ルフトバッフェの撃墜王、ハンス=ヨアヒム・マルセイユの伝記映画、
「アフリカの星」、最終回です。
冒頭画像は映画のシーンでも、主演俳優でもなく、またしても
マルセイユ本人の写真を参考に描きました。
ほとんど影をつけなくてもいい彼のシワひとつない顔から
22歳というあまりにも早い死をあらためて思うとともに、なぜか、
「一人のモーツァルトの影には百人のモーツァルトが死んでいることを忘れるな」
という、昔読んだ原口統三の「二十歳のエチュード」の一節が、彼の時代
若くして死んだ無数の名も無きパイロットの存在を思い起こさせるのです。
さて、ムッソリーニから勲章を受賞されることが決まり、
ローマに向かうことになったマルセイユ。
ベルリン駅まで見送りに来た彼女のブリギッテの手をとり、
強引にローマ行きの列車に乗せてしまいました。
相変わらず強引な壁ドン男っぷりです。
「でも学校が・・・」
「おばさん、彼女の学校に休むと伝えておいて」
もちろん彼女は旅行の準備はもちろん、旅券も持っていないのですが、
胸に憲兵を表すプレート、「フェルドゲン・ダルメリー」をかけた
野戦憲兵が英雄マルセイユを知っていたのをいいことに、
見逃すようにちゃっかり頼むという俺様ルールで押し切ってしまいます。
有名人の特権濫用ガー!
二人が投宿したのはエクセルシオール・ホテル。
現在はウェスティンホテルの傘下になっている老舗高級ホテルです。
何も持ってこなかった彼女に、靴やドレス一切合切をプレゼントしますが、
いくら英雄でも給料は皆と同じだったと思うのよね。
マルセイユが実際にムッソリーニから軍事賞を授与されるために
ローマに行ったのは、死の直前である1942年8月のことでした。
北アフリカに戻る旅に、ローマまで彼が婚約者を同行していたのは事実です。
映画では二人の恋人たちのロマンチックな姿が描かれるのでした。
というか、後半のほとんどがこの恋愛を語るのに費やされています。
ところで、マルセイユ役の俳優ヨアヒム・ハンセンは27歳、
マリアンネ・コッホは26歳です。
実際のマルセイユの恋人ハンネも年上っぽいので、女性はいいとして、
最後までマルセイユの老けぶりが気になって仕方ありませんでした。
これ22歳に見えないよね。
ちなみに補助教師であるブリギッテを演じたコッホは、医大在学中
俳優になるためにキャリアを中断したのですが、その後キャリアを積み
グレゴリー・ペックやクリント・イーストウッドと共演するという
西ドイツを代表する女優となりながらも、もう一度大学に戻り、
44歳にして博士号を取得して医師となりました。
ホテルにお迎えに来た現地エスコート係の黒シャツの皆さん。
入ってくる時、ちゃんと手を上げてファシスト党の挨拶しています。
このときマルセイユが授与されたのは、イタリアで最高の軍事賞、
軍事的勇気の金メダル(Medaglia d'oro al valor militare )でした。
毎日式典と歓迎会、公式行事の毎日にうんざりしたマルセイユは
軍が取ったホテルをこっそり逃げ出し、彼女とローマ観光を楽しみます。
ここはトレビの泉かな?
