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日独の占領制作と戦後の核、冷戦問題〜ウェストポイント軍事博物館

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ウェストポイント併設の軍事博物館より、今日は
戦後世界について、敗戦国の占領と戦後の核に関する展示をご紹介します。

冒頭写真は、連合国最高指揮官ダグラス・マッカーサーが
第一生命ビルを接収して置いたGHQ指令本部から出てくるところです。

第一生命ビルはGHQに接収され、返還後、再開発プロジェクトで
第一生命ビルのオリジナル部分を一部残して建て替えられ、現在は
DNタワー21という名称のビルに代わっています。

DNのDは第一生命、Nは同居している農林中金の頭文字から取られました。

 

ドイツの占領

第二次世界大戦が終了してから、アメリカ陸軍関係者の大半は、
ドイツと日本の占領に何らかのかたちで関与することになりました。

まず、ドイツですが、連合国は1945年のヤルタ会談とポツダム会談で
すでにドイツに対する共通の占領政策を打ち出していました。

特にヤルタ会談は、まだ戦争の勝敗が決まっていない2月に行われながら、
その内容は、戦勝国における利害調整会議であったことでも知られます。

その結果、ドイツはアメリカ、イギリス、ソビエト、フランスの軍隊によって
占領されていくつかのゾーンに分けられ、軍政統治されることになりました。

ドイツの位置ドイツ全土占領地図

Occupied Berlin.svgベルリン市占領地図

 

連合軍司令官アレキサンダー・M・パッチ将軍の指揮下にあるアメリカ領土で、
陸軍がまず行ったのは、ドイツ軍の武装勢力の動員解除です。

Alexander Patch portrait.jpg パッチ将軍

その占領区で、アメリカ軍は軍事政府のシステムを確立。
そして、地方政府と国政から、とにかくナチの影響を根絶しました。

軍政は恒久的ではなく一時的なものであることが決定しているので、
占領側は、ドイツ政府が将来自治を行うことができるように再教育し、
戦争でズタズタにされた経済の回復を支援しました。
(展示説明ママ)

さらに、アメリカ陸軍はその一部の野戦部隊を、そのまま
特別な米国警察に再編成しなおしました。
これは、アメリカ軍地帯でのみ移動可能な警察部隊として活動しました。

「コンスタンブラリー(Constabulary)」

という珍しい響きの単語は、このとき編成された
巡査で構成されるアメリカ警察部隊のことを指し、
同時にアメリカ陸軍が第二次世界大戦後、西ドイツで
組織した陸軍軍人からなる警察組織の固有名詞でもあります。

写真は占領下の西ドイツ人にはおなじみとなった、
コンスタンブラリーの独特の制服です。

1952年に合衆国警察隊、コンスタンブラリーは歴史の幕を閉じました。

近代アメリカ陸軍の歴史でもで最も多彩で、効果的な役割を果たした、
とここの説明には書かれています。

その組織は、最初の司令官であるアーネスト・N・ハーモン少将、
装甲師団のエネルギッシュで短気な元司令長官が作り上げた努力の産物でした。

「ernest harmon general」の画像検索結果ハーモン大将(最終)

その歴史は5年にも満たないものでしたが、コンスタブラリーは
西ドイツの人々をある時には恐れさせ、この世代の人々に
決して忘れられることのない強い印象を残しました。

コンスタブラリー戦隊は、1946年、第1および第4装甲師団から
退役軍人部隊を引き抜き、その後ドイツで占領任務にあった
複数の騎兵隊と統合して編成されました。

そしてここに残されている独特のユニフォームが与えられました。
黄色・青・黄色のトリプル・ストライプのヘルメットライナー、
「サンダーボルト」記章付きの肩当て、および黄色いナイロンスカーフ。

「constabulary insignia US army」の画像検索結果サンダーボルト

彼らのジープ、戦車、その他の乗り物には、全て独特の
黄・青・黄色の縞模様が付けられていました。

このため、コンスタブラリーにはドイツの村人から
カルトフェルカファー(kartoffelkäfer、ジャガイモカブト虫、
あるいはコロラドハムシ)という愛称を付けられました。

「kartoffelkäfer」の画像検索結果似てるかも

重武装をし、カラフルな制服を着た騎兵はすぐにドイツ国民の注目を集めました。

3人乗りのパトロールジープはすべて口径30の機関銃を搭載し、
各警察部隊は37ミリの大砲と口径50の機関銃を搭載した装甲車を装備。
軽戦車部隊と騎馬小隊が各政権本部に配置されました。

コンスタブラリーのヘルメット(左)。
右は第511空挺部隊の「ファティーグ・キャップ」です。

コンスタブラリーのモットーは「機動性、警戒、正義」。

選り抜きの隊員によって構成され、起こりうるいかなる状況下にあっても
民間人と兵士を問わず対応できるような訓練をされていました。

部隊組織はニューヨーク州警察をお手本にモデル化され、
隊員は可能な限り困った人々に対し、親切にするように教えられており、
実際に彼らは常に義務の遂行をしようと努めていました。

このように、新世代のドイツ人に希望と安心感を与え、
民主主義の理想についての感覚を植え付けることができたコンスタブラリーでした。

 

・・・・というのは、アメリカ陸軍のテキストブックから抜粋した文ですが、
それではドイツ人に恐れられていたというさっきのはいったい・・・。

まあ、物事には良い面ばかりではないのは皆さんもご存知の通りです。

警察組織であったコンスタブラリーはむしろそれを取り締まる側だったと
信じたいですが、軍政下のドイツで無秩序なアメリカ兵との間に
望まぬ子供が多く生まれて社会問題になっています。

