しばらくお話ししてきた第一次世界大戦の航空シリーズ、
今日は、空軍力の必要性を説き、当時は省みられることがなかった
一人の陸軍軍人についての話です。
■ 爆撃機と将来の戦争の形
スミソニアン博物館が第二次世界大戦航空についてまとめたコーナを
ここで紹介したとき、例えば東京空襲は明らかに低空から、
一般人への攻撃を目標としていたということについて、
「出来るだけ早く日本を屈服させるために、軍事目標ではなく、
民家を含む都市攻撃へと方針が変わったのだろうと思います」
というご意見をコメント欄でいただいたわけですが、
このことは前回最後に紹介した「預言者たち」、イタリア軍のドゥーエ将軍や
イギリス軍のサー・トレンチャード元帥が提唱したことそのまま同じです。
彼らの意見はそのまま戦略爆撃の方向性に組み込まれていったので、
第二次世界大戦でアメリカ軍が無差別攻撃を行ったのも
この流れに沿っただけ、という言い方もできます。
爆撃されたドイツの民家
さて、戦争が終わると、人類最初に行われた空中戦争の教訓と空軍力の可能性、
軍事秩序におけるその優先順位、そして国家政策におけるその役割について、
激しい「戦い」がはじまることになりました。
そしてその議論の中心になったのは、主に爆撃機でした。
第一次世界大戦の結果はごく限られた爆撃機の能力を証明しただけでしたが、
空軍の擁護者は、敵の最前線のはるか後ろにある「ターゲット」に対する
空中攻撃が、将来の戦争で雌雄を決すると信じていたのです。
彼らのこの考え方は第二次世界大戦において「実験」されることになります。
それは、ドレスデンであり、モンテ・カッシーノであり、東京であり、
その最大にして究極の実験が、広島、長崎でした。
ゴレル少佐
戦後、アメリカ陸軍航空隊はドイツに対する戦略爆撃の効果を分析しました。
その報告はエドガー・S・ゴレル少佐によってまとめられましたが、
その中に
「ドイツへの戦略爆撃はほとんど物理的な被害を与えなかったが、
戦争を遂行しようという努力をおおきく減退せしめた」
というものがありました。
レポートはまた、
「特定の産業地域への爆撃は、無差別に都市に爆撃するよりも効果的である」
という報告から始まっていました。
彼のレポートが導いた結論は、次の20年間の空軍力についての考えに
大きく影響を与えることになります。
しかしここでは、話の流れ上、人類がまだその結論を得ていなかった、
第一次世界大戦直後に時間を戻すことにします。
人類が航空機という空を飛ぶ手段を手に入れると同時に始まった
武器としての航空機の利用。
航空という新しい移動手段に人類が踏み出し、それに少し慣れたころ、
偶然というにはあまりにも、大規模かつ長期にわたる戦争が起こったことは、
その利用と技術的な進歩を押し進めることになりました。
しかし・・・・・
■ 軍事航空の不確実性
終戦直後、連合軍の航空基地の片隅に積み重ねられた廃棄予定の航空機です。
別に不具合があったとかいう機体ではありません。
中にはデハビランド のDH-4などという当時の最新鋭機が含まれています。
大戦中、航空機が武器として有用であると証明されたにもかかわらず、
戦争が終わると人々はそれを必要としなくなり、
軍用機の開発ももその歩みを一斉に止めてしまったのです。
そして軍隊の動員が解除され始めると、同時にその育成に多大な費用をかけた
航空隊そのものも「スクラップ」になりました。
戦後、空軍も解散され、軍用航空の将来は先の見えない状態になっていきました。
愛機フォッカー の前で愛犬と共に記念写真に収まるドイツ軍搭乗員
戦後の動員解除は特にドイツにおいて大きく航空に影響を及ぼしました。
敗戦したドイツは航空隊を解体され、即座に名機フォッカーD.VII戦闘機始め
2000機の戦闘機と爆撃機を全て廃止するように命じられたのです。
これは連合軍がこの戦闘機にいかに苦しめられたかということでもあります。
■ ドイツ戦艦に投下された爆弾
ここでいきなり巨大な爆弾が登場しました。
現地の説明によると、1921年7月21日、ドイツの戦艦
オストフリースラント SMS Ostfriesland
に投下されたアメリカの1000ポンド爆弾です。
オストフリースラントという紅茶の産地があるのは知っていましたが、
戦艦の名前になっていることは初めて知りました。
オスト=東、フリース=フリージア、 ラント=国
で東のフリージアの国という意味で、ここには
潜水艦の故郷ともいうべき軍港キールがあります。
「オストフリースラント」は実験による航空爆撃によって
