ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」、今日は戦争報道についてです。
■ メディアはベトナム戦争を終わらせたか
アメリカでベトナムが大々的に報道されるようになったのは、
1965年春に米軍の戦闘部隊が相当数投入されてからのことです。
それ以前は、インドシナに駐在するアメリカ人報道官の数は
1964年の時点でも20数人と大変少ないものでした。
戦争が激化した1968年には、ベトナムにはあらゆる国籍の、
約600人ほどからなる報道関係者が駐在し、米国の通信社、ラジオ、
テレビネットワーク、主要新聞やニュース雑誌のために取材していました。
ベトナム軍事支援司令部(MACV)は、報道関係者に軍用の交通手段を提供したので、
彼らの中にはそれを利用して現場に赴き、直接取材をする者もいました。
危険を避けたい多くの記者は、首都サイゴン(現ホーチミン市)に滞在し、
米軍広報部の日刊ブリーフィングから記事を得ていたのですが、
この「当たり障りのない」「肝心なことを明らかにしない」ブリーフィングは
そのうち「5時の愚行」と呼ばれるようになります。
当ブログでは繰り返しになりますが、ベトナム戦争は
テレビを介して初めて一般人が目のあたりにしたという意味で、
このように名づけられました。
"第一次テレビ戦争 "
ベトナムで撮影されたフィルムは東京に飛ばされ、
すぐに現像、編集されてアメリカに送られました。
重要な記事は全て東京から衛星で直接送信されたのです。
「テレビが戦場をアメリカのリビングルームに直接運んできた」
とはよく言われますが、実際にはほとんどのテレビ番組は
戦闘中ではなく、終了した直後に撮影されたものであり、
多くは従来のニュース記事と変わるところはありませんでした。
実際、夜のテレビのニュース番組で放映されるのは、
撮影されたばかりのものではなく、通信社の報道をもとに
アンカーマンが読み上げる簡潔なレポートというのが普通でした。
ベトナム戦争におけるメディアの役割については、実は今も議論が続いています。
ここハインツ歴史センターの解説の論調もそうですが、アメリカの敗北には、
メディアの役割が大きかったという説がある一方、
「メディアはアメリカのベトナムでの活動を支持していた」
と結論づける専門家もいるということなのです。
前者は、メディアが戦争そのものにネガティブな報道をすることで、
アメリカ国内での戦争支持率が低下し、検閲されなかった戦争報道が、
敵に貴重な情報を提供し、米軍を不利に導いたとしています。
確かに1968年2月、「アメリカで最も信頼されている男」として知られる
CBSイブニングニュースのキャスター、ウォルター・クロンカイトが、
「ベトナム戦争は膠着状態に陥っている」
と評したことは、ベトナムに関する世論が大きく変わるきっかけとなりました。
しかし、この懐疑的で悲観的な報道姿勢がアメリカ国民を変えたのではなく、
様々な原因によって国民に浸透していった「ベトナムへの幻滅」が
単に反映されたに過ぎず、リンドン・ジョンソンが言ったように
「クロンカイトを失えばミドルクラスの国民を失うのと同じだ」
と嘆くほどの影響が実際メディアにあったかどうかは甚だ疑問だ、
というのが後者の意見なのです。
実はメディアはクロンカイト発言まではベトナムでのアメリカを支持しており、
彼らの報道が懐疑的になっていったのは、クロンカイト発言が
国民の総意であるという「お墨付き」となってからだ、というのが、
懐疑派のメディア専門家の見解なのです。
ベトナム戦争関係の報道は基本無検閲でした。
戦時中、MACVがジャーナリストを軍規違反で有罪にした例は数えるほどしかなく、
メディアも「軍の意向」に反するような報道はほとんどしていませんでした。
つまりアメリカ人の戦争への幻滅は、さまざまな原因が重なって生まれたものであり、
メディアはその1つにすぎず、
「報道が戦争を終わらせた」
というのは誇張であるというのが後者の結論です。
今回も衝撃的な写真が世界を変えた、という言い方をよく紹介していますが、
それでも実際に国民の世論を動かしたのは、戦争で亡くなる犠牲者が増えた、
という、個々にとって深刻な現実そのものだったというのです。
■ その後のアメリカの報道管制
時は降って1983年、カリブ海に浮かぶ島国グレナダでクーデターが起きた際、
東カリブ諸国機構、およびバルバドス、ジャマイカ軍とともに、
アメリカ軍も侵攻を行いました。
これを「グレナダ侵攻」といいますが、当時のレーガン政権は、
侵攻作戦中の報道を制限することにより、ベトナム時代の自由な報道対策を覆し、
ついでにベトナム戦争に関する情報へのアクセスや、
資料の移動の自由までを制限することにしました。
その後、イラクの自由作戦を皮切りに、2003年には報道関係者を
アメリカ軍の部隊に取り込むという方針が取られるようになりました。
Reporting Vietnam(1998)
は、ベトナム戦争の総決算というべき著書で、2巻からなり、
1969年の「ミライの虐殺事件」(ソンミ村虐殺)の発覚から
