アメリカがベトナム戦争を選択したとき、少なくない国民は
そこに正義はないと断じ、反戦運動に訴えたり、
徴兵対象者はこれを拒否したりしました。
今日は、
■ DEFERRED(延期、引き延ばし)
と題されたコーナーからご紹介します。
まず、このレコードジャケットですが、
フィル・オクス(Phil Ochs)
というプロテスト・シンガー(というジャンルがあるなら)の
俺はもう何処にも行かない(I ain't marching anymore)
というシングルアルバムだと思います。
この歌手の名前をご存知の方はおそらく皆無だと思われます。
これといったヒット曲もなく、注目を集めるようなミュージシャンというわけでもなく、
当時流行だったギターの弾き語りで自作の曲を演奏する、いうならば
ボブ・ディランの下位変換という感じの一人です。
ここにアルバムの中の一曲が紹介されていました。
「徴兵逃れ(Draft doger)のラグ」
サージ、俺はまだ18歳で 脾臓が破裂した
いつもそのためのバッグを持っていて 蝙蝠みたいに夜歩き
足は扁平足 喘息は悪くなるばかり
そうさ、俺の経歴を考えてくれ 愛しい人
そして俺のかわいそうな「期限切れ」の叔母のことを
いっとくが、俺は馬鹿じゃない 学校にも行っている
そしてDEE-FENCE プラントで働いている
DEE-FENCE プラントとはDefence plantのもじりだと思うのですが、
最初から最後までまっっっっったく意味がわかりません。
そこでこのコーナーのタイトルを振り返ってみると、
・・・そう、「引き延ばし」ですね。
ドジャーは人の名前ではなく、「ドッジボール」のドッジ、すなわち
「素早く身をかわす」から、逃れる人、と訳すのが良さそうです。
さらに説明を読んでみましょう。
「徴兵逃れのラグ」で、フィル・オクスは、若い男性が
徴兵を延期するために使用していた全ての戦略的な計画を表しました。
この曲は、初期の反戦運動で最も人気のあるものの一つでした。
病気を大袈裟にいう、そして「Deefence plant」に通う、
これらが徴兵引き延ばしに必要だったということなんでしょうか。
オハイオ州立大学で政治に興味を持った彼は、音楽で社会に
思想を訴える道を選び、反戦シンガーとして、たとえば
民主党全国大会のデモコンサートなどに出演したり、
ドキュメンタリー映画に出演したりという熱い時代を過ごしました。
しかし、ムーブメントが終わると音楽的に素養のない彼のスタイルは
あっというまに忘れ去られ、結局、1976年に35歳の若さで自殺しています。
「もし招集されたら、僕はいくよ。
でも逃れられるならどんなことでも試すだろう」
1966年4月11日、ニューズウィークに掲載されたある若者の言葉です。
「そしてもしこの男性が徴兵逃れをしていると思う者がいれば、
彼に今すぐそう言わせるか、さもなければ永遠に彼に平穏を与えてください」
セレクティブ・サービス・システム(Selective Service System)は、
アメリカの徴兵を調節する国の独立機関です。
そのセレクティブ・サービス・システムが定めたところの
1965年の「分類」があります。
各自の徴兵カードには、持ち主の「徴兵分類」が記載されていました。
実際の徴兵カードを見てみると、このデニス・ハーリングというレジスターは、
クラスIIーS
とされています。
このIIーSは、セレクティブ・サービス定めるところの
「学生」という身分による延期のカテゴリとなります。
延期の身分を獲得するには、「フルタイムスチューデント」である必要があり、
デニスくんの場合は1965年6月10日(つまり大学卒業の日ですね)まで
徴兵が猶予されているということを表すカードというわけです。
そして以下がセレクティブ・サービスの定めた分類となります。
1ーA ただちに任務につくことが可能
1ーO 良心的兵役拒否者、代替任務可能
1ーC 軍人
1ーY 肉体的、精神的に適合せず
2ーA 民間の職業のため延期
2ーC 農業のため延期
2ーS 大学生のため延期
3ーA 父親、または扶養家族がいる
4ーF 肉体的、精神的、道徳的に資格なし
そこで、先ほどのカリカチュアをご覧ください。
神父は、この結婚を行う男性が、「3ーA」、つまり
扶養家族を持つことによって徴兵を延期または逃れようとしているのではない、
(徴兵逃れが目的ではなく)愛情あって結婚するのであるということを
神の前で認めさせようとしているというわけです。
必須とされた仕事についているわけではなく、実家が農業でなければ、
優秀な大学生になって猶予を得るのは一つの方法です。
戦争を拒否する宗教の信者でもそのいずれかでもなければ、
手っ取り早く?扶養家族を作ってしまうのもありでしょう。
しかし「徴兵逃れのためにはなんでもやる」と決意した人が
その何の道もだめなら、残るは「健康をわざと害すること」か、
徴兵カードを破って牢屋に入れられることくらいしかありません。
「ケンブリッジ地域の最後の一段が尿を投げ、色覚テストに故意に失敗したときでさえ、