コモ湖畔では彼女が飛行服のマフラーにするシルクのスカーフをプレゼント。
「お守りにするよ!」←フラグ
生バンド付きのディナーの最中、ブリギッテの顔はどんどん曇っていき、
ついには席を立ってしまいました。
彼がアフリカに帰ってまた飛行機に乗るのが彼女は耐えられないのです。
それは何ヶ月か以内に確実に死ぬということと同義だからでした。
ついに彼女は、ローマから二人で逃げて亡命しようとまでいいだすのですが、
これは実際の経緯を知っていると、「ああ」と察するラインです。
実際マルセイユがローマでやらかした?ことは以下の通り。
「彼はローマで行方不明になり、当局はローマ警察署長だった
ゲシュタポのヘルベルト・カプラーに、捜索と報告を行わせた。
噂によると、彼はこのとき一人のイタリア人女性と逃走するも、発見され、
説得されて部隊に戻ったのだが、このことは例外的にどこからも叱責されず、
その軽率さに対し罪を問われることはなく不問にされた」
なんとマルセイユ、ゲシュタポのカプラーの手で確保されなければ、このとき
婚約者のハンネではなく、現地の女の子と脱柵?していた可能性もあったのです。
彼が北アフリカで死亡したのはこの事件から1ヶ月後です。
映画でも主人公が次は自分が死ぬ番だと苦悩を告白していましたが、
この時のマルセイユが、目も眩むような栄光と我が身に迫った死の間で
今の自分も婚約者も放棄し、どこかに行ってしまうことを考えたとしても、
彼の前科を考えれば、決してありえないことではなかったかもしれません。
ただ、常人と違うのは、彼がそれを実行したことです。
そして彼が常人ではなかったからこそ、逃走はなかったことにされたのです。
この映画の不思議なところは、このロベルトをここでまた出してくるところです。
「ちょっと旅行で寄ったんだ」
この人も北アフリカに帰らなくてはいけないのに、なかなか呑気なことです。
ロベルトが現れたことでブリギッテは逃げようとまで迸らせた激情に
いわば水をかけられた形となり、観念したように
「行くのね」
と呟くのでした。
実際マルセイユはローマから直接北アフリカに戻り、婚約者は
ローマで彼を見送っています。
マルセイユが自分を放置して行方不明になったこともさながら、
見つかったときに女の子と一緒だったことを知らされた彼女が、
彼を相手にどんな修羅場を演じたか、他人事ながらちょっと心配になります。
ただし、彼は前線に戻ってから、ハンネと結婚するためという理由で
クリスマス休暇を申し出ているので、二人の仲が破綻したわけではなかったようです。
アフリカに戻ったマルセイユは、8月23日から戦闘に復帰しました。
映画でも描かれていますが、帰ってからの彼は絶好調で、
9月1日には連合軍機を17機撃墜という新記録を打ち立てています。
空戦で、マルセイユの当初のライバルだった
ヘルデンライヒ中尉が撃墜され、重傷を負い死亡しました。
「僕は君を羨んでいた」「でも好きだった」
部隊に戻ると、見慣れない男が同僚の中に混じっていました。
「彼は誰だ」
「ブラウン大尉だ」
「彼を落としたやつだ」
同僚のヘルデンライヒを落とした敵が確保されていたのです。
それにしても驚くのが、敵のパイロットだというのに、このときも
テントの中でイギリス軍がみんなに混じってタバコなんぞ吸っていることです。
パイロットの捕虜の扱いって第二次大戦中でもこんなだったんですかね。
彼は彼で、マルセイユに
「君はマルセイユだな。君が僕を落としたんだ」
実際にはマルセイユは9月3日、かつて自分を一度撃墜した
カナダ王立空軍のエース、ジェームズ・フランシス・エドワーズに
再び撃墜されています。
エドワーズはマルセイユの親友の一人を撃墜しており、もう一人も
この頃行方不明になったことから、人生最後の数週間、彼は
ほとんど誰とも話をせず、いつも陰鬱な様子で、戦闘の緊張から
夢遊病やPTSDのいくつかの症状を併発していましたが、
本人はそのことを全く自覚せず、自分の行動を覚えていなかったそうです。
もともと圧倒的な物量差の中でドイツ軍はかなりの劣勢でしたが、
その中でマルセイユというスーパースターの超人的な勝利は、
部隊の精神的な支えだけでなく、彼がいる限り負けないというくらいの
根拠のない自信にまでなっていため、部隊は彼の死後、
「マルセイユ・ロス」で士気が極端に落ち、1ヶ月アフリカから撤退しています。
マルセイユの個人技量は優れていましたが、指導者ではなかったため、
他のパイロットは生前の彼を補助するだけの役割に甘んじ、ゆえに
