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アメラジアン・ホームカミング法〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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■ Le Anh Had

肖像画に描かれた人物はレ・アン・ハオ。
息子が描いた父親の肖像は、彼の先祖を祀る祭壇に飾られました。
彼とその妻、9人の子供たちは南ベトナムのクアンナム省の村に住んでいました。

この村はベトコンに協力していたため、1968年頃、連合軍がやってきて
住民を排除し、家々や畑などを破壊してしまいました。

そしてハオは危ないという警告を皆から受けていたのにも関わらず、
どうしても家から持ち出したいものがあるといって廃墟になった村に戻り、
殺されました。

そのとき彼が持っていたのは、杖、眼鏡、2冊の詩集、
そして漢方薬の本だったそうです。

村はその後再建され、彼の家族は元の家のあったところにいまだに住んでいます。
彼らは亡くなった父を記憶し、アメリカとの友情の絆を結んでいきたいと、
彼らの祭壇にあるのと同じ肖像画を贈って共有することを提案しました。

レ・アン・ハオは戦争で命を落とした推定300万人のベトナム人のひとりであり、
少なくともその半数といわれる民間人のひとりでもあります。

■ AMERASIAN  Homecoming Act
(”アメラジアン”帰国プロジェクト)

「アメラジアン」とは、アメリカ人とアジア人を足した造語で、
ご想像の通り、ベトナムでアメリカ兵と現地の女性の間に生まれた子供のことです。

そのような子供たちはベトナム社会では阻害され、迫害され、追放されたため、
スチュワート・マッキニー下院議員などの政治家は、これを

「国際的な恥」(national embarrasment)

と呼び、なんとかするべきだと声を上げました。

このような境遇の子供たち、アメラジアンに、移民としての優遇措置を与える
連邦議会の法律、

アメリカ帰郷法(Amerasian Homecoming Act)

が制定されたのは1987年、2年後に施行されました。

アメラジアンの子供たちは外見だけで混血であることを証明できたため、
その結果、ベトナム系アメリカ人の米国への移民が増加することになります。

オハイオ州立大学の調査によると、1982年に始まった立法努力の結果、
約77,000人のアメラジアンの子供たちと、その親戚がアメリカに入国したとされます。

ベトナム系アメリカ人の