戦争に負けたらその国の海軍は艦艇を戦勝国に接収されるのが慣習です。
第一次世界大戦が終わった後、敗戦したドイツは休戦規定にのっとって
処分される艦隊を敵国の港に乗員ごと移送したのですが、このとき、
敵の手に落ちる艦隊を自らの手で沈めてしまった提督がいました。
ドイツ降伏の1918年11月の後から、最終処分がベルサイユで決定されるまで、
連合国は公海艦隊のほとんどをイングランドのスキャパー・フローに収容すると決め、
その指揮を執ることを艦隊司令の
ハンス・ヘルマン・ルードヴィヒ・フォン・ロイター少将
Hans Hermann Ludwig von Reuter (1869ー1943)
に要請しました。
フォン・ロイター少将
今にして思えば、敵国の司令官に捕虜の管轄を全て任せるようなものですが、
そのあたり、第一次世界大戦ごろまではいわゆる「騎士道精神」に基づく
性善説が生きていたということなのかもしれません。
結論から言うとこの「信頼」は手酷く裏切られることになり、これ以降
敵指揮官に同種の権限が与えられることはなくなったと思われます。
さて、連合国は当初誇り高きドイツ海軍公海艦隊司令である
フランツ・フォン・ヒッパー提督に艦隊の移送を指揮させようとしたのですが
提督は、ドイツ艦隊を中立国ではなくイギリスに運ぶ措置に激怒し、
任務を拒否し、自分の後任にフォン・ロイターを指名したということです。
しかし、フォン・ロイターもまたヒッパー提督と同じ考えでした。
ドイツ代表団がベルサイユ条約に署名する最終期限が近づいた
1919年6月21日、彼は74隻ほとんど全ての艦を自沈させてしまったのです。
この「自沈艦隊」についての顛末を最初からお話ししましょう。
■ 降伏
第一次世界大戦でドイツの敗戦が決まったあと、海軍で最初に降伏したのはUボートでした。
これらの中には日本軍に転籍したS60、V127のように
外国に譲渡されたものもありました。
その後、艦隊は途中までお出迎えにきた王立海軍のHMS「カルディフ」の先導で、
合計74隻の船がスキャパ・フローに収容されることになりました
ドイツ艦隊を率いるHMS「カルディフ」
「エムデン」「フランクフルト」「ブレムゼ」がスキャパ・フローに到着
■ 収容された”艦隊”
敵港に艦艇ごと収容されたドイツ軍は、敗戦に続くこの軟禁状態に完全に士気を失いました。
規律の欠如、貧しい食糧、娯楽の欠如および遅い郵便サービス。
これらの問題が累積し「一部の艦では言葉では表せない汚物を生んだ」と言います。
食料は月に2回ドイツから送られましたが、単調で質の悪いものばかり。
乗員たちは気晴らしを兼ねて魚やカモメを捕まえることで、栄養の補給をしていました。
駆逐艦の舷側から釣り糸を垂らすドイツ人水兵たち
艦艇の乗員の上陸はおろか、他の艦同士の相互訪問さえ禁止されていたばかりでなく、
ドイツへの郵便は最初から、後に着信も全て検閲されました。
艦艇にはかろうじて軍医が乗り込んでいましたが、歯科医は一人も乗っていませんでした。
(なぜか特攻に行く『大和』には歯科軍医を乗せていたわけですが)
しかしイギリス軍は捕虜艦隊への歯科治療の提供を拒否しました。
理由はわかりません。
単に人員がいなかったのかもしれないし、イギリス海軍的に
歯科治療は人道上最低限の権利とまではなっておらず、そもそも
歯牙治療に緊急性はないとされていた時代だったとうことなのでしょうけど。
それでも捕虜の帰国事業が行われていなかったというわけではありません。
ロイターの指揮下にある乗員の数は、到着した頃の2万人から
継続的に送還されて、徐々に人数が減っていきつつありました。
スキャパ・フロー全景
■ 自沈計画決行
1919年5月にヴェルサイユ条約が締結され、艦隊の運命を知ったフォン・ロイター少将は、
彼の艦隊の艦が戦利品として押収され、連合国の間で分けられるという屈辱に絶望し、
艦艇を自沈させるための詳細な計画を準備し始めたといわれます。
それからは秘密裏に、ある一点の目標に向かって静かに作戦遂行準備が進められ、
全艦隊の関係者が心をひとつにして、決行のチャンスを待ち続けました。
そして運命の1919年6月21日がやってきました。
その日スキャパ・フローの艦隊は演習のため不在にしていました。
英艦隊が出航し終わった午前11時20分頃、ついに信号が全捕虜艦艇に送信されました。
「すべての指揮官と魚雷艇の艇長たちに告ぐ
本日付『パラグラフ11』ようそろ 抑留中隊司令」
「パラグラフ11」とは前もってフォン・ロイターが伝えていた艦隊を沈める暗号です。
その文章は、彼が配布した書類の11段目以降に次のように書かれていました。
「われわれの政府の同意無しに、
敵が艦艇の所有権を得ようとした時のみ、
それを沈めるのが私の考えである。
講和において我々の政府がこれらの艦船を引渡す条項に同意したならば、
我々を今の状態に追いやった連中の永遠の不面目という形で
引渡しは実現するだろう」
ちなみに「ようそろ」という文中の言葉ですが、
英語の「Acknowledge」(認知する・知らせるなどの意)を
当ブログ独自に海軍らしくこう解釈してみました。
各艦の間で手旗信号と発光信号が繰り返されると、全艦隊の乗組員たちは
