さて、前回に続き、第二次世界大戦から終戦までのドイツ航空機史を
軍事分野に限って解説するシリーズ、続きです。
スミソニアン航空宇宙博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの
キュレーターによる解説を翻訳したものを中心にお送りしています。
ロシア戦線にあるAユンカースJu52輸送機
スターリングラードでドイツ陸軍がソビエト軍に包囲されたとき、
ゲーリングはヒトラーにルフトバッフェが人員輸送することで
戦線が維持できると断言した。
三ヶ月の間千単位の種類の輸送機と爆撃機がスターリングラードに飛び、
陸軍に物資の輸送を行い続けた。
しかしながら、天候や事故、そしてソ連の戦闘機の銃撃などで
(おそらく女性を含む狙撃兵の攻撃も)兵力は磨耗し、
1943年2月2日にはそれも限界に達した。
およそ10万人の生き残った兵士たちがソ連軍に囲まれることになったのだ。
メッサーシュミットBf109の生産ライン
帝国防衛 (Defending The Reich)
1944年の初頭までにルフトバッフェは連合国空軍からの防衛にかかりきりでした。
米英の爆撃機隊にはかなりの喪失がもたらされましたが、
アメリカに新たに導入された長距離エスコートファイター(護衛戦闘機)は、
逆にドイツ側に大打撃を与えました。
(このエスコートファイターとは、時期的にいうと、
ロッキードP-38ライトニングではないかと思われます)
その年の春までには連合国軍はヨーロロッパ全土の制空権を確立し、
このことがノルマンディ上陸作戦の成功の決定的な要因となりました。
Dデイの後の数ヶ月で、前線のルフトバッフェの戦闘機隊は事実上壊滅しました。
イギリス海峡沿いのレーダーサイトはロイヤルフォースの戦闘機に指示を与え、
そのためドイツの夜間戦闘機は効果を上げることができませんでしたし、
連合国軍は燃料工場を重点的に狙ってきました。
たちまち燃料不足はルフトバッフェのオペレーションに困難をきたし、
次世代のパイロットを訓練する余裕すらなくなってきたのです。
連合国軍の爆撃にが激しくなり、ドイツの航空産業は戦闘機の製造を
減らすしかなくなり、外国人労働者を一部採用して費用を安く上げるなどしました。
ジェット機や他の先進的な武器は地下や窪地などで工場を移し、
しまいには強制収用所の囚人を労働者として使うしかなくなっていたのです。
Gun Camera Footage Luftwaffe FW 190 & Bf109 / Me109 Fighters Shot Down WW2 GSAP Newsreel
左はここSFUHセンターに世界で唯一の機体が展示されている、
アラドのAr 234 Ar 234 ブリッツ、ジェット爆撃機。
右はこれも日本の「橘花」と並べてお話ししたメッサーシュミットの
Me262ジェットファイターです。
そして、Me163コメート、ジェット戦闘機です。(≧∇≦)
30ミリ砲を搭載しており、相手が低速の爆撃機だったりした場合には
大変有効だったということです。
右側の写真は、航空機製造に従事させらていた「スレイブレイバー」(奴隷労働者)
製造中の機体を守るため地下に置かれていた製造工場の様子。
閉所&暗所恐怖症の人にはおすすめしません。
フォッケウルフ Ta152 H 高高度偵察機
当時にして世界最速のプロペラ推進高高度爆撃機。
こんな状況でも単体としてみれば画期的だったり革新的だったり、
超高速だったりする飛行機をどんどん開発できるんですから、
ドイツ人が自国の技術力に過信していたとしても仕方ありますまい。
ハインケルHe162 ”人民の戦闘機”Volksjäger
戦闘機のことをドイツ語で「イエーガー」(jäger)というらしいのですが、
そういえば同じ名前の伝説のパイロットがアメリカにいましたよね。
チャック・イエーガーは若き日にイギリスに派遣され、それこそ
ドイツ軍の「イエーガー」とどんぱちやりあっております。
彼は音速を破る前に、戦闘機パイロットとしてドイツ機を11機と半分撃墜した
エースでもあり、メッサーシュミットのMeBf109を1日に5機撃墜しているほか、
Me262シュワルベの初撃墜という記録も持っています。