1975年のサイゴン陥落までの出来事を追っています。
テーマごとに違うライターが手がけ、
「ラオスでの南ベトナムの失敗」
「アメリカの士気の低下」
「プノンペンの陥落とクメール・ルージュの勝利」
「南ベトナムの最後の日々」
などと言ったテーマが語られています。
■ The Press and the Military 報道員の「戦死」
ディッキー・チャペル(Dickey Chapelle)
は、第二次世界大戦中太平洋の最前線に参加した経験を持ちます。
マサチューセッツ工科大学で航空設計を学んだ彼女の最初の志望は
航空パイロットでしたが、航空写真の仕事を通じて写真家になり、
太平洋戦線では硫黄島や沖縄の写真も残しています。
チャペルは1965年11月4日、ベトナムでのクアンガイ省チューライ付近で行われた
捜索・破壊作戦「ブラックフェレット作戦」を行う海兵隊の小隊と行動中、
前を歩いていた中尉が蹴ったブービートラップの爆発で死亡しました。
このブービートラップは、迫撃砲弾の上部に手榴弾を取り付けたトリップワイヤー式で、
破裂の際、断片が頸動脈を直撃し、彼女を死亡に至らしめたものです。
彼女の英語版Wikiには、瀕死の彼女が、従軍牧師から
最後の秘跡を受けているところをやはり従軍カメラマンの、
ヘンリー・ヒュート(Henri Huet)1927-1971
が撮影したシーンが掲載されています。(wiki)
そのヒュートも、この写真を撮った6年後の1971年2月10日、
南ベトナムによるラオス南部への侵攻作戦(ラムソン719作戦)で、
司令官の戦線視察に同行するため乗ったヘリが、北ベトナム軍に撃墜され、
他のフォトジャーナリスト3名、乗員11人全員と共に死亡しました。
彼らのUH-1ヒューイのベトナム共和国空軍のパイロットが方向を誤り、
ホーチミン・トレイルの最重防御地域に飛び込んで、銃撃を受けたのです。
ヒュートは、戦地を取材する同僚たちの間で、常にその現場での献身、
勇気、そして能力が尊敬され、ユーモアのセンスと優しさでも知られる人物でした。
当時の彼を知るかつての報道員の一人は、
「彼はいつも笑顔を絶やさない人物でした」
と述べています。
彼については、日本でも出版されている、
『レクイエム
ヴェトナム・カンボジア・ラオスの戦場に散った報道カメラマン遺作集』
でその作品が紹介されています。
このときヘリに乗っていてヒュートと共に死亡したカメラマンは、
『ライフ』誌のラリー・バローズ(Larry Burrows)(44歳)。
彼の作品は次の通り。
そして、『UPI』誌のケント・ポッター(Kent Potter)、
そして、『ニューズウィーク』誌の日本人カメラマン、
嶋本啓三郎でした。
墜落現場は北ベトナム側だったので戦後までは未確認でしたが、
1996年になって再発見され、その2年後には、インドシナなどで
MIA(任務注行方不明)の遺体を回収する米国防総省の部隊である
JTFFA(Joint Task Force Full Accounting)
の捜索チームが山腹を発掘したところ、航空機の部品、カメラの部品、
35mmフィルムなどが発見され、さらに人骨の痕跡も発見されました。
ただし人骨は風化してこのとき身元の鑑定を行う状態ではありませんでした。
2002年末、統合POW/MIAコマンド(JPAC)と改称された捜索部隊は、
状況証拠によるグループ識別を理由に、この事件の終結を宣言しました。
その後、公式の場に遺骨を埋葬する機会がないまま、2006年になって、
ワシントンD.C.のニュージアムが遺骨の受け入れに同意し、
JPACから遺骨を譲り受け、2008年4月にあらためて慰霊式が行われました。
このとき行われた慰霊式には、ヒュート、バローズ、ポッターの親族をはじめ、
多くのベトナム戦争時代の同僚を含む100人以上のゲストが出席しています。
この式典に出席したリチャード・パイル氏とホルスト・ファース氏は
事故当時APのサイゴン支局長であり、
「Lost Over Laos〜A True Story of Tragedy, Mystery, and Friendship」
(ラオスでの失踪〜悲劇とミステリーと友情の真実)
の共著者です。
この本では、4人の写真家の個人的な物語、彼らの死に至るまでの出来事、
そしてパイルがようにしてJTFFAの墜落現場の発見に貢献したかが語られています。
■ 戦場に散った日本人カメラマン
沢田恭一 Kyoichi Sawada
ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)側の村がアメリカ軍の爆撃を受け、
村から逃げてきた女性たちが川を歩いて逃げてくるあまりにも有名な写真、
「安全への逃避」
でピューリッツァー賞を受賞したカメラマンの沢田教一は、
1970年10月28日、UPIプノンペン支局長のフランク・フロッシュとともに
タケオ州での取材を終え、車でプノンペンに戻る途中、
何者かに待ち伏せされて暗殺されました。
2人の遺体は道路近くの田んぼに放置されており、銃弾が飛び散っていました。
車内には血痕も弾痕もなかったので、外に引きずり出されて処刑されたものとされます。
