映画「シン・レッド・ライン」、最終回です。
日本軍の高地にあるキャンプの攻略に成功したC中隊。
狂乱の後の虚無ともいうべき時間が訪れていました。
頭に掛けていた水を葉っぱにかけて水滴が転がり落ちるのを見ているのは
ウィット二等兵でしょうか。(ベルと俳優が似ていて見分けがつかないときがある)
彼は水をすくいながら、脱走して滞在していた原住民の村の海を思います。
何度もこだわってみますが、タイトルの「シン・レッド・ライン」と同じ状態だった
日本軍の防御は、むしろ飢餓状態に陥って戦力を欠いていたことで壊滅しました。
歴史的故事とは程遠い結末となったわけです。
ますますこのタイトルの真意がわかりかねるのですが、次に進みます。
一方、トール中佐は、スタイロス大尉にいきなり引導を渡しました。
指揮権を取り上げる、という強い言い方で、解任を申し渡したのです。
部下の命を優先して中佐の命令に従わなかったことが原因でした。
表向きはマラリアにかかったということで勲章付きの実質クビです。
作戦を成功させたC中隊には、ウェルシュ軍曹から1週間の休暇が申し渡されます。
「腕の中で部下が死んで行ったことがありますか」
このスタイロス大尉の問いに、トール中佐は何も答えませんでした。
しかし彼が出世に貪欲で冷酷無比なだけの男でないことはこのカットに表されます。
彼の視線の先には、足の指に認識票の付けられた米兵の遺体がありました。
(ニック・ノルティ出番終わり)
スタイロス大尉の解任は、部下たちにショックを与えました。
自分たちを守ろうとして正面攻撃の命令を拒否をしてくれたことを知っていたからです。
しかし大尉は、彼らを慰めるためにむしろ帰れるのは嬉しい、といいます。
そしてギリシャ語でこういいます。
「”君らは息子みたいなものだ”」
それを聞く部下の目には光るものが・・・。
日本軍の駐屯地が焼き払われていきます。
竹を吊った鳴子、南洋の植物でこしらえた生花のような鉢、そして
まさかの仏像が炎に包まれていくのでした。
「パールハーバー」でも、確か日本軍の軍艦内に仏像があって、
狭い艦内でローソクをボーボー燃やしていた記憶がありますが、
この、格段に日本という国に対する理解度のアップしている映画においても、
ついうっかりこんなことになってしまうのは残念です。
日本人は偶像崇拝をしません。
まあ、この頃の限定で御真影に礼をするということはあったかもしれませんが、
こと宗教に関する限り、八百万の神があっちこっちにいる関係で、
手を合わせる対象は太陽だったり祖先だったりで、少なくとも
こんな大きな仏像を野戦地に持ち込んで拝んだりはしないものだと思います。
考えてみてください。
家に仏壇(祖先を祀っている)はあっても、仏像を持ち込んで拝む人っていませんよね。
仏像はお寺にあって、その寺の歴史や言われとともに信仰を集めるものです。
この映画の面白さは、何回も見るうちに気づく細部にもあります。
たとえば休暇が決まって湧き立つ兵隊たちのシーンですが、
トラックの上にも、この飲み物が配られている集団にも、
何人かの兵が日本軍の基地でゲットした寄せ書きの日の丸を振ったり、
あるいは肩に引っ掛けたり、手拭いのように頭からかぶったりしているのが見えます。
そうやって戦利品としてアメリカ兵が持って帰り、戦後
本人が死んだり、持て余したりして、地方の博物館に流れてきた
数え切れないくらいの寄せ書きの日の丸をわたしはこちらで見てきました。
いい土産とばかりに持って帰ったものの、戦争も終わり、
そんなものを持っていても自慢にならないどころか、戦争も終わってみると、
敵とは言え日本人の遺品を手元に置き続けるのにも何やら後ろめたさというか
アメリカ人にそういう感覚があるのかどうかはわかりませんが、
一種の「ゲンの悪さ」を感じた結果なのだろうとわたしは思います。
それは「悔恨」あるいは人間的な「良心の目覚め」からきたものだとしましょう、
ここにもすでに己が戦場で犯した「通常なら犯罪、しかし戦場では無罪」の行為を
後悔している人物がいました。
日の丸の寄せ書きや血のついた時計を持って帰った米兵のように。
死にかけの日本兵を挑発しながら、遺体の口から金歯を抜いて集めていたデールです。
いまさら彼の中で何が起こったのでしょうか。
金歯を入れた袋を手にして、彼は荒く肩で息をつき、あの日のことを反芻していました。
死にかけている日本兵の言葉を。
「貴様も・・死ぬんだよ・・貴様も・・・」
言葉は理解せずとも、それが自分に、自分の生に投げかけられた
永遠の呪詛であることだけはわかるのです。
彼は瘧(おこり)にでもかかったように激しく震え、なぜか後方に向かって
(そこには日本兵のヘルメットが積まれている)投げ棄てます。
そして天を仰いだその耳には、日本兵の笑い声が響いているのでした。
彼は自分で自分を抱くようにして嗚咽し続けます。
