ウィーン軍事史博物館の不思議なところは、第一共和国の成立(1919)
からアンシュルス、オーストリア併合、そして第二次世界大戦の終わりと
これだけの期間が一つの展示室に収まっていることです。
ただでさえドイツ語中心の説明でパッと見区別がつかないのに、
こんな微妙な期間を一緒くたにしてしまうのは如何なものか、
とわたしは写真の整理上思ったりしているわけですが、武器装備的には
それほどの変化はなかったということだったんだと思います。
というわけで今日はこの部分に展示してあった装備品をご紹介していきます。
Fieseler Fi 156 Storch(シュトルヒ)
ナチスドイツ軍の連絡機、フィーゼラーの「ストーク」(コウノトリ)です。
フィーゼラーはドイツのパイロット、ゲルハルト・フィーゼラーが創始した
航空機会社で、彼自身がナチス党員だったため、ナチスが政権を握ると
この「ストーク」を生産し、会社は発展しました。
フィーゼラー(左)と美人パイロット。
フィーゼラーは第一次世界大戦では19機撃墜の記録を持つエースでしたが、
戦後は曲芸飛行のパイロットとしてショーで活躍していました。
Fieseler and the F2 Tiger - 1st World Aerobatic Champion
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1912年に行われた飛行大会で優勝したときの、フィーゼラーの
華麗なる曲技が動画に残されています。
この時に乗ったF2タイガーもまたフィーゼラーの最初の製品でした。
カモフラージュ塗装されたバイクはやはりBMW製で、
BMW R 12 motorcycle
と説明があります。
バイクの横にあるのはカバンですが、毛皮があしらってあります。
お洒落でやっているのではないと思うのですが・・・。
これらの兵器の前には
rüstungsgüter aus der Zeit des"totalen Kriegs"
「完全戦争の時代の兵器」
とあり、この「トータレン・クリーグス」の意味がわからなかったのですが、
立てかけられた大きな看板に書いてあるのは
「Fristenstelle Rampobau」
でさらに意味がわかりません。
「Fristenstelle」は締め切り、「Rampsbau」は船体建設という意味です。
左のほうに、ユダヤ人絶滅収容所の囚人の制服があります。
アンシュルス後、オーストリアではユダヤ人指導者の逮捕、シナゴーグの破壊、
商店へのボイコットなどの弾圧が政策に沿って行われました。
オーストリア在住のユダヤ人たちは、1938年8月にアドルフ・アイヒマンが
指揮をとりユダヤ人の追放を大々的に行ったため、亡命を余儀なくされました。
しかし、ヨーロッパの他の国に亡命したユダヤ人たちは、
そこに侵攻してきたナチスの手で強制収用所で命を落とすことになります。
アンシュルス前には17万人強いたウィーンのユダヤ人は、終戦となった
1945年の5月には5512人しか残っていなかったそうです。
こちらはメッサーシュミットMe262のエンジン。
JUMO004という型番だそうです。
メッサーシュミットの「シュバルヴェ」(燕)については、
同じコンセプトで制作を企画された「橘花」と一緒に、
スミソニアン博物館の展示を元にお話しさせてもらったことがあります。
なんかすごく綺麗で劣化が見られないんですが、これはもしかして
終戦直前に作られ、全く使われたことのないエンジンだったのでしょうか。
それでこちらです。
家族と一緒だとどうしても写真を丁寧に撮ることができず、展示室の写真の多くが
細部、特に肝心の説明のところがブレてしまい、このシリーズのエントリ制作は
もうとてつもなく大変な作業をしているわけですが、この蓮の実みたいなのも
当初諦めかけた難物です。
しかし、軍事博物館の英語版wikiに、ここには
「V-2ロケットのエンジンの破片」
があると知り、画像検索してみて、これがそうではないかと思いました。
V-2ロケットについては、特に戦後、アメリカとソ連が、この技術を獲得するために、
ドイツ人技術者の囲い込みを「ペーパークリップ作戦」などで行った、
という話を何度かここでしてきましたが、今回初めて知ったことは、
このV-2ロケット、ミッテルバウ=ドーラ強制収用所で作られていたということです。
この収容所はユダヤ人絶滅収容所とされるものではなく、収容者は