この写真のフォルクスイエーガーは見るからに変なものを背負っていますが、
なんとこれ、単発ジェットエンジン(BMW製)です。
連合国の止まらない攻撃を少しでも食い止めるため、
ゲーリングとシュペーアのコンビが「国民の戦闘機」を計画し、
試験段階では905km/hというとんでもない速度を記録しました。
実戦にも配備され、何機かを撃墜したという記録もあるのですが、
配備された46機のうち13機が瞬く間に墜落したり撃墜されて、しかも
30分しか飛行できないという特性のため、時間切れで二人が帰還できず死亡、
という結構大変な飛行機だったようです。
が「フォルクス」とつけただけあって、ドイツはこれを急造し、
600機くらいを配備する予定だったようです。
もしこれが実際に配備されていたら、確かに連合国は苦労したでしょうが、
ドイツ側にも未熟なパイロットの犠牲がかなり出たであろうと予想されています。
まあ、こういう武器に頼るしかなかったというのが、ドイツがもう
いろんな意味で敗戦に直面する時期に来ていたという証拠でしょう。
特攻に頼るしかない状況だった敗戦直前の日本を思わせるものがあります。
敗北
1944年の終わりには、連合国の爆撃は事実上ドイツの燃料工場を壊滅させ、
交通網を完全に麻痺させてしまっていました。
航空機製造のための設備はそれでも建造を続けていましたが、
燃料の絶望的な不足と、ルフトバッフェにはもうまともな搭乗員は残っておらず、
それは連合国の攻撃以上に深刻な問題だったのです。
ドイツ戦闘機部隊は1945年の1月1日、最後の大掛かりな攻撃を西部で行いました。
それによって200機もの航空機が失われましたが、効果は僅少でした。
ドイツ軍の前線での崩壊に伴って、生き残ったルフトバッフェの部隊は
混乱のまま再配備され、彼らの航空基地になだれ込んでくる連合国を
劣勢の中迎え討たねばならなかったのです。
まだドイツの支配下にある地域に避難できなかった航空機は、
破壊または放棄されました。
そして、ドイツが降伏したのは1945年5月8日。
かつては最強と言われたドイツ空軍の残党は、すでに
ドイツ全土に散り散りになってしまっていました。
破壊され放置された ユンカース Ju88
地上航空員は連合国軍に囲まれたと知ると、侵攻してくる前に
とくに最新式だった航空機を破壊し、飛べないようにしてしまいました。
破壊されたユンカースのJu88Gは、時速630kmを誇り、終戦まで
夜間戦闘機としては無敵といわれていました。
Me262戦闘機の野外組み立て場
工場が爆撃の対象になり、メッサーシュミットの最終的なMe262の組み立ては
こんなところで行われていました。
飛行機はできるとここからアウトバーンをタキシングして部隊に配備していたのです。
これはアメリカ軍の侵攻部隊が1945年4月に撮った写真です。
アメリカに向かうドイツ航空機
以前ここでもお話ししたことがある「ワトソンの魔法使い」こと
ワトソン大佐とそのチームが集めたルフトバッフェの飛行機は
1945年7月、HMS「リーパー」に載せられ、ニューアークに向かいました。
そのうち7機が海軍の飛行テストを受けるためにフェニックスリバーに、
残りは陸軍の評価を受けるためライトフィールドに分配されています。
捕獲したMe262とドヤ顔で写真を撮るワトソン大佐
アメリカ軍に任命され、アメリカに持ち帰るドイツ機を集める仕事をした
テストパイロットでもあるハロルド・ワトソン大佐。
彼のチームは「ワトソンの魔法使い」と呼ばれ、多くのドイツ製
戦闘機を操縦してシェルブールに集め、そこから本国に送りました。
きっとテストパイロット的には楽しい仕事だったろうと思います。
スミソニアン博物館の倉庫@パークリッジ
各地で評価を受けテストされたあと、ドイツの捕獲機は、スミソニアンが
希望を出した機体のみの倉庫まで輸送されてやってきました。
かつてダグラスの工場があったオヘアフィールドのパークリッジに
格納されたドイツ機の写真です。
それらはメリーランドへの倉庫移転を経て、今ではその全てが
ここスティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターで展示されています。
終わり。