さて、しばらくお話ししてきたスミソニアン博物館展示による
第一次世界大戦の航空シリーズ、今日で最後になります。
今日は、第一次世界大戦が航空のあゆみに遺した影響とその遺産についてです。
航空戦争としての第一次世界大戦は重要な遺産を創造しました。
軍事、政府、および産業の指導者たちは、戦場でのサポート役としての
飛行機の重要性を認識し、この新興の戦争技術に寛大に資金を提供し始めました。
終戦までに、航空は高度に組織化され、複雑になりました。
空軍は非常に成長し、組織と戦術は進化し、航空サービスが作成され、
生産ニーズは政府と産業の結びつきを強めていったのです。
そして、新しいタイプのヒーローも登場します。
つまり戦闘機のパイロットですね。
マンフレート・フォン・リヒトホーフェンなどは、その技術、
撃墜数、赤いフォッカー にヘアフライ(男爵位)という出自、
加えて華麗な容姿が世界中に喧伝され、敵味方を超えて人気がありました。
第二次世界大戦に参加した搭乗員たちにとってもレッドバロンは憧れで・・・、
そういえば「ラバウルのリヒトホーフェン」というあだ名を奉られていた
帝国海軍のエースもいましたですね。
あれは後世のメディアが、本人の手紙にその名前が書かれていたことから
”キャッチフレーズ”として名付けたものにすぎず、周りがそう呼んでいたとか、
ましてや本人が自称していたなどということはまったくなかったと思いますが。
話がそれましたが、この大戦をきっかけに誕生した、今日まで続く
軍用航空の遺産というテーマで最後にご語ってみたいと思います。
■ 軍用航空が生んだウィングマーク
今では当たり前に存在しているものですが、第一次大戦がきっかけとなって
生まれたものの一つに、独自の部隊章があります。
航空の軍事的な役割が拡大していくに従って、飛行機に乗る搭乗員たちが
戦争における最も有名な英雄として注目を集めるようになってくると、
航空任務の現場では、彼らの飛行士たちを識別するために
ユニークなユニフォームや記章を作成し始めました。
パイロット、偵察員、およびその他の乗務員が着用した独特のバッジは、
彼らのエリートステータスを強調し、誇りの証となったのです。
今日、世界の軍隊の航空搭乗員は共通して「ウィングマーク」という
翼のあるバッジを付けますが、これなども、空中戦が行われることになった
最初の戦争の具体的な遺産なのです。
フランス軍航空隊の航空学生バッジは片翼仕様。
まだ半人前だから片翼なのかと思ったのですがどうでしょう。
陸軍航空サービスのパイロットバッジ。
このころはまだ星のマークがありません。
偵察員の紀章。翼の根元は「オブザーバー」の「O」でしょうか。
フランス航空部隊のパイロットバッジ。
翼をあしらったというより鳥そのものが翼を広げたデザイン。
海軍は海軍である印として錨を中央に据え、
翼が生えた錨をデザインしています。
ロシア海軍の士官用帽章です。
ロイヤル・オーストラリアン航空部隊のパイロットマーク。
翼の中央に「AR」があしらってあります。
オーストラリアの空軍は、第一次世界大戦前の1914年3月に
陸軍の組織として航空部門が設立されています。
第一次世界大戦においては、大英帝国の一員として連合国側で参戦し、
ドイツ領ニューギニアで戦闘活動をおtこない、後に中東戦線、
あの西部戦線にも投入されていたそうです。
大戦末期は士官460名、兵員2,234名の規模の部隊でした。
その後オーストラリア航空軍団は、1921年に独立した空軍となり、
同年6月21日にジョージ5世が王立('Royal')の称号を与え、
8月31日より王立オーストラリア空軍に改称されていますので、
このインシニアは1921年以降のものということになります。
さて、航空機が生まれて10年やそこらで世界大戦が起こり、人類は
戦争が始まると同時に航空機に新しい役割を担わせ始めました。
戦争開始時、飛行機は主に高い位置から敵の様子を偵察、そして
観測するという役割を担わされていましたが、すぐに戦闘および爆撃、
そして写真偵察とその任務を進化させていきました。
そしてそのうち地上攻撃、海上パトロール、対潜水艦戦への投入が始まります。
目的が多様化すると、新しく制作される航空機はそれぞれの目的のために
少しずつ違う設計が行われてきましたが、
「複座の単発複葉機」「単座の単発偵察機」
が、戦争を通じて使用された2つの基本的なタイプでした。
■ 目的特化型航空機ハルバーシュタット
ところで冒頭写真の美しい迷彩の複葉機は、
ハルバーシュタット Harberstadt CL.IV
といい、特に新しい任務のためにデザインされた飛行機です。
ハルバーシュタットCL.IVは、第一次世界大戦で最も優れた地上攻撃機の1つで、
地上からの攻撃を回避するための優れた機動性は、低空からの攻撃機として機能しました。
敵軍の集合場所を攻撃したり、前進している連合国の攻勢を直接妨害するなど、
支援攻撃や地上攻撃任務を行っていないときは、護衛用の
2人乗り戦闘機として使用されていました。
ハルバーシュタッター・フルークツェウグヴェルケの主任設計者、
カール・ティエス(Karl Thies)は、偵察および写真哨戒機の護衛機となる
2人乗りの航空機低空飛行のハルバーシュタットCL.IIを成功させ、
この地上攻撃の役割をさらに改良したバージョンを設計しました。
CL.IVと指定されたこの新しい飛行機は機体のバランスに優れ、
前作よりもはるかに優れた操作性を実現しました。
後部座席は銃手が乗るのですが、輪っかのような枠が付いています。
CL.IIと同様に、パイロットと同乗者のコクピットは共有で、
視界が良く互いのコミニュケーションが取りやすい設計です。
前と同じ160馬力のメルセデスD.IIIエンジンを搭載し、