世界で初めて沈められた戦艦となりました。
そして、その指揮を行ったのが、冒頭写真の
ウィリアム ”ビリー”・ランドラム・ミッチェル将軍
William Lendrum "Billy" Mitchell 1879−1936
です。
彼こそがこの航空不況の状況下、おそらく世界で最も熱心に、そして最も情熱的に
航空機による爆撃を次世代の武力の中心に据えるべきだと訴えていた人物でした。
「オストフリーラント」はドイツ帝国海軍( Kaiserliche Marine )の発注により
カイザーリッヒ・ヴェルフト (帝国造船所)で建造され、1911年就役。
翌年「ウェストファレン」の後継として新しい戦隊旗艦となりました。
第一次世界大戦では「ヘルゴランド湾の戦い」「ドッガーバンクの戦い」
そして「ユトランド沖海戦」にも参加しています。
停戦が調印される2週間前の1918年10月末、「オストフリーラント」は
「ヘルゴランド」「チューリンゲン」「オルデンブルグ」
ら3姉妹とともに最後の艦隊行動をすることになっていました。
しかし、戦争に疲れた多くの乗員たちは、この作戦によって
和平プロセスが混乱し、戦争が長引くことをおそれ、
10月29日朝に出航命令を受けた同じ夜、反乱を起こしたのです。
中心となったのは「チューリンゲン」の乗組員でした。
これでは作戦どころではなく、直ちに行動中止されたのを受けて、
時のドイツ皇帝は
「余はもはや海軍を持たず」
と呟いたといわれています。
反乱から1ヶ月半となる12月16日、「オストフリートラント」は除籍となり、
その後しばらく兵舎として機能していました。
その後、ドイツの航海艦隊はスキャパ・フローに送られて処分を待つ間、
ルードヴィヒ・フォン・ロイター少将の手によってほとんどの艦艇が
敵の手に渡す前に自沈してしまったことは前回述べたとおりです。
ここで注意すべきは、スキャパ・フロー送りになったのは、
艦隊の中でも最新鋭とかそれに近い艦船、つまり連合国側からは
「取得する価値のある」艦艇であったことです。
「オストフリースラント」は老艦であったため、その対象から外されて
粛々と降伏措置を受け、「H」と便宜上名前を与えられて処分を待っていました。
■ ミッチェルv.s アメリカ海軍
彼女は戦時賠償としてアメリカに割譲され、本土に連れて行かれました。
行き先はバージニア州のケープ・ヘンリー。
ここで彼女はその生涯を航空機の爆撃目標となって終えることになります。
1921年7月、陸軍航空サービスとアメリカ海軍合同による
一連の爆撃実験が実施されました。
指揮を執るのは「空軍の父」と後年呼ばれることになる(が、この時には
周りからほとんど変人扱いされていた)ビリー・ミッチェル将軍。
ターゲットには、旧戦艦「アイオワ 」、巡洋艦「フランクフルト」 、
そして「オストフリーランド」を含む、動員解除されたアメリカおよび
旧ドイツ軍艦が含まれていました。
実験直前の「オストフリースランド」
ここでぜひお断りしておきたいことがあります。
ミッチェルがなぜこの実験を行ったかということなのですが、
遡ればそれは彼と海軍の摩擦に端を発していました。
彼は海からの攻撃から国土を守るために水上艇基地が必要だとして
海軍にそれを説いていたのですが、海軍では第一次大戦後、
必要がなくなったとして海軍空港組織を廃止してしまいました。
国防組織には陸海軍統合の空軍が不可欠だと言う彼の考えは、
特にルーズベルトを含む海軍界隈から、
「陸軍出身の飛行士には海上飛行の要件を理解できない」
ともっともらしい理由のもとに退けられてしまったのです。
もともとミッチェルは、 「ドレッドノート」級戦艦の建設などは
貴重な防衛費の多くを占め、航空の予算が削られるので言語道断と考えていました。
彼は、航空機の力が、沿岸の銃と海軍艦艇の組み合わせよりも
低コストで海岸線を守ることができる、つまりわかりやすくいうなら
「1000機の爆撃機が1隻の戦艦と同じコストで建造でき、
それを使ってその戦艦を沈めることができる」
と信じていたのです。
そこでミッチェル、「Under War condition」(戦争中と同じ条件)で
捕獲したドイツの戦艦を爆撃する実験をさせてくれたら
爆撃機が船を沈めることができることを証明できると嘯いて
海軍を激怒させることになります。
ミッチェルの戦艦不要論に怒り心頭の海軍は、独立した空軍など不要であること、
そして航空機など海軍機だけで十分であることを証明するため、