一斉に、しかし静かに素早く行動を起こし、すぐに解体が始まりました。
シーコックとバルブが開かれ、内部の水道管が破壊されました。
舷窓はすでに緩められており、水密扉と復水器カバーは開いたままであり、
一部の艦艇では隔壁に大きな穴が開けられているものもありました。
艦尾から沈む「バイエルン」
艦隊には正午まで見かけに顕著な変化はありませんでした。
そのうち「フリードリッヒ・デア・グロース」が右舷に傾き始め、
すべての艦のメインマストに帝国ドイツ海軍旗が掲揚されると、
乗組員は次々に艦を放棄し始めました。
転覆していく「デフリンガー」
スキャパ・フローに停泊していたイギリス海軍艇はは3隻の駆逐艦でしたが、
そのうち1隻は修理中で、7 隻のトロール船と多数ボートがあるだけでした。
第一戦闘艦隊司令シドニー・フリーマントルは12時20分にこの非常事態の報告を受け、
飛行隊の演習を中止し、全速力で母港に戻りましたが、
彼が到着したときにはすでに浮かんでいるのは大きな船だけでした。
このときの目撃者の証言によると、
「フロッタ島を一周したときに私たちの見た光景は、
まったく言葉では言い表せないものでした」
「ドイツ艦隊のかなりの半分はすでに姿を消していました。
ボート、浮き輪、椅子、テーブル・・・・。
港はありとあらゆる人間の残す残骸の1つの塊のようでありました。
「最大のドイツ戦艦である『バイエルン』の船首は垂直に屹立していました。
と思ったら数秒後、ボイラーが破裂し、煙の雲の中海中に消えていきました」
フリーマントル司令は、艦を沈ませないよう、または浜に引き揚げるようにと、
可能な限りの小艦艇に必死になって無線を送り続けましたが、無駄でした。
最後に沈んだのは17:00の巡洋艦「ヒンデンブルク」で、その時までに
15隻の主力艦が沈没し、 生き残っていたのは「バーデン」だけ。
結果4隻の軽巡洋艦と32隻の駆逐艦が沈没しました。
この騒ぎで9人のドイツ人が射殺され、約16名が
救命ボートで陸に向かって漕いで戻る途中に負傷しました。
降伏するために岸に向かう途中射殺された水兵たちの墓
その後1,774人のドイツ人が逮捕され、捕虜収容所に送られました。
■ フォン・ロイター少将 vs. フリーマントル司令
フリーマントル司令はフォン・ロイターと彼の部下の将校数人を
HMS「リベンジ」(よりによってこの名前)に引っ立て、「無表情」な彼らを前に、
「これは不名誉な行いであり、
貴官らのやったことは敵対行為の再開だ!」
と激しく非難しました。
しかし、そう言いながらも後日個人的な見解として、フリーマントル司令は
「非常に不愉快でかつ屈辱的な立場に置かれていながらも、
尊厳を保ち続けていたフォン・ロイター少将に、私は同情を禁じ得なかった」
とも述べています。
おそらく一人の海軍軍人として通じるものがあったのでしょう。
ちなみに、この場面に遭遇した「リベンジ」乗組のイギリス海軍の若い将校は、
「この1日の最もドラマチックな瞬間は、英独両海軍の提督の会合でした」
と手紙に記しています。
「二人の男性はどちらも同じくらいの背の高さで、
どちらも背が高く、そしてとても見栄えがよかった(good Looking)」
とも。
彼がこの二人の提督の会話を覚えている限り書いているので、
翻訳しておきます。
二人は立ち止まると、ドイツ少将が敬礼を行い、次の会話が始まりました。
フリーマントル「貴官は降伏しにここに来られたのか?」
フォン・ロイター「左様。私自身と部下を降伏させるために来ました。
(急激に沈んでいく艦を払うような仕草をしながら)
他には何もありません」
沈黙
フォン・ロイター(VR)「私はこのことについての全責任を負う。
将校たちや下士官兵には何の関係もない。
彼らは全て私の命令で行動したのです」
フリーマントル(FM)「この裏切り行為(小声で強く非難する口調で)、
基本的な裏切り行為によって貴官はもはや抑留された敵ではなく、
我が軍の戦争捕虜として扱われることを理解しておられるのでしょうな」
VR「完璧に理解しております」
FM「処分が決まるまで上甲板に止まっていただきたい」
VR「Frag lieutenant(秘書官)を同行してもよろしいか」
FM「許可しましょう」
この世紀の大事件に対して、イギリス側は当然激怒しましたが、世界には
必ずしもそう思わない人たちもいたということをぜひ書いておきたいと思います。
まずドイツのいくつかの艦艇を獲得することを望んでいたはずの
フランス海軍のウェミス提督は、個人的な考えとして次のように述べています。
「私はドイツ艦隊の沈没を本当の恵みだと考えています。
これらの艦が存在していたら起こっていたに違いない
各国の分配についての厄介な問題を、結局、解決したのだから」
ラインハルト・シェアー提督はこう高らかに宣言しました。
「喜ばしいことである。
降伏の汚辱のシミはドイツ艦隊の盾から一掃されたのだ。
艦隊の沈没は、ドイツ艦隊精神が死んでいないことを証明した。
この最後の行動は、ドイツ海軍の伝統に忠実なものだった」
長くなるので二日に分けますが、各提督のお言葉の最後に、わたしの個人的な感想を
一言述べさせていただけるならば・・・
かっこいい。かっこよすぎるわこのおっさん。
続く。