彼らは民間の車を運転し、明るい色の民間の服を着ていたので、
兵士と間違われた可能性はなく、ただ、愛機のライカや
腕時計等の金品は無くなっていたことから、
襲撃者は最初から物盗りが目的だった可能性もあります。
ピューリッツァー賞を受賞したカメラマンの中には、
「ハゲワシと少女」のようにカメラを向ける間にどうして助けなかったのか、
という世間のバッシングを受け、
(実際には南京の幼児のように、あの状態だったのは一瞬で、
すぐにカメラマンはハゲワシを追い払ったにもかかわらず)
自殺してしまったケビン・カーターのような人もいますが、
沢田の場合は、「安全への逃避」の場面に遭遇した時、シャッターを切った後
泳ぎ着いた家族に手を差し伸べ、彼らから感謝されています。
さらに沢田はその後も村を何度か訪れて子供たちにケーキを配り、
ピュリツァー賞の賞金36万円のうち6万円を家族にプレゼントしました。
彼がなくなったという知らせが届けられると、家族はもちろん、
村全体が悲しみで包まれたという話が残されています。
峯作品
峯弘道 Hiromichi Mine
日本語の資料が少なく、彼の正しい名前の漢字がわかったのは、
日本で行われた葬儀会場の写真からでした。
1940年生まれ、上智大学経済学部を卒業後UPI東京支局に勤務。
1964年7月にはベトナムに渡りました。
彼の最も有名な写真である砲弾を受けた輸送機カリブーの写真は、
世界報道写真賞とピクチャー・オブ・ザ・イヤー・コンペティションで賞を受賞。
1968年3月5日、フエとフバイの間の道路で、乗っていた装甲兵員輸送車が
500ポンドの地雷に触雷して死亡しました。
ミネは、ベトナムで殺された最初の日本人特派員である。
東京に戻る彼の遺体に付き添ったのは、同じくベトナムで命を落とすことになる
同僚の沢田教一でした。
■ 殉職女性カメラマン第一号、チャペル
最後に、殉職した女性カメラマン、ディッキー・チャペルの
(今ふと思ったのですが、ポリコレ文化大革命のおかげでこの言葉はなくなり、
そのうち『カメラパーソン』とかになるんでしょうか・・・やれやれ)
ことについて、少しお話ししておきます。
冒頭写真をよく見ていただくと、一見男性のように見える彼女ですが、
耳にはパールのピアスをしているのがお分かりいただけるかと思います。
権威に屈しないことで知られたこの小さな女性のいつものスタイルは、
ファティーグジャケット、オーストラリアのブッシュハット、
ドラマチックなハーレクイングラス、そしてパールのピアスでした。
第二次世界大戦中は、写真家としては平凡だった彼女ですが、戦後、
並々ならぬ努力によってあらゆる戦場の取材を行いました。
1956年のハンガリー革命では、7週間以上も収監されたこともあります。
彼女は部隊と一緒に移動するため、空挺部隊と一緒にジャンプすることを覚え、
数々の賞を受賞し、軍部とジャーナリストの両方から尊敬を集めました。
「あの女を今すぐここから追い出せ!」
第二次世界大戦末期、沖縄の戦線に参加した頃の彼女は、
アメリカ海兵隊の将軍からこう言われたこともあったといいます。
1961年、ディッキーはベトナム戦争が始まると、
ベトナムへと当然のように旅立ちました。
アメリカ政府は、当初彼女のイメージを失墜させようと必死に?なりました。
戦闘的な海兵隊員になりたがっていた「少女」。
タバコを吸い、酒を飲み、飛行機から飛び降り、自分の息子くらいの
若い男たちと泥の中で寝ていた「トラブルメーカー」等々。
しかし、彼女の後ろには一般大衆がいて、しかも味方となっていたため、
政府は、むしろ彼女の愛国心を利用してCIAのために働かせる手に出ました。
そして彼女の作品から800枚もの写真がいつの間にかどこへともなく消えました。
彼女が撮影した、ベトナム空挺部隊による共産主義「容疑者」の死刑執行写の瞬間は、
あの「サイゴンの処刑」よりも丸6年も前に撮影されていました。
(39:30あたりから)
Behind The Pearl Earrings: The Story of Dickey Chapelle, Combat Photojournalist | Program |
ちなみにこの映像の43:30あたりから彼女がフィールドに倒れている様子、
遺体が担架で運ばれていく様子が全て記録されています。
担架の横を歩いているカメラマンは、おそらくヒュートでしょう。
地雷を受けて斃れた彼女の最後の言葉はこのようなものでした。
“I guess it was bound to happen.”
(こうなることはわかっていたわ)
彼女の遺体は、6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに本国に送還され、
海兵隊員として丁重な葬礼をもって送られました。
彼女は、ベトナムで戦死した最初の女性戦場記者であり、
同じくベトナムで死んだ最初のアメリカ女性記者でもあります。
そして、ベトナム戦争の報道員として亡くなった、あるいは姿を消した
様々な国からの、少なくとも135名の写真家のひとりです。
続く。