この実験「プロジェクトB」(Bは爆撃機のB)の直前、勝手に爆撃実験を行い、
海軍機からの爆撃で戦艦「インディアナ」を沈めた
と発表してミッチェルに実験をさせまいとがんばったのですが、
なんと実際に投下されたのは砂袋で、「インディアナ」には
高爆薬が仕掛けてあったことをバラされてしまったうえ、策士のミッチェルが
先にメディアに実験情報を流したため、協力せざるを得ない状況に追い込まれました。
ところで彼は徹頭徹尾海軍嫌いだったわけですが、戦艦不要論者だから
海軍が嫌いになったのか、海軍が嫌いだから戦艦不要論者になったのか。
それは誰にもわかりません(たぶん)
■ プロジェクトB発動
7月21日の早朝、5波にわたって爆撃機が「オストフリーズラント」に攻撃を行いました。
08:52に、最初の陸軍爆撃機が1,000ポンド爆弾を命中させました。
さらに爆撃機4機が続き、さらに2発のヒットを記録しました。
検査官は5回目の攻撃の後に「オストフリートラント」に乗船し、
爆撃が艦体に全く深刻な損傷を与えていないことを確認しました。
しかし、 12:19に、2,000ポンドの爆弾を装備した次の攻撃波が襲い、
6つの爆弾が投下され、至近距離に3発が落ちて爆発。
12:30艦尾から急速に沈み始め、10分後、横転して沈没しました。
テストの結果は広く公表され、ミッチェルはなんとか面目を保ち「国民的英雄」、
そして「航空の預言者」の両方の称号を手に入れました。
しかし、海軍はミッチェルのやり方にまたもや激怒していました。
海軍の認可していない2,000ポンドの爆弾を勝手に使ったのみならず、
爆撃の合間に艦艇に海軍の査察官が乗り込むことを許可しなかったからです。
しかし、この結果がミッチェルの望む方向には動くことはありませんでした。
ミッチェルの支持者たちは、
「オストフリーラント」は「不沈の超戦艦」だったが、
「老いたるシードッグは大声で泣いた」(沈んだ)
などとドラマチックに語ってテストの結果を誇張しましたが、1か月後に発行された
ジョン・パーシング将軍の(陸軍ですよね)署名入りの陸海軍の協同結果報告では
「戦艦は依然として艦隊のバックボーンである」
と結論づけられ、ミッチェルの主張は退けられる形になりました。
その後の彼は、今や公式見解となった懐疑論と軍事規制を無視し、
「航空力の独り十字軍」となって宗教じみた熱心さで空軍の設立を説いて回りましたが、
どこからも冷たく無視されただけでなく、ついには軍首脳の不興を買い、
陸軍航空隊副司令官の要職を追われ、田舎に左遷されてしまいます。
さらに、1925年に起きた飛行船「シェナンドー」の事故の際、彼はここぞと
「海軍の無能さ」を批難したため、軍事法廷に告訴されるはめになりました。
ちなみに彼を裁いた軍事法廷の最年少の裁判官はダグラス・マッカーサー少将で、
彼は後年、この任務に就くことを
「わたしがそれまでに受けた中で最も不愉快な命令のひとつだった」
と言い切っており、審理では彼の無罪に投票したと告白しています。
世論は彼に同情的でしたが、判決は全ての告発に対して有罪で、
5年間無給、かつ現職を即時停止すること、という無情なものでした。
ミッチェルは1926年2月1日に陸軍を辞任し、その後も懲りずに
10年間にわたり、会う人会う人に空軍力の必要性(と戦艦の不要性)
をしつこくしつこく説いてまわりましたが、引退した「ただの人」では
軍事政策や世論に影響を与える力はもはや残っていませんでした。
「空軍力の脅威は非常に大きく、抑止力となりうるし、
もし戦争することになっても、空軍力により勝敗はよりはっきりと、
決定的に、より迅速に決着がつきます。
つまり生命と財産の喪失は減少することにつながり、
文明にとっては明確な利益となりうるのです」
1925年のミッチェルの言葉です。
1926年、皮肉にも彼が任務を停止され、キャリアを終えてから、
その主張は現実に一歩近づきました。
アメリカ陸軍航空隊が創設され、航空部門が陸軍内で
ある程度の自治権を得ることになったのです。
そのことは彼を支持し、彼に続くものたちの決意を確かにしました。
しかし、独立した任務部隊としての真の空軍の独立は、
第二次世界大戦後まで実現せず、かれはそれを見ずに1936年、
56歳の若さで亡くなっています。
准将の死後5年経って生まれた爆撃機B-25「ミッチェル」は、
この栄光なき理想主義者、あるいは預言者の名前から取られました。
アメリカ軍の爆撃機の中で人名のつけられた例はこの「ミッチェル」だけとなります。