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「What Was On Their Minds?」彼らは何を選択したか〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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アメリカが生み出し、アメリカが介入したベトナム戦争。
そして戦争に向かうことになった時、国家は徴兵を導入しました。

前回は徴兵を逃れた人々が意外に多かったこと、それにもかかわらず、
10%の若者が徴兵されたことなどについて、反戦運動や、
良心的兵役拒否についてもお話ししてきましたが、今日は、

What Was On Their Minds?

つまり徴兵された若者たちの心に何があったか、そして
彼らはどのような行動を取ったか、というコーナーを
ご紹介していこうと思います。

「ベトナム!ベトナム!」フェリックス・グリーン著 1966年

グリーンはイギリスのジャーナリストです。
彼のような書記の反戦活動家は、全てのアメリカ人がベトナム戦争の真実を知ったら、
おそらく戦争を終わらせようとするだろうと信じていました。

 

 

■ 軍人(Military Personel)

「ランパーツ(Ramparts)」1966年2月号表紙

「わたしたちがベトナムにもたらしたのは民主主義ではなく、反共主義です。
全ては、嘘でした。
わたしたちは南ベトナムで『自由(フリーダム)』を守ってなんかいなかった。
守るべき『自由』なんてものはなかったのです」

ドナルド・ウォルター・ダンカン(Donald Duncan)は1965年にアメリカ陸軍特殊部隊を辞めました。
写真を見ていただくと、

「辞めた!(I quit! )」

とわかりやすく書いてあります。

彼はベトナムでのアメリカの「戦争努力」に幻滅し、それに反対することを決意したのです。

ダンカンはグリーンベレーで諜報任務を行なっていました。
この間通信、武器、解体に関する特殊訓練を受けています。

戦闘に参加した後彼はブロンンズスターやシルバースター勲章の授与、
さらに大尉への昇進を推薦されましたが、全て断っています。

彼がアメリカとアメリカ軍に失望したのは、諜報報告を毎日行う任務の中、
それが「でたらめ」「捏造」であるということを知ってしまったからです。

「わたしは驚きました。それは『ブルシット』でした。
南ベトナム政府の汚職の一掃どころか、
アメリカはその最大の貢献者だったということなのです。
勝てる要素はなにもなく、全てが嘘でした」

そして彼はアメリカに戻りました。

早くから反戦を訴えていた急進的カトリック雑誌「ランパート」1966年2月号で、ダンカンは

「すべてのものは嘘だった!」

と題されたベトナム戦争についての激しい批評を行いました。
雑誌の表紙は、ダンカンが完全な軍曹の制服を着て「やめた」と発表したことで有名です。

記事は、腐敗した南ベトナム政府とアメリカのつながりと、拷問、即決処刑、
アメリカ軍の残虐行為についての詳細を内部告発したものでした。

ダンカンはその後も反戦運動を続けましたが、晩年は忘れ去られ、
2009年特別養護ホームでひっそりと亡くなったということです。

■ 学生(Students)

General Baker Jr.(ジェネラル・ベイカーJr.)

ジェネラルというから軍人枠に入れてみたのですが、実はこれ、ファーストネームです(笑)

ウェイン州立大学でアフリカ系アメリカ人の学生組織を作り、
活動していた彼は、1965年、徴兵委員会に公開書簡を書き、
ベトナム戦争に奉仕するための適性試験への出頭を拒否しました。

「わたしは徴兵委員会に来るようにとの手紙を受け取りました。
わたしはドジャースの選手でも良心的兵役拒否者でもありませんが、
これは不当な戦争であるため出頭を拒否します。

もし(その戦争が)南アフリカかミシシッピデルタかここデトロイト12番街を
開放するという話でしたら、ぜひ電話してください。
それなら奉仕は名誉な義務となるでしょうから」

ブレット・ロペス

「私は良心的兵役拒否を申請しましたが却下されました。
取得できる限りの医学的な障害を申請しましたが、だめでした。
わたしに残された唯一の選択肢は、地下に行くか、カナダにいくことでした」

