■ RESIGNS ニクソンの辞任
1974年8月、ニクソン大統領は辞任し、後任をジェラルド・フォード副大統領に引継ぎました。
彼は辞任することによって、
「憲法に違反し、それを覆した」
と衆議院で弾劾されることを回避したのです。
ニクソンの容疑は、彼の再選委員会に関連するウォーターゲート複合施設内の
民主党全国委員会本部への盗聴機器設置のために侵入した事件に端を発していました。
そしてニクソンは大統領職を辞任した史上初の大統領となったのです。
1974年9月8日、ジェラルド・フォードは、大統領就任からわずか1カ月で、
失脚した前任者リチャード・ニクソンに無条件で完全な恩赦を与えました。
彼のこの時の声明は
「ニクソン前大統領は、既に十分苦しみを受けた」
というものでしたが、フォード大統領の真意は、刑事裁判を行えば
「(ニクソンを)さらなる懲罰と堕落にさらすことの妥当性について、
アメリカに長期にわたる分裂的な議論を引き起こす」
ことを懸念したからだと言われています。
ウォーターゲート事件やベトナム戦争の影響で混乱していた当時、
フォードは大統領恩赦を裁判に先行して行使したわけですが、
その評価は賛否両論であり、その評価はフォードの任期中ずっと続くことになります。
そしてこれにより、ニクソンは以後一切の捜査や裁判を免れたものの、
恩赦を受けたというのは本人が有罪を認めたことでもあります。
それを受けてか、ニクソンは死後に行われる元大統領としての国葬を自ら辞退しています。
ちなみにニクソンがホワイトハウスを去った時、彼はマリーンワンに乗ったはずなので、
この写真はいつのものかはわかりません。
■ FREEDOM OF INFORMATIONACT 情報公開法議会
”怖いなあ、反戦派の特別ファイルだけでこれだぜ!”
ウォーターゲート事件の影響を受けて、議会は1974年に情報公開法
Freedom of Information Act(FOIA)
を強化しました。
2004年に機密解除された文章によると、フォード大統領は
情報公開強化修正案に署名したいと考えていましたが、ラムズフェルド首席補佐官や
チェイニー副官らから、法案を拒否するように説得されていました。
しかし、臨時議会の決定によって情報公開法が成立し、
政府の秘密保持の主張に対する司法審査が行われることになりました。
その改正法を簡単にいうとこういうことです。
「市民に関係する文書を政府が管理することの規制」
(1)プライバシー法の適用除外を条件として、自分自身に関する記録を見る権利
(2)記録が不正確、無関係、時宜を失している、または不完全である場合に記録を修正する権利
(3)同法で特別に許可されていない限り、他人に自分の記録を見ることを許可することを含む、
同法の違反に対して政府を訴える権利
が保証されることになったわけです。
具体的には、戦時中の政権における過度の秘密、誤った情報、および
不正行為などに対して、一般人がアクセスすることができるようになり、
たとえば政府機関によってスパイされ、あるいは嫌がらせなどを受けた反戦活動家も、
その事実を明らかにした上で、新たに個人情報を保護し直すことができました。
■ BAN AGENT ORANGE 枯葉剤の禁止
ダイオキシン(エージェント・オレンジ)
エージェント・オレンジはベトナムで植生をクリアにするために使用されました。
これにはダイオキシンという化学物質が含まれていました。
人々はダイオキシンが深刻な健康問題を引き起こす可能性を懸念しています。
科学者たちはその効果を研究していますが、それでも全てが明らかにはなっていません。
枯葉剤は、ベトナム戦争中に米軍が使用した強力な除草剤です。
と言っても、邪魔な草を取るためとかいうヌルい目的に使われたのではありません。
コードネーム "ランチハンド作戦 "と呼ばれる米軍の作戦では、
1961年から1971年にかけて、ベトナム、カンボジア、ラオスにおいて
2000万ガロン以上のさまざまな除草剤が散布されました。
除草剤の中でも最もよく使われたのが、致死性の化学物質ダイオキシンを含む、
エージェント・オレンジ(Agent Orange)
でした。
枯葉剤は後に、ベトナムの人々はもちろん、帰還したアメリカ軍人と
その家族にも、がん、先天性異常、発疹、深刻な精神的・神経的問題など、
