

ガイドから聞いた話で面白かったのは、彼女が姑から

「歯並びが悪くて歯の色が黄色くて汚い」

と言われた瞬間、鬱っぽくなって人前で話さなくなったという話。
彼女があと100年遅く生まれていたら、なんとでもなった悩みでした。

あと、最初は彼女の夫ヨーゼフ一世は姉の見合い相手だったのに、
エリーザベトを見初めたため彼女が皇后になったという話を聞いて

「じゃ予定通りお姉さんが皇后になっていたら彼女は暗殺されなかったのかも」

というと、ガイドは

「殺した方も無政府主義者で誰でも良かったみたいだからどうでしょうか」

確かにこの場合のイフはあまり意味がないかもしれません。

 

ところで、肖像画が若くて美しい頃のしか残っていないので、わたしは
てっきり彼女は若いうちに暗殺されたのだと思っていたのですが、この時聞くと、
レマン湖で死んだ時、もう60歳になっていたそうですね。

年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のベールと
革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、
それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。
(wiki)

「エリーザベト 晩年」の画像検索結果

(写真を撮られそうになって必死で顔を隠しているエリーザベト)

若い時に美人と称えられた人ほど、歳をとって容姿が衰えることを
受け入れられないという話はよく聞きますが、彼女もまたそうだったのでしょう。

しかもこんなことまで書かれてしまうなんて・・・これも美人税ってやつでしょうか。
(しかしこれも、今の美容技術なら彼女の悩みはほとんど解消されたと思われます)

かつてヨーロッパ皇室一の美貌を謳われたがゆえに、
老いた姿を人目にさらすことが耐え難かったらしい彼女にとって、
永遠に若いイメージだけを後世に残して亡くなったのは、
望むところだったというべきかもしれませんし、
亡くなった年齢の60歳というのは、それ以上歳を重ね、いやでも
人前に老いた姿を晒す場面が永遠に訪れなくなったという意味で
変な言い方ですが、ぎりぎりのタイミングだったように思います。

 

ちなみに、彼女は傲慢で横暴、感情を爆発させ激怒するタイプで、
お付きの者は皆、彼女の機嫌を損ねるのを畏れてビクビクしていたそうです。

やっぱり綺麗でなければここまで持ち上げられてないよなあ。

 

 その日の夕食は、家族で相談してスイス人が経営している
フォンデュの店に行ってみました。

店内はこれでもかとスイスの旗の模様があしらわれております。

サラダとチーズフォンデュ二人前を頼んだら、店主らしいおじさんが、

「もうそれくらいで十分だよ」

とオーダーを止めてくれました。

チーズフォンデュの右側に見えているパン籠が一人分で、
同じ大きさの籠がもう一つこちらにあります。

「こりゃ確かに多いわ」

三人でせっせと食べても、一つの籠すら空にすることができませんでした。

アメリカではいつも超少なめにしても食べきれないほどでてきますが、
ウィーンでも日本人には一人前は多すぎることが多かったです。

でも、オーストリアの人、太ってないんだよなあ。
それどころか、初めてドイツ語圏の国に来て思ったのですが、
若い男に美形が多いんですよ。

移民らしいなに人か分からない人はともかく、いわゆる
ゲルマン系の男性に限り、金髪碧眼、背が高く肌の色は明るく、
神様は本当にうまいこと彼らを造形されたものだと感心せずにはいられません。

そしてそういう見栄えのいいのがザッハとかインペリアルとかのフロントに
惜しげもなく配置されているわけですが、中年以降の男性を見る限り、
オーストリア男性というのは、若い頃はいかに美しくとも、
歳をとると普通に皆世界基準値のおじさんになってしまうようです(笑)

 

さて、ウィーン二日の観光の後、わたしたちは車でザルツブルグに移動しました。

 

続く。

 

 


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