Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2815

ナチスドイツの降下猟兵と野戦憲兵〜ウィーン軍事史博物館

$
0
0

 

20世紀初頭、ハプスブルグ家の最後の皇帝が執政の場を去り、
革命によって共和国が誕生するも、第一次世界大戦後の混乱の中で
国民はドイツ帝国の一員となることを自ら選び、併合が行われた。

 

今なら今北産業で説明できることを、なんとなく関心と知る機会がなかったため
これまでぼんやりとした認識しか持たなかったことを猛烈に反省しています。

しかし、ウィーンに旅行に行き、軍事博物館を訪問したことで、一気に
オーストリア併合についての知識を整理することができました。

人生でまたひとつわからなかったことが減って、嬉しい限りです。

 

その上であらためて疑問が湧いてきました。

ドイツと日本が敗戦した時、やはり日本の一地方であった大韓民国は、
戦後すぐに戦勝国の立場に立ち、日本に賠償させようとしましたが、
英米ら連合国に、お前ら日本と戦ってねーだろーが、あん?と一蹴されています。

そこで韓国は日本と直接補償交渉を始め、賠償を迫ってきたわけですが、その際、

「日本による朝鮮統治は強制的占領であったし、
日本は貪慾と暴力で侵略し自然資源を破壊し、朝鮮人は奴隷状態になった」

と激しく主張し、この時交渉に当たった外交官久保田貫一郎参与の、

「韓国で掠奪や破壊をした事実がないので賠償することはない」

「日本は植林し鉄道を敷設し水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えた。

日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろう」

という言葉に対して「妄言だ」と猛反発し、その報復として
李承晩ラインを設定し、竹島を占領して現在に至ります。

しかも、その後締結された日韓補償交渉で解決済みとされた問題を、
自国の裁判で覆して補償のお代わりをさせようとしているのは周知の通り。

 

 

さて、疑問というのは、韓国と似た状況でドイツに併合されていたオーストリアは
一体どのように補償問題に合意したのかということです。 

よく韓国人は日本を歴史問題で非難するのに、

「ドイツは賠償した」「ドイツは罪を認めた」「ドイツを見習え」

とドイツを引き合いに出すようですが、それでは当初からドイツは
オーストリアに対しすべての条件を飲んで補償を行なったのでしょうか。

 

調べてみたところ、そもそもオーストリアは戦後すぐに連合国によって
こんな風に分割統治されていました。

ザルツブルグを舞台にした「サウンド・オブ・ミュージック」が
ハリウッドによって制作されたのは、かつてこの地方が
アメリカによって統治されていたことと無関係ではなさそうですね。

それはともかく、この分割統治が終わったのは1955年。
日本は1952年ですから、さらにそれより長かったことになります。

なぜこれほどに独立が遅かったかと言うと、小さな国の悲しさで、
連合国側がドイツとの平和条約を優先したことに加え、そうこうするうちに
冷戦が始まってしまったからだといわれています。


そして、この1955年に締結された「オーストリア国家条約」で、
オーストリアはドイツ政府及びドイツ国民に対する請求権を放棄しているのです。

プロパガンダがあったとはいえ、国民投票で圧倒的な支持を得た上での
オーストリア併合だったので、さすがに国家賠償を求めることは
誇り高いオーストリアにはできなかった・・・と言うわけではなくて、
実は、オーストリアは、

「ドイツのオーストリアに併合に対する賠償は必要ない。
しかし、我々は当時ドイツ国民であったわけだから、ナチスの人道上の犯罪については
ドイツ国民と同じように補償を受ける権利がある」

つまり同じナチスの被害者として賠償せよ、と主張したのです。

うーんそうきたか。

これはドイツ政府の「意図」とも合致する請求でした。
というのは、当時のドイツ政府は、基本的に

「ナチス犯罪はヒトラーとナチスによって行われたもので、
ドイツ国民に支持されたものではなく、したがってドイツに責任はない」

というのを各種補償問題の落としどころにしようとしていたからです。

つまり、ドイツ政府の補償はあくまでも「ナチス不正」に対する補償であって
直接の「人道に対する罪」や「戦争責任」に基づくものではなかったのです。

「ドイツ民族の名において行われたナチスの不法については謝罪するが、
一般のドイツ人にはこれは関係ない。
補償は法的責任に基づくものではなく、道義的な義務に基づくものである」

とドイツは戦後一貫してこの態度を貫いています。

その結果、1961年に結ばれた条約で、オーストリアに対する補償は

「オーストリア政府がナチスの被害者に対して国内で補償する

この資金はドイツ連邦共和国政府が(9600万マルク)提供する」

という形に決まりました。 
ひらたく言うと、

「オーストリア政府の名前でお見舞金を出すから、そのお金はドイツが払え」

ってことです。

というわけで、韓国人のいうところの

「ドイツは罪を認めた。さらにこれに対し賠償した」

というのは、全く見当違いだということですね。

どうしてドイツがあくまでもこれらを認めないかについては、おそらくですが、
一旦認めてしまったら、そこで終わりにはならないのが世界の常識だからでしょう。

現に、かつての統治国が何度謝罪してもこの問題を終わらせようとせず、
飽くなき執念深さでこれを政治問題に絡め、あの手この手で
賠償を永劫させ続けようとする国が地球上には存在するわけですから。