深刻な健康被害をもたらしたことが証明されています。
1961年から1971年にかけて、米軍は様々な除草剤をベトナム本土に散布し、
敵の軍隊が使用していた森林や食用作物を破壊しました。
冒頭写真のようにヘリコプターを投入し、広範囲にに強力な混合除草剤を散布したため、
敵のみならず南ベトナムの住民が使用していた作物や水源もやられてしまいました。
アメリカがこの作戦で使用した除草剤は合計2,000万ガロン以上。
また、米軍基地周辺でもトラックやハンドスプレーで散布していたのです。
各種除草剤は、それが入っていたドラム缶の色で呼ばれており、オレンジのほかに、
ピンク、グリーン、パープル、ホワイト、ブルーもありました。
製造していたのは(悪名高い)モン○ント社や○ウ・ケミカル社などです。
このうち枯葉剤オレンジは、ベトナムで最も広く使用され、最も強力な効き目で、
その使用割合は、ベトナム戦争中に使用された除草剤の総量の約3分の2にあたります。
枯葉剤に含まれるダイオキシン
枯葉剤の深刻な問題はダイオキシンが大量に含まれていたことでした。
ダイオキシンは非常に難分解性が高く、環境中、特に土壌、湖沼、
河川の堆積物、食物連鎖の中で何年にもわたって残留します。
魚や鳥などの動物の体内に蓄積され、人間は肉、鶏肉、乳製品、卵、貝、魚など
汚染された食品から暴露が行われます。
ヒトがダイオキシンにさらされると、皮膚の黒ずみ、肝臓の異常、
皮膚病が現れるほか、2型糖尿病、免疫系の機能障害、神経障害、
筋肉の機能障害、ホルモンの乱れ、心臓病なども引き起こします。
発育中の胎児は特にダイオキシンの影響を受けやすく、流産や二分脊椎など、
胎児の脳や神経系の発達にも影響があると言われています。
退役軍人の健康問題と法廷闘争
アメリカでは、ベトナム帰還兵やその家族から、発疹などの皮膚の炎症、
流産、精神的な症状、2型糖尿病、子どもの先天性異常、ホジキン病や前立腺がん、
白血病などのがんなど、さまざまな症状が報告され、枯葉剤が問題になりました。
1988年、「ランチハンド作戦」に関わった空軍の研究者ジェームズ・クラリー博士は、
「1960年代に除草剤プログラムを開始したとき、除草剤に含まれる
ダイオキシン汚染による被害の可能性を認識してはいた。
しかし、敵に使うものだから、
誰も過剰に心配することはなかった。
自分たちの仲間が除草剤で汚染されることなど考えもしなかった」
と述べています。
1979年に、ベトナムで枯葉剤を浴びた240万人の退役軍人による集団訴訟が起こされ、
5年後、法廷外の和解により、除草剤を製造した大手化学会社7社が、
退役軍人とその近親者に1億8000万ドルの補償金を支払うことで合意しました。
しかし、枯葉剤とその影響をめぐる論争はこれで終わったのではありません。
2011年6月の時点でも、いわゆる「ブルーウォーターネイビー」
と呼ばれる退役軍人(ベトナム戦争で潜水艦に乗船していた人々)が、
地上や内陸水路で活動していた他の退役軍人と同様に、
枯葉剤関連の給付金を受け取るべきかどうかについて議論が続いていました。
その問題は約2億4千万ドルの和解金で決着しました。
1991年、ジョージ・ブッシュ大統領はエージェント・オレンジ法に署名し、
枯葉剤被害による病気を労働災害とすることを認めています。
ベトナムにおける枯葉剤の影響
アメリカ軍人の問題は解決を見つつありますが、問題はベトナムです。
ベトナムでは、除草剤による環境被害と、
約40万人の死亡または負傷が報告されています。
また、50万人の子供が重い先天性障害を持って生まれ、200万人が
癌やその他の病気に苦しんでいると主張しています。
2004年、ベトナムの市民グループは、米国の退役軍人と和解した企業を含む、
30社以上の化学企業を相手に集団訴訟を起こしました。
枯葉剤の使用は国際法違反であるとし、数十億ドル相当の損害賠償を求めたものです。
しかしニューヨーク州ブルックリンの連邦判事はこの訴訟を棄却し、
2008年にも別の米国裁判所が上告を棄却したため、原告ベトナム人はもとより、
米国の退役軍人たちを激しく憤慨させることになりました。
なぜ米国政府はベトナムの化学兵器被害者への補償を拒否するのか。
それは、もし彼らの被害を保証することになれば、つまり、
「米国がベトナムで戦争犯罪を犯したことを認めることになるから」
に他なりません。