ストーム軍曹(ジョン・C・ライリー)はウェルシュ軍曹に、
戦場での命は全て運にしか過ぎないから何を見ても何も感じない、といい、
ウェルシュはそれに対しこう言います。
「自分はそこまで無感覚になれない。君らと違って。
先が見えるからかもしれないし、下から麻痺していたのかもしれないが」
兵隊がワニを捕まえました。
ワニはこの映画の一番最初に出てきた生き物です。
これから喰われるワニを取り囲んだ兵隊たちは、一様に厳粛な顔をしています。
ベル二等兵がことあるごとにその姿を思い浮かべ、心の支えにし、
自分の存在を「解き放ってくれた」とまで手紙に書いた彼の妻が別れを告げてきました。
「空軍大尉と愛し合うようになったから別れてください」
これは酷い。
戦地にいる夫に、しかも戦前は将校だった夫、今は事情あって二等兵の夫に向かって、
代わりに好きな将校ができたから離婚しろとは。
「あなたはきっとノーと言うでしょうね。
でも、とにかくわたしたちが一緒だったことを忘れて欲しいの」
(字幕は誤訳で『私達の思い出のためにも同意して欲しい』となっている)
何度か見ていて気づいたのですが、彼女の後方にこちらに向かって歩いてくる男性がいます。
どうも陸軍の軍人のようなので、おそらくこれが「空軍大尉」でしょう。
ちなみに、アメリカでこの時代空軍は存在しませんから、彼女の相手は当然
陸軍パイロットということになるわけですが、1941年には
"Air Corps"から "US Army Air Forces" に改称されているとはいえ、
日常的にたとえば空軍大尉は"Air Force Captain"とは言いませんでした。
正解は"Air Corps Captain"となります。
ベルは読み終えるまで落ち着きなく髪の毛をかきあげ、
鼻の下を擦りながらなぜか薄ら笑いを浮かべ、
資材や燃料の置かれた飛行場をふらふら歩き回るのでした。
ところでこれ何?
ウィットは1週間の休暇に以前滞在した原住民の村を訪れました。
しかし、以前と違い村人は彼を冷たい目で見るばかり。
よからぬものを持ち込む災厄とばかりに不信感をあらわにするのでした。
ウィットは疎外感に打ちひしがれて村を後にします。
基地に帰る途中、彼は膝を壊して置いてけぼりにされた兵士、アッシュと会いました。
帰隊するのを助けると言うと、かれは明るく言います。
「おれはこの戦争を降りるよ、ウィット」
「ここは静かで平和だ。足手まといになるし、そのうち誰かくるだろう」
「そう言っとくよ」
うーん、それって「脱走」というやつなんでわ?
隊に帰ってきて兵隊たちが日常生活を送っている姿を見る彼の目が、
潤んできて涙が一滴溢れるのですが、この涙がなんなのか説明はありません。
自分がかつてより良い場所を求めて逃避した原住民の村でなく、
逃げ出したはずの隊にしか自分の居場所はないことを知ったからでしょうか。
青い鳥は自分の家にいた的な?
そして、鑑賞者をさらに煙に巻くように、ウィットとウェルシュの間に
「分裂症じみた」会話が交わされるのでした。
要約すると、ウェルシュがウィットの存在を気にかけていることを
隠していてもウィットは見抜いているということです。(たぶんね)
「曹長殿は寂しくなったことはありませんか?」
「人が周りにいるときはなる」
「人がいると?」
「お前は今でも美しい光を信じているのか?どうだ?
お前は俺にとって魔術師なんだ」
「おれにはあなたにまだ火花が見えてますよ」
うーん。わけわからん。
そもそも軍隊で上官と部下がする話じゃないだろこれ。
1週間の休暇を終えた中隊はまたしても次の戦闘任務を行います。
胸まで浸かる沢を渡りながら、彼らは砲撃の音を耳にしました。
しかも近づいてきています。
ベル(二等兵なのに)にここは危険だから脱出すべき、と言われるのですが、
スタイロスの後任の隊長バンド大尉は、すぐに決断を下さず、斥候を出すなどと言い出します。
ウィットは適当に斥候に指名された(近くにいただけ)ファイフとクームスを
庇うように、自分も一緒に行くと名乗りをあげ、そしてどちらにしても
ここにい続けるのは拙い作戦だと進言します。(二等兵なのに)
沢を警戒しながら進む3人の斥候を見ているミミズク。
敵の増強部隊(そんな余裕が日本にあったとは思えないんですが)に発見され、
銃撃を受けたクームスが倒れます。
遠くにその銃声を聞いて沢に身を伏せる中隊のメンバーを凝視するコウモリ。
まるで愚かな人間たちの行いを監視しているようです。
ウィットは、ファイフに自分が残って食い止めるから隊に戻れと指示します。
ウィットに生存の意思がないのに気づくファイフでした。
クームスを置いて(見捨てて)移動するウィットの足音を、この日本兵は聞きつけます。
隊に戻ったフィフが真っ先に発した言葉はただ、
「敵が来るぞ。隠れろ!」
ベルがウィットのことを尋ねても
呆然としていてしばらく何も聞こえない状態。