後継者もあらわれず、その死は大きな空洞を組織に開ける結果になったのでした。
そして、映画でも彼の最後の日が描かれます。
1942年9月30日の護衛任務です。
当時指揮所から任務を支持していたエドワルド・ノイマンはこう証言しています。
「わたしは指揮所にいてパイロット間の無線通信を聞いていました。
すぐに深刻なことが起こったことに気づきました。
飛行中の彼らがマルセイユを領土内に誘導していること、
そして彼の飛行機が大量の煙を放出しているということです」
基地に戻る間、彼の新しいメッサーシュミットBf 109 のコックピットは
煙で満たされ始め、視界を失った彼はウィングマンに誘導されて
ドイツ領空内に到着しましたが、すぐに機体はパワーを失い、流されて行きました。
彼は仲間に、
「脱出する。もう我慢できない」
という最後の言葉を残し、急降下する機体からベイルアウトしましたが、
後流に巻き込まれ、脱出時に左胸を垂直尾翼に強打し、
おそらくそれで死亡したか、あるいは意識を完全に失ったと考えられています。
彼はそのためパラシュートに手もかけない状態で地面に落下しました。
マルセイユ の遺体の検死を行った医師の報告書にはこのように記されました。
「パイロットはまるで眠っているようにうつ伏せに横たわっていた。
彼の腕は彼の体の下に隠されていた。
近づくと、彼の押しつぶされた頭蓋骨の側面から血の塊が見え脳が露出していた。
また、腰の部分のひどい傷が目に入った。
これは落下によって生じた傷ではないことは確実だった。
脱出時にパイロットが機体に激突したことは確かである。
死んだパイロットを慎重に仰向けにしフライトジャケットのジッパーを開けると、
柏葉と剣の騎士の十字架が現れ、すぐにこれが誰であるかがわかった。
死んだ男の時計を見ると、それは11:42で止まっていた」
そしてラストシーン。
音楽の授業中、校長先生がやってきてドアを開けます。
校長は無言ですが、ブリギッテはその顔を見ただけで全てを察しました。
そして彼女も一言も発することなく、教壇に突っ伏しました。
歌うのをやめ、けげんそうに彼女の泣く様を見ている子供たち。
マルセイユ の100機撃墜の記念に入れた数字と、100機以降の撃墜数を表す
58の線がペイントされているメッサーシュミットの尾翼が、
砂漠の風に吹かれているカットで映画は幕を閉じます。
ところで、後世の人々、マルセイユを称賛する伝記作家は、
彼がナチス嫌いだったことをなんとか証明しようと、あたかも
証言をかき集めているようにみえます。
たとえば、ヒトラーと謁見したマルセイユが、
「総統は相当変わったタイプだ」
といったという話。
まあ、20歳のヤンチャ坊主がヒトラーと会った後、
そういう軽口を叩いたとしても、それはよくある話でしょう。
また、授賞式の席でナチに入党するつもりはないかと聞かれた彼が、
よりによってヒトラーの前で声も憚らず
「魅力的な女の子がたくさんいるなら入ってもいいっすよ」
といったとかいう話も。
これも彼のように、上から怒られることをなんとも思っておらず、
自分がエースでいるのをいいことにやりたい放題ならあるあるでしょう。
また、ユダヤ人迫害について、ある人物は、パーティでその噂をしていると、
マルセイユが横で聞いていたので彼は知っていたはずだ、と述べました。
マルセイユは、たとえば自分を取り上げたかかりつけの医者を含め、
自分の周りのユダヤ人が一体どこに行ってしまったのか、
ということを人に尋ねたこともあったそうですが、知人の一人は、
彼がエースとして有名になり、持て囃されて上に近づくのと反比例して
国の大義に対する態度は微妙に変わっていき、いつのころからか
その話題を一切口にしなくなったのに気がついた、と証言しています。
学校を出たらすぐに飛行学校に入り、飛ぶことだけを考えてきた彼は
政治的なことに関しては全く定見というものを持たぬまま、
国の英雄としての立場を自然に受け入れていたようにわたしには思えます。
人種差別を嫌い、黒人であるマテアスと友達のように付き合ったのは
ナチス嫌いの彼の反発のあらわれだった、などというのは
後世の「ある」人々がそうであって欲しいと願っただけの後付けの考察に過ぎず、
奇しくもパリのビリヤード爺さんが喝破していたように、彼は
自分がそこに生きて存在することを始め、全てをあるがままにただ眺めながら、
そこで認められることを願う、無邪気な理想主義者にすぎなかったのではないでしょうか。
終わり