彼は全ての忌避手段を講じたのですが、万策尽きてカナダに逃亡しました。

 

■ 懲兵拒否者(Draft dodger)

1965年、ニューヨークのユニオンスクエアで徴兵カードを燃やす人たち。
左からマーク・エデルマン、ロイ・リスカー、デビッド・マクレイノルズ、
そしてジム・ウィルソン。

「徴兵カードを損壊するというのは、ベトナムでの政府支援という暴力と、
その残酷さ、非人間性、不必要な死から個人的な分離を行うという意味の行為です」

マーク・エデルマンは19歳でした。(には見えませんが)
新しい法律がこの行為を違法とした直後、彼は四人でこの行為を行い、
この言葉を述べました。

このあと、ジム・ウィルソンは警官の誘導を拒否し、2年間服役しました。

ちなみに、マクレイノルズは政治家となって亡くなる前社会党のサンダースを支援しており、
リスカーは数学のどこかの教授となったようです。

みんなとにかく頭が良さそうですが、誰一人26歳以下には見えんなあ・・・。

徴兵カードを燃やした「抵抗者」たちは燃やしたカードを
このようなマックスウェル・コーヒーの缶に落としました。

わざわざ実物が飾られているので何か意味があるのかと思ったのですが・・。

トマトケチャップの缶ではあまり絵にならないからかしら。

左から、

1967年、ペンタゴンで行われたデモ行進
1967年、ヒューストンで徴兵カードを燃やす人
1965年、キャピタルヒルで1965年4月に行われた大規模反戦集会

徴兵カードを燃やすのは抵抗のシンボルとなりました。

左;ペンタゴン前で演説、1965年6月
右;1965年、フィラデルフィアの反戦デモ

「武力行使に対する兵役奉仕を拒否する」

「ベトナム戦争を終わらせろ」

「拷問と殺人に加わるのを拒否する」

左から

1965年反戦デモ
1966年、フィラデルフィアの徴兵反対抵抗運動
1966年、ワイオミングの大学生による反戦運動行進

「今すぐG.I.を故郷に戻せ」

■ 母親たち (Mothers)

毎日、さらなる部隊がベトナムに送られる

毎日、さらなる青年たちが死ぬ

毎日、血生臭い戦闘がアジアで広がっていく

毎日、懸念する親たちが尋ねる

彼は1965年6月に卒業した

彼は1966年6月、ベトナムで死ぬのか?

ーわたしたち親は覚えているー

朝鮮戦争で15万7千人のアメリカ人が死傷したことを

そして、しかも我々は勝つことができなかったことを

わたしたちは結局終戦をテーブルでしか決しなかったことを

ーわたしたち親は知っているー

ベトナムで始まった陸上戦は朝鮮戦争より高くつくことを

わたしたちの息子が何百万人ものアジア人、アメリカ人を
国土から追い出したがっているアジア人と向かい合うであろうことを

そしてわたしたちの息子は国連や同盟国の援助なしで戦わなくてはならないことを

今回敵は近代兵器、近代的ミサイルを持って対峙してくることを

ー親たちは忘れていないー

選挙前、ジョンソン大統領は「戦争拡大はしない」と約束した

ーわたしたち親は知っているー

アメリカ大統領、アメリカの政治家、そしてアメリカ軍指導者は
アジアでの大規模な陸戦の恐ろしい結果について知っていたことを

 

ジョンソン大統領に今から手紙を書いてください!

彼に「平和を約束する」といった公約を守れと

ベトナムでの戦争をやめろと

あなたが守るべき命はあなた方の息子の命なのです!

 

徴兵対象年齢の息子を持つ母親の多くは、このチラシを作成した政党である、

「平和のための婦人運動」(WOMEN STRIKE FOR PEACE)

に所属していました。
当初核兵器拡散を阻止するという目的で1961年に組織されたこのグループは、
戦争への動きを受けると、すぐさまベトナムへの介入に抗議することにフォーカスしました。

 

 

続く。

 


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