フランスとソ連の捕虜、つまり軍人がほとんどだったということですが、
敵国の軍人に武器を作らせたということに不思議な感覚を抱きます。
ミッテルバウ=ドーラ収容所の日本語wikiの説明にはわざわざ
「ミッテルバウにガス室はなかった」と書いてあるのですが、
強制労働が目的の収容所に普通ガス室はないだろうっていう。
なんたる感激、ゴリアテの実物をこの目で見ることができました。
感激のあまり画像がブレてしまいましたが、あの!ゴリアテ。
ライヒター・ラドング・ストレガー・ゴリアテ
(Goliath Light Charge Carrier)
でございます。
戦後これをドイツで見つけたアメリカ軍兵士が喜んで遊んでいるの図。
本当はこんな風に乗って移動するものではありません。
ゴリアテはドイツ国防軍が使用した遠隔操作式の軽爆薬運搬車輌で、
高性能爆薬を内蔵し、有線で遠隔操作され無限軌道で走行・自爆する自走地雷です。
地雷原の啓開や敵の陣地軍用、車両の破壊を目的に運用されました。
つまり使い捨てってことなんですが、これ、コストパフォーマンスの点で
どうなんだろう、って誰でも思いますよね。
案の定一台が高すぎたのと、時速9.5 kmと移動速度が遅かったこと、
段差が11.4 cm(細かい・・)以上あると決して乗り越えられないという
使い勝手の悪さに加え、ケーブルを切断されるとコントロールできなくなるとか、
装甲が弱くて銃で撃破されてしまうとか、まあそういった理由で(涙)
武器としてはけっして成功したとはいえません。
にもかかわらず有名なのは可愛いからじゃないでしょうか。(私見です)
山岳地用トラクターです。
1942年冬、東部戦線での馬の不足がますます顕著になり、
ドイツ軍の自動車でさえも割り当てられた任務をこなすことが難しくなりました。
Steyr-Daimler-Puch AGが開発したのがこのトラクターです。
寒冷地である東ドイツの国防軍のニーズに対応しキャタピラー仕様になりました。
ここに示されているRSGは、ウィーン美術館の所蔵品を疎開させるため
アルタウッセの塩鉱山まで輸送るのに使用されたものだそうです。
プロトタイプはわずかしか生産されておらず、貴重なものです。
クーゲルブンカー(Kugelbunker)
クーゲルとはドイツ語で「ボール」のことです。
見ての通りボール型の壕のことで、空襲の多い工場の敷地内に
小さな避難用シェルターとして設置されていました。
この壕は、ナチスドイツが世界大戦中に築いたいわゆる
「南東の壁」の東地域で1人の避難所として建てられました。
ヘビーロードキャリアバージョン です。
当初は弾薬運搬用として1942年から使用されていましたが、
そのうち、ゴリアテのように遠隔操作で爆弾を爆発させるために運用されました。
見ればわかりますが、ボルグヴァルトはゴリアテよりはるかに重く、
その分ペイロードも大きくなりました。
ちなみに、ボルグヴァルトは会社名で、ゴリアテを作ったのもこいつです。
ゴリアテは有線だったのでそれが切れたらおしまいでしたが、
ボルグワードIVは無線で操作されます。
車体前面に傾斜したスロープ様の爆薬搭載部があり、
ここに収められた台形の箱に入った450kgの爆薬を搭載して目標に接近し、
接地地点で充電の電気を切り、爆薬をスロープから前方斜め下に投下し、
運転手は本体を安全圏まで後退した後に起爆させるという仕組みです。
目標まである程度の距離までは人間が搭乗して操縦し、
離脱も行うので運転手は大きな危険にさらされました。
車両は装甲されていましたが、1942-43年までにその装甲は不十分であり、
しかもゴリアテよりもサイズが大きかったため、発見されやすかったそうです。
この車両は、2010年3月31日、ウィーンの市街地での解体、
および土工作業中に他の戦争遺物とともに発見されました。
進駐軍が残していったジープも展示してあります。
最後に印象に残ったこの絵をご紹介しておきましょう。
Die Befreiten「解放された」
という題の、ハンス・ヴルツ(1909−1988)の作品です。
ヴルツは第二次世界大戦中、1940年から1944年まで戦線にいて、
そこでイギリス軍の捕虜になっていたという経験を持ちます。
彼が解放されたのは35歳の頃ということになりますが、前列の
皆がこうべを垂れている中で一人面を上げて空を見ているのは
ヴルツ本人でしょうか。
続く。