というか、ここにどうやって隠れるんだって話ですが。
そのウィットは一人で日本軍を引き付けていました。
鳥の声を真似ながらジャングルを沢と違う方向に走ります。
ジャングルを抜け、広場のような草地に躍り出た瞬間、彼は自分が
四方を囲まれていることに気がつきました。
ところで、周りを囲んでいる日本兵たちは、どう見ても「餓島」と言われた地で
補給が途絶え、食糧の不足で絶望的な状態にあるようには見えません。
みんな頭に草の葉っぱを載せて元気いっぱい走り回っております。
「降伏しろ!」
先ほどアップになった日本兵が(将校かもしれません)ウィットに呼びかけました。
周りには、彼に銃を向ける何人かと、その外側に銃を向けて警戒している兵がいます。
(この辺りがなかなか細やかな演出だと思った次第)
日本兵は怒鳴ることなく、
「お前か?俺の戦友殺したの」
と語りかけてきますが、今回も英語で字幕はありません。
「わかるか。俺は。お前を殺したくない」
その言葉に対してウィットが浮かべるのが冒頭画像の表情です。
「わかるか。俺は、お前を殺したくない」
二度目の同じ言葉は、泣く寸前のようです。
「もう囲まれてるぞ。すぐに降伏しろ」
軍人であればもう少し声を張り上げそうですが、極度の緊張のせいでしょうか。
そして、次に
「お前かあ・・・俺の戦友殺したのは」
今回のは質問ではなく、探していた相手を見つけた、という調子で。
そして、
「俺は」
と言いかけて、
「動くな」
いきなり声を張り上げ(同一人物とは思えない声で)
「とまれええ!降伏しろお!」
それまでただ呆然と立ち尽くしていたように見えたウィットは、
むしろその声に促されたかのように、ゆっくりと銃を持ち上げ・・
撃たれました。
なぜ彼が投降しなかったかについては、可能性の高そうな仮定として、
自分が犠牲になることで中隊の全員を守ろうとした、としておきます。
捕虜になって仲間の居場所を尋問されることまで考えたかどうかはわかりませんが。
彼が助かるつもりがなかったことは、最後の瞬間の動きが
妙にゆっくりしていることに表現されていると思いました。
彼は撃たれるために銃を構えたのです。
南洋の海で現地の子供達と海に潜った残像が彼の網膜をよぎった(という設定)。
後日、中隊はウィットの亡骸を発見し、その場に葬ります。
一人残ったウェルシュ軍曹は彼に声をかけるのでした。
「お前の輝きはどこにある?」
そしてウェルシュいうところの「反吐が出る」陳腐な演説を
張り切って行う新しい隊長、ボッシュ大尉。
言わずと知れたジョージ・クルーニーですが、本当に一瞬だけの出演で、
しかもボッシュに言われるまでもなく滑稽な役回りです。
「我々は家族だ。お前らは息子、俺は父親でウェルシュ軍曹は母だ」
皮肉なことに、この訓示の「君らは息子」はスタイロス大尉の言い残した言葉と同じです。
(あほくさ・・・)
帰国する兵士たちが岸に向かっています。
彼らの視線の先には夥しい数の十字架が・・・・って、
なんで墓地のあちこちでスプリンクラー(水撒き機)が回ってるんですかね。
この輸送船は、ロイヤル・オーストラリアン・ネイビーの
HMAS「タラカン」にしか見えないんですが、もちろん当時は存在しません。
この船に乗る有名どころはショーン・ペンのみ。
皆、帰国してからのことを言葉少なに話し合っています。
誰もがこの戦場で何か大切なものを無くしてきたと感じているのかもしれません。
ところで、えーと、こんな人いたっけ?
この最後のシーンにはペンをのぞいて「普通の人」ばかりしか登場しません。
だから誰?
「おお、私の魂よ 私をその中に導きたまえ」
これが最後のモノローグです。
ところで、もう一度最後に「シン・レッド・ライン」とはなんだったのか、
恐る恐る仮説を立ててみたいと思います。
戦況的には最後の防御線を張ったのは高地における日本軍であり、
日本を表す「赤」はこの言葉とリンクしますが、もちろんそれは違うでしょう。
踏み込んだ解釈をするなら、それは人の精神のどこかにある一線であり、
戦場にあって、人が先に踏み込ませないための最後の戦いをする防御線ではないでしょうか。
人によってはそれを宗教と呼び、また別の人は良心と呼ぶかもしれません。
もっと物理的に、生と死を分ける境界線(つまり偶然)を指しているかもしれません。
この映画は史実によるガダルカナル戦とは大きく異なっています。
そもそも主体となるのが海兵隊ではなく、(映画では海兵隊が壊滅したからと言っている)
陸軍であることからしてアウトですし、その他映画的な荒さも目立ちますが、
戦争を素材にして哲学と真理を探究しようとしたと解釈するべき作品でありましょう。
従来ステロタイプで描かれがちな日本軍兵士をもその一部に参加させるなど、
まるで戦争小説を読んでいる誰かの心をそのまま再現しようとしているようです。
とても一筋縄では理解し難い?作品だと感じました。
終わり。