さて、ということが改めて理解できたところで、展示にまいります。
こちらは「共和国と独裁」というテーマの、つまりハプスブルグ崩壊から
アンシュルス成立までのコーナーにあった兵器です。

右側:2cmFlak 38 

「 Flak」というのは対空砲のことで、

Flugabwehrkanone(対航空機砲)

の略称です。
ルフトバッフェで1939年に使用されていたものです。

左は探照灯だと思います。
その左の半月形の物体はわかりません<(_ _)>

冒頭画像のこれも対空砲で(って見たらわかりますが)
クルップ社の「8.8cm Flak 36 in Feuerstellung」です。

口径が88ミリで、これをドイツ語では

「Acht-Acht アハト・アハト」(88)

と称していました。
ドイツ語の武器装備の名前のかっこよさは異常。
ちなみに「フォイアシュテルン」と読むようです。

あまりにでかいので操作が難しく目標に当たらないんじゃないかと思いましたが、

旋回角 360度 発射速度 15-20発/分 有効射程 14,810m(対地目標)
7,620m(対空目標) 最大射程 11,900m(対空目標)

 

というスペックで、対戦車砲としても有用であったため、1930年台から
ヨーロッパの戦場では活躍したということです。

順不同に写真を紹介していきましょう。
ドイツ軍の空挺部隊は、陸軍ではなく空軍が擁していました。
ドイツ語では、降下兵のことは

Fallschirmjäger

おそらく「ファルシムイエーガー」と読むんだと思います。

Fallschirm=落下傘、Jäger=猟兵(軽歩兵)なので、
ドイツでは空挺兵と言わず、「降下猟兵」(こうかりょうへい)

という名称を充てるようです。

空挺作戦というと、わたしなぞ「遠すぎた橋」で描かれた
マーケット・ガーデン作戦くらいしか思いつかないのですが、
実は、このマーケット・ガーデン作戦で、Dデイ以来負けなしだった
快進撃の連合軍が勝てなかったのは、そのたくさんある原因の一つに、

連合軍の効果予定地にドイツ軍の降下猟兵軍が駐留していたから

と言われているらしいんですね。

ルフトバッフェの降下猟兵は第二次世界大戦において初めて、
大規模な降下作戦を行った部隊であり、降下作戦が行われなくなってからは
精鋭無比の歩兵部隊として活躍したということです。

空挺スーツの胸右側には鷲がハーケンクロイツを運んでいる
降下猟兵のマークが刺繍されています。


鉄兜を被った兵隊が胸から下げているタグには、

Feldgendarmerie(野戦憲兵)

と書かれています。
現物はこれです。

Feldgendarmerie.JPG

これは「フェルドゲンダルメリー」と読めばいいんでしょうかね。

その名の通り、ドイツ陸軍の憲兵組織で、警察権を有する部隊です。
優秀な人材を選抜するため試験は大変厳しいものだったそうですが、
写真の憲兵は、憧れの野戦憲兵になり、母親に晴れ姿を見せているのかもしれません。

野戦憲兵隊の任務は国防軍に同行し、前線占領地の治安を維持することです。

警邏、交通管制、市民の統制、パルチザンおよび敵敗残兵の捜索・逮捕、
そして処刑も彼らの任務とされていました。

日本の憲兵もそうでしたが、警察権力を行使する憲兵は一般兵から嫌われ、
煙たがられ、軍紀維持のために脱走兵を銃殺するようなことが増えてきた
終戦直前は、写真の金属プレート(ゴルゲットという)をいつも首にかけているため

「ケッテンフンテ」(Kettenhunde、「鎖付きの犬」)

などと軽蔑を込めて一般兵から呼ばれていたそうです。

国防軍以上に恐れられたのが親衛隊野戦憲兵隊(SS-Feldgendarmerie)で、
彼らは命令違反者や脱走兵など「敗北主義者」を逮捕、処刑する権限を持ち、
その冷酷なことから、こちらは

「コップイエーガー」(Kopf Jäger, 「首狩り族」)

という異名を奉られていました。

 

日本の憲兵がその「悪名」を戦後再生産されてきた、と言う件について
以前映画「憲兵とバラバラ死美人」のついでに語った経験からいうと(笑)
こういう話には必ず伝聞やその誇張が悪評を作り上げた部分があるはず。


・・・なのですが、そんなわたしも、こと相手が外でもないナチスの憲兵となると、
これらの風評を無条件に信じてしまっているらしいのは困ったものです。

 

 

続く。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2815

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>