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「ベトナメリカ」 アメリカに渡ったベトナム難民〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターのベトナム戦争展のご紹介も、
そろそろ終わりに近づいてきました。

わたしがこの戦争展に行ったときはコロナの前で、普通に人が
マスクをせずに自由に行きたいところに行くことができたため、
この歴史センターにも平日にもかかわらず結構な観覧客がいました。

我々と違い、アメリカ人にとってのベトナム戦争は、なんらかの形で
自分や自分の家族、親しい人が実際に参加し、関わり、場合によっては
反対デモで気炎を上げたりした思い出があるわけですから、
どんな層の人たちにとっても興味深いものであったはずです。

展示の前には写真のように立ち止まって説明を丁寧に読む人がいるので、
彼らがつぎの展示に移るまで写真を撮るのをしばし待つ、ということが
一度ならずありました。

しょせん他国人のわたしには、そんな彼らの様子もまた興味深く映ったものです。

■ The United States  Refuges Act of 1980(アメリカ難民法)

「1980年米国難民法(Public Law 96-212)」

は、難民を米国に受け入れるための恒久的かつ体系的な手続きを提供し、
受け入れた難民の定住と安定のための規定を設けることを目的とした法律です。

1980年、エドワード・ケネディ上院議員は、難民に代わって
恒久的な法的・制度的枠組みを作る法律を後押ししました。

具体的には、ベトナム戦争の余波で東南アジアから難民として
アメリカに逃げてきた100万人以上の人々の定住を助けるものです。

ここに展示されているのは

G.B.トラン(Tran)作「VIETNAMERICA」(ベトナメリカ)

という、難民となってアメリカに来た漫画家の作品ですが、
トランは、ベトナム人始め、カンボジア、ラオス人、そしてモン族出身で
アメリカに来てから本や映画、アートなど展示品で、自ら
移民と難民の経験を表している人々のひとりです。

”VIETNAMERICA”

「皆さん、飛行機から降りてください!」

「心配いらないよ、トリ、
ここはフィリピンだ
もう安全だよ」

「グアム島へようこそ
皆さん、わたしについてきて難民手続きをなさってください」

「合衆国はあなたがたのためにここサンディエゴで
仮の収容所をすでに用意しております」

「早く皆さんにスポンサーと家が見つかることを祈っていますよ」

「足元にお気をつけください」

「サウスカロライナへようこそ!」

”コホンコホン・・・エヘン”

「フリーダム」

「リバティ」

「そして人民による人民のための政府。

建国の父たちは、この貴重な宝物を私たちに伝えてくれました。
 その上にアメリカは成り立っているのです」

「帰化の手続きには平均5年かかります」

「その間、難民の在留資格で仕事や学校に通い、
アメリカで新しい生活を始めることができます」

この法律はジミー・カーター大統領によって署名され、1980年4月1日に発効しました。


難民法は、祖国で迫害を受けている人々の緊急なニーズに応え、
認められた難民に援助、亡命、再定住の機会を提供することが目的で、
これが米国の歴史的な方針であるとしています。

ここでいわれる難民の定義は、

「居住国もしくは国籍のない国、または国籍のない国にいる者で、
人種、宗教、国籍、特定の社会集団の一員であること。

または政治的意見を理由とする迫害、または
迫害の十分な根拠のある恐れのために、その国に戻ることができず、
その国の保護を利用することができない、または利用したくない者」

と定められています。

アメリカ合衆国の難民の年間受け入れ数は、会計年度ごとに5万人が上限ですが、
緊急時には、大統領は12カ月間、この数を変更することができます。

移民国籍法の変更に伴い難民再定住局が設立され、同局は
国内での難民の再定住と支援のためのプログラムへの資金調達と管理を行い、
難民が経済的に自立するための雇用訓練や職業紹介、英語訓練、現金援助を
男女平等のもとに行います。

難民とは

米国が「難民」という言葉を「移民」と区別し、移民政策とは別に
難民に特化した政策を作り始めたのは、第二次世界大戦後のことです。

1948年以降の初期の難民法はちゃんとした法的な根拠に乏しいもので、
1979年になって初めてエドワード・ケネディが法案を提出するまでは、
個々の例に対しケースバーケースで対応していたのが実態でした。