しかも子の認知およびその生活費の支払いを請求する訴訟は禁止されており、
西ドイツ法廷ではアメリカ軍兵士を裁くことはほとんど不可能でした。

占領下で父をアメリカ軍兵士として生まれてきた子供のうち約3パーセントが
アフリカ系アメリカ兵との子供であったといわれていますが、この場合、
たとえ男性に責任を取るつもりがあっても、アメリカ軍の規則で
異人種間婚姻が禁止されていたため認められず、俗に
「Negermischlinge」ニーガーミシュリンゲ(黒人混血児)
と呼ばれた彼らは特に悲惨な人生を辿ることになりました。

 

これはドイツに限らず、日本でも起こったことですし、ドイツを占領した
各国の中ではアメリカはまだマシな方で、こういった規制は他の国では
全く顧みられていなかったので、結果は推して知るべしでした。

 

日本の占領

日本の占領はドイツの占領とは大きく異なる線をたどりました。

日本と戦った11か国を代表する極東諮問委員会がワシントン州に設立されましたが、
戦後政策を実施する真の力は、東京にその司令部を持つGHQの最高司令官、
ダグラス・マッカーサー将軍がほぼ一手に握っていました。

ここにあった説明をそのまま翻訳しておきます。

「占領下でのアメリカの軍隊は、主に警察の役割を果たしていましたが、
占領軍は、主に戦後におけるの日本の復興をを支援しました。

1947年半ばまでに、新しい国会が自由選挙により選出され、
急速に憲法上の君主制、実質民主主義に変えるための措置が講じられ、
その結果、現在の日本は世界の経済大国の1つとなっています。」


占領の綺麗な面だけ見るとこうなるんですねわかります。
日本が経済大国になったのは、国民的資質の賜物というだけでなく、
かなりの部分アメリカのおかげ(日米同盟で保障を依存していたから)
という意味ならばその通りだと思いますが。

ここの展示で存在感を特に放っていたのは、この看板です。

 The High Commisioner Of The Ryukyu Isrands
琉球列島高等弁務官

1945年、アメリカ軍が沖縄に上陸すると同時に、アメリカはここに
米国政府を置きました。
USCAR(ユースカー)と呼ばれた琉球列島米国民政府です。

琉球列島高等弁務官は、陸軍中将の高等弁務官をトップとし、
その権限は強大で、しばしば下部組織である琉球政府の政策に介入しましたが、
このことが沖縄住民の反発を買い、復帰運動が激化したということがあります。

琉球米国民政府が沖縄返還と同時に閉庁し、高等弁務官も
六人の高等弁務官の施政を経て1972年に廃止されることになりました。

このマークは、鷲が右足に月桂樹?を、左足に矢を持っており、
おそらく武力と平和の均衡を意味しているのではと思われます。

六枚の絹を重ねた琉球着物を着た琉球人形がありました。
琉球政府の”与良Chobyo”という人物が、最後の高等弁務官を務めた
(第6代)ジェームズ・ランバート陸軍中将に贈ったものです。


病院を視察するランパート中将。
陸軍士官学校の校長を務めたこともあります。

 

戦後の核抑止力

「第二次世界大戦の終わりに最初の原子爆弾が爆発し、
戦争の新しい時代が到来しました。」

と書いてあります。この他人事感ぱねえ。

戦争後の4年間、米国は原子兵器を世界で唯一有する国でした。
これに対し、ソビエト連邦は同等の能力を確保しようと国力を投じました。

当時、原子力兵器の存在というのは、いうなれば
従来の戦争の可能性を排除した新しい国力のバランスを生みました。

第二次世界大戦が終わろうとしている頃、すでに2つの主要な大国であった
米国とソ連は、互いの幅広い国際問題に関する対立に気付いていました。

その決して和解できない両国の齟齬の原因は、対立する国益とイデオロギーです。
この対立は「冷戦」として知られるようになりました。

 

ソビエト連邦は1949年の実験を成功させ独自の原子爆弾を所有するようになり、
世界には二大大国による軍事的均衡(緊張)が生まれることになります。

両国の戦略的思想家は、この変化した世界における新しい解決策を模索していました。

(左、ファットマン)

彼らの出した結論は、最終的に抑止力と呼ばれる均衡状態の支える平和です。

西洋の思想家は、従来の軍隊の運用しながら、かつ
核保有を拡大していくという計画を打ち立てました。

1945年に国連が創設されましたが、これが多くの人々が期待するような
安心感を世界に提供することにはならず、むしろ失敗だったと言えましょう。

その結果、北大西洋条約機構(NATO)やワルシャワ協定など、
いくつかの地域安全保障協定が確立されていくことになります。

 

しかし国際機関も地域の安全保障協定も、第三世界の多くの地域において
戦前から勃興していた民族主義運動と共産主義運動の再発を防ぐことはできませんでした。

 

中国では、日本との戦争終結後である1926年、
民族主義者と共産主義者の間に内戦が起こっていました。
1949年までに、毛沢東の共産党は、蒋介石の中国民族主義軍を破り、
フォルモサ島(台湾)に強制的に撤退させました。

軍事的、政治的、心理的な原理と技術を組み合わせた革命戦争。
毛沢東の「文化大革命」は、20世紀後半の他の革命戦争のモデルになりました。

中国での共産党の勝利は、1950年に中国がソビエト連邦と結んだ
友好と同盟の条約と相まって、共産主義があたかも一枚岩であるように思わせました。

中国での共産党の勝利と東ヨーロッパ諸国におけるソ連の傀儡政権の創設により、
西側は、彼らの考えるところの世界共産主義の拡張を封じ込める、
という問題に対処することを余儀なくされていったのです。

これらの認識は、朝鮮半島とインドシナの出来事に対して
西側諸国がとった軍事的対応に生かされたということができるでしょう。

 

原子爆弾の投下スイッチ

 

続く。

 

 

 


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