次の一団を乗せたバスは到着し始めていた。
バスはボストンの白人の労働階級であるチェルシー地域の青年たちを産み落とした。
彼らはまるで屠殺される牛のように検査の列を歩んだ。
ハーバード出身のぼくの友人5人のうち4人が徴兵猶予されていたのに対し、
チェルシーの青年たちにはその正反対のことが起こっていた。
僕たちはその日の午後、自由の身となってケンブリッジに戻ったが、
しかし、僕たちの誰もが言及したがらないが、何かが表層の近くに生まれるのを感じた。
ぼくらはそのとき、誰が殺されるかを知っていたのだ」
ジェイムズ・ファローがハーバード大学の学生であったとき、ボストンの海軍工廠で
徴兵検査が行われ、彼はそれに参加して上の文章を残しました。
ケンブリッジはボストンのハーバード大学のある一帯で、
チェルシーは工場が多く、労働者階級が住んでいた地域です。
上の写真はインダクションセンター、つまり徴兵が決まって
説明会をうけている人たち、ということなので、ファローの言うところの
「殺されるべき」「労働階級の」青年たち、ということになります。
ロスアンゼルス、サン・ルイス・オブスポの徴兵センターで列を作り、
これからバスの中で身体検査を受ける徴兵対象者たち。
長髪に髭、ジーパンにブーツ、リーゼント・・・。
当時の流行りの服装をしたさまざまな若者たちは、このあと
入隊すれば髪と髭を剃り、OD色の軍服を着ることになります。
陸軍徴兵試験を受けているところ。
どうしても入りたくなければわざと試験に失敗する、
という手を使う人も出てくるんじゃ?という気がしますが、
実際はどんな成績でも無事に徴兵に通るし、
わざと間違えたりしたものは真っ先に危ないところに送られる、
などということになっていたのだろうと思われます。
そしてその「情報」も遍く行き渡っていたのかも・・・。
■ 徴兵対象者
「わたしはソリナスで育った貧しいチカーノ(Chicano、メキシコ系2世以降)です。
徴兵制は、たった1年間でメキシコ系アメリカ人コミュニティの半分を一掃したと思います。
徴兵が決まったとき、わたしは自分にこうたずねました。
『どうするつもりだ?』
カナダには行きたくなかった。
チカーノがカナダだって?
メキシコ?メキシコに親戚がいるわけでもないし。
もしどこかに逃げたとしても家族や友人が恋しくてたまらないだろうし、
だいたい彼らがわたしのことを汚いちっぽけな卑怯者と呼ぶだろうから。
だから、受け入れるしかなかったんだ」
黒人青年たちを乗せたバスの写真は、
「黒人と徴兵」
について書かれた記事に掲載されたものです。
全文ではありませんが、訳しておきます。
「ベトナムでの死傷者の数が増えるに従って、過剰統合への焦りが広がる」
と題された、デックル・マクリーンの記事はこんなふうに始まっています。
「他の多くの冷たく妥協のない風のように、徴兵制はアメリカの「黒いゲットー」の
すり減ったレンガと汚れた下張りを最も強く吹き抜ける。
そう、これは過去15年にわたりこの国の警察行動であったので、
少なくとも現在の戦争が終結するまでは今のままだろう。
黒人の徴兵者の大多数は静かにそこに行き、キャンプの者に残される
家庭料理の入った大袋だけでなく、貧弱な教育と限られた選択肢、
そして目に見えない個人的な歴史を意味する荷物を運んでいくだろう。
植民地時代のセネガルがフランスの15歳の黒人兵たちにさせたように、
ベトナムではの戦争は、彼らの軍事的奉仕を取り巻く不平等にもかかわらず、
上のものはしばしば軍隊での生活は外よりもましだということだろう。
彼は同時に入隊したブラザーとともに「白人のネズミ」よりも、
ずっと偉い「黒人のネズミ」をみることになるだろう。
アメリカンドリームに対する徴兵制の攻撃性は、多くの議論の的となっている問題だ。
昔のアメリカ人は自分たちの伝統的な個人主義とは正反対の何かをそこにみるが、
今日では不満を抱いている人だけがそこに個人的な問題を見出している。
広い視野で見ると、まるで歴史的な逆転が起こったかのようだ。
徴兵制の最も激しい反対者は、第二次世界大戦後に生まれた若い白人と、
そして黒人たち、どちらもの世界大戦から除外された彼らであることは注目に値する。
ある数字によると、1967年の黒人の徴兵者は3万7千人であり、
これは全ての徴兵者数の16.3パーセントにあたる」
この数字が全体として多いのかどうかは、当時の黒人の
アメリカ人に対する人口比率と比べてみないとなんとも言えません。
彼らが民間生活で感じるより実際多くに徴兵が不当に行われたのかについて
どうもこの人は結論をしていないように思われます。
被服を受け取る新規入隊者。
1965年サウスカロライナ州。
「わたしが見たのは、わたしがしなくてはならないことでした。
それがやってくることは知っていました。
そしてそれが避けられないことであるのも。
あたかも貨物列車のように、遅かれ早かれ自分がそこに巻き込まれていくことも」
引き延ばしなど考えようにも全くその範疇にいない人々は、
こうして望まない戦争に駆り出されていくことになったのです。
続く。