当時、アメリカにやってくる難民は平均20万人で、そのほとんどが
インドシナ人やソ連のユダヤ人、つまり政府の抑圧から逃げてきたケースです。

再定住にかかる費用は4000ドル近くにのぼりましたが、
ほとんどの難民は最終的に連邦所得税でその額を支払っていました。

多くのアメリカ人は、難民の数が急激に増えることによる、いわゆる

「フラッドゲート・シナリオ」

を懸念していたのですが、この時決定した5万人の上限は
アメリカへの移民全体の10%に過ぎず、カナダ、フランス、オーストラリアなど
いわゆる先進国からの移民に比べれば小さな数字でした。

法案では6969人のアメリカ人に対して1人の難民を受け入れるという割合です。

 

蛇足ですが、日本国はそもそも難民法に相当する法律を制定していないため、
オリンピックを名目に入国して逃亡し、つかまって難民申請したところで、
そもそも法整備はまったくありませんから、拒否され強制送還されて終わりです。

 

■ アメリカに渡ったベトナム孤児

1974年、カリフォルニア州バークレーのバックナー氏は、
ベトナム孤児であった幼児のトゥイ(Tuy)を養子にしました。

バックナー家でアメリカ人として育ったトゥイですが、大きくなってから
両親を見つけるためにベトナムに渡っています。

出征証明書をもとに両親が住んでいると思われる場所を探し当て、
現地の世話人に尋ねたところ、

「あなたのお母さんを知ってますよ!今田んぼに出ています」

トゥイはこの時のことをこう語ります。

「その時突然、小さな小さな女の人が私に向かって歩いてきたんです。
彼女はわたしの頭をいきなり掴んで・・そして言ったんです。
『私の子だ!』と」

何故彼女が頭を掴んだかというと、息子の頭にあった傷跡を確認したのでした。
彼女はどうしても息子を育てられず孤児院に置いてくるという辛い選択をしたのです。

写真は、1993年、トゥイ・バックナーが母親と再会したあと、
彼の傷についての話を彼女から聞いているところで、
トゥイは親子の確認となった傷を手で触っています。

孤児院に登録されていたトゥイの当時の身分証明写真。

■ ピッツバーグに定住したベトナム人医師

南ベトナムの医療隊の外科医であるNghi Nguyen博士は、
戦争中、メコンデルタ最大の都市であるカントーで、
米軍の医療スタッフに加わって一緒に仕事をしていました。

写真はいかにも頭の良さそうな高校時代の学友とグエン博士(左から3番目)

お姉さんもいたようです

グエン博士のベトナムでの出生証明書

1975年4月に北ベトナム軍がサイゴンに接近したとき、
アメリカ領事館で働いていたグエン博士の妹は、
家族で国を脱出することを決断しました。

グエン博士(左)家族と妹家族。

博士が家族と共に彼らに空港で別れを告げていると、
どういうわけか、グエン博士、彼の妻ハン、二人の子供も
アメリカ当局によって急遽同じ飛行機の座席が提供されたのです。

アメリカ側がそこまで予想していたかはわかりませんが、これは英断でした。
医療隊にいたということは、戦時中アメリカ軍に協力していたことになり、
ベトナムに残っていれば彼と彼の家族は報復に直面する可能性もあったのです。

グエン博士は瞬時に全員での出国を決断しました。

家族は1975年、南カリフォルニアのキャンプ・ペンドルトンに到着しました。
戦争中に同僚で友人でもあったアメリカ陸軍軍医の助けを借りて、
グエン博士はバーモントで医師の助手の(医師免許が無いため)仕事を得ました。

写真はバーモント時代のグエン一家です。

1979年にダートマス・ヒッチコック医療センターで医療訓練を受けた後、
グエン博士はピッツバーグのアレゲニー・バレー病院で麻酔医として働くことになりました。

アメリカに来てからグエン家には二人息子が増えています。
写真は、4番目に生まれた息子の洗礼式のため訪れた
ピッツバーグのセント・ピーター・カトリック教会での一コマです。

グエン博士は、それ以来ピッツバーグに定住し、現地でのベトナム協会の会長を務め、
そのほかにもベトナム系のカトリックコミュニティでも活動を続けています。

ちなみに、この名前で検索すると、ご本人は2021年現在82歳で現役、
ピッツバーグにはこのグエン博士を含めて43人も「グエン」という名前の医師がいました。
(ベトナムにはよくある名前なんでしょうか)

このうち何人かはこのグエン博士の血族なのかもしれません。

 

 

続く。


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