いったんそれを認めれば、その後は政府に対し、数十億ドル単位の訴訟が
雪崩を打って起こされることになることが明白です。
ゆえにアメリカ政府はそれをなんとしてでも避けなければならないのです。
■ 枯葉剤二世による救済活動
トラン・ティ・ホアンはベトナムで、ヘザー・バウザーはオハイオで育ちました。
しかしどちらもエージェント・オレンジの第二世代の犠牲者です。
ホアンは両足と片手の一部が欠損した状態で、ヘザーは右足、数本の指、
片足の爪先がない状態で生まれました。
重度の障害を抱えて生きてきた彼女らの経験は、他の多くの犠牲者に対する
各種の保護への運動を加速させることになりました。
ホアンはベトナムの救済組織であるVAVAとその米国側のパートナーである
「ベトナム枯葉剤救済&責務運動」
に協力しており、ヘザーは枯葉剤の第二世代生存者のために、
「ベトナム退役軍人の子供たちのための健康同盟」
を設立しました。
この写真は彼女らがワシントンDCで米国・ベトナムの枯葉剤犠牲者に
包括的な支援を提供する法案を推進している議員と会った時のものです。
■徴兵を逃れたアメリカ人と彼らの戦後
1960年代後半から70年代前半にかけて、約10万人のアメリカ人が
徴兵召集を避けるために海外に渡ったといわれています。
そのほとんど、約90%はカナダに行き、合法的な移民として受け入れられています。
また、何千人もの人々が、時には身分を変えて国内に潜伏しました。
加えて、約1,000人の脱走兵が不法にカナダに入国しました。
カナダ当局は一応公式には彼らを起訴または国外追放するとしていましたが、
実際には彼らは放置されたも同然で、カナダの国境警備隊は上から
「それらしい’アメリカ人にはあまり質問しないように」
とまで言われていたそうです。
ベトナム戦争が終わった後も、連邦政府は徴兵忌避者を起訴し続けました。
徴兵法違反で告発されたのは209,517人、正式に起訴されなかった人は約36万人に上ります。
カーター大統領が恩赦を発動する前は、カナダに逃れた者は米国に戻ると
実刑判決を受けることになっていました。
恩赦が出ても約5万人の徴兵忌避者がカナダへの永住を選んだのは、
そこで職を得たり地域社会に馴染んでいった人がそれだけいたということです。
彼らの中には、カナダ国民となって政治の世界に入っている人もいます。
■ Clemency Campaigns(徴兵拒否者救済プログラム)
ベトナム戦争時代、85万人もの男性が、徴兵制から、そして
軍隊から逃れ、犯罪者として扱われていました。
戦後、市民とベテランのグループは、これらの人々の赦免を求めて
大統領であったフォードと続いてカーターに訴えを続けました。
両大統領の政策は次の通り。
●フォード政策
フォード大統領は国家的な和解キャンペーンの幅を広げ、
彼らに課された刑事罰を是正すると発表しました。
有罪判決や処罰を受けていない者に対しては、24ヶ月間の
「代替勤務」と引き換えに恩赦を与えること、また、脱走であっても
有罪判決を受けた者に対しては、委員会を設置して事件を審査し、
可能な限り「政府の許し」を得られるようにしました。
●カーター政策
1976年の大統領選挙では、ジミー・カーター候補はそれを公約にして
大統領選を戦いました。
「和解のためには、国の傷をつなぎ、分裂の傷を癒す慈悲の行為が必要である」
大統領に当選後、カーターは、就任初日に選挙公約の実現として、
徴兵を逃れた何十万人もの男性に無条件で恩赦を与えました。
当時、この恩赦は退役軍人団体をはじめ、非愛国的な「犯罪者」を
無罪放免にすることに反対する人たちから多くの批判を受けました。
たとえばアリゾナ州上院議員のバリー・ゴールドウォーターなどは、この恩赦を
「大統領がこれまでに行った最も不名誉なこと」
とまで呼びました。
カーターはこれに激怒し、最後まで彼を許さなかったそうです。
逆にアムネスティ団体は、脱走兵や不名誉除隊者、暴力的な反戦デモ参加者などが
恩赦の対象になっていないという理由でカーターを非難しています。
左派は、白人中産階級の徴兵逃れが、貧困層の脱走兵よりも優遇されている、
と言う理由で非難しました。
選挙ではベストはなく、ベターを選ぶしかないのだという言葉を思い浮かべますね。
全てを満足させる政策などこの世には存在しないってことかもしれません。
続く。