省略されたスピナーのため、より攻撃的な外観になりました。
1918年プロトタイプの試験が完了した後、約450機がハルバーシュタットに、
さらに250機が下請業者LFG(ローランド)に発注されました。
終戦ごろになると、月の出ている明るい夜に、CL.IV中隊は、
ミッションから戻った連合軍爆撃機を迎撃したり、
航空基地に対する夜間攻撃を行っていました。
すでに述べたように、第一次世界大戦に参戦したとき、アメリカは
国内に航空産業はほとんど存在していないに等しい状態でしたが、
しゃかりきになって大量の航空機を迅速に生産してのけました。
ここでもご紹介した「リバティエンジン」のプロトタイプを動力とした
エアコーAirco DH-4が設計にかかった時間はわずか4日という伝説が残っています。
■ 航空産業
戦争が始まるや否や、航空機産業をフル稼働する必要が生まれ、
フランス、イギリス、ドイツはそれを最優先事項にしました。
しかし、これは一種のアンビバレンツな事象を産むことになります。
各国は、大量生産の必要性と、航空機および機材の技術の進歩を
いかに適合させていくかという問題のバランスをとるのに苦労していました。
つまり、どういうことかというと、新しい技術を導入すると生産が遅くなるので、
ほとんどの生産現場は、多数の飛行機を迅速に生産するために、
技術革新を遅らせたり犠牲にせざるを得なかったということです。
■ 航空技術開発
ライト-マーチン航空会社のポスターです。
全部翻訳しておきます。
パワーが命を意味するところ
第一線で活躍するフランス軍のエースは
イスパノ-スイザのエンジンを使っています。
これ以上何をいう必要があるでしょうか。
これらの男たち・・・、フォンク、ギネメール、エトー・・・・
かつて存在した最も偉大な飛行家たち、世界がその名を挙げる彼らが
信頼を寄せたイスパノ-スイザだからこそ、選ばれるのです。
この素晴らしいモーターの性能は彼らの信念を正当化しました。
実に5万回以上の任務を見てきたエンジンは、
フランスにあるだけでも17の工場で製造されています。
男たちがそれを使って空を飛ぶようにになる以前も、
それは素晴らしい自動車用のモーターでした。
基本的に正しい原則に基づいて、航空業界のブレインがそれを
完璧な飛行機エンジンに開発し、それを我が社が製造しました。
最も優れているモーター構造をすべてを特徴付けるその品質は、
このマークが表しています。
軍事航空の最も厳しい要求と企画は、世界で最大の飛行機モーターになって
「スパッドを可能にしたモーター」となったのです。
文中のフランス人飛行士たちの名前のうち、ギネメールは以前
当ブログでご紹介したことがあります。
あと二人は、
エンテンテ戦闘機のトップエースだった
ルネ・フォンク大佐(Rene Fonck 1894−1953)。
「史上最強のエース・オブ・エース」の称号を持ちます。
動画で動いているフォンク大佐が見られます。
"Ace of Aces" René Fonck with his SPAD S.XIII
そしてアルフレッド・マリー・ジョセフ・オートー。
(Alfred HAlfred Hertaux 1893-1985)
コウノトリ部隊のエースだったオートーは、のちにドイツ占領下のフランスで
レジスタンス運動に加わり、そのため捕まって、悪名高いブーフェンヴァルト
(強制収容所)送りになりましたが、解放されたあと軍サービスに戻り、
准将にまで昇進しています。
この広告のフランスのイスパノ〜スイザエンジンは
世界でも最も偉大な技術的進歩の結果の一つでした。
アメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、ライト-マーチン航空会社は
ライセンス生産による製造を始めました。
この広告は、エンジンを動力源とする戦闘機ですでに名声を博した
同盟のエースの名前を呼び起こすことによって、会社の新製品を宣伝しています。
■ 技術開発
政府と産業界は一体となって多くの航空機とエンジンを設計生産しました。
敵の航空機の性能を上回ることをつねに目標に、軍事航空業界は
航空機の速度、航続性、高度、武装を改善することを目的とした技術革新を
継続的に取り入れて進化していきました。
そのためかつてないほど熾烈な空中性能を追求するための競争により、
航空機の強度、安定性、および操縦性は飛躍的に向上しました。
終戦までに、エンジンはより軽量に、より信頼性が高くなっていき、
出力は初期のパワーと比べて4倍から5倍も強力になりました。
しかし、この進歩のためにかかったコストは、金銭的なものだけではありません。
それはしばしば貴重な人命をも含むものでした。
■ 成長する武力
巨大なスケールで行われた初めての世界大戦は、
航空サービスの発展により拍車をかけました。
航空力の戦闘における役割も拡大し、航空機産業もまた拡大し、
技術的革新はより一層政府からの投資を引き出すことを容易にし、
結果、多くの入隊者が集まってくるようになってきました。
第一次世界大戦における連合国において、終戦までに
軍航空サービスに携わった人員の数は劇的に増加していきました。
第一次世界大戦前と大戦後での参加国の航空人員の違いは次の通り。
1914 1918
🇬🇧イギリス 2,000 300,000
🇫🇷フランス 3,500 90,000
🇺🇸アメリカ 1,400 195,000
戦争が終わった後も、戦時中に訓練を受けた何千人ものパイロットたち、
および終戦によって一旦不要となり安価になった余剰航空機の可用性は、
軍用航空のみならず、航空界全体の成長を一層促進していくことになるのです。
スミソニアンの第一次世界大戦航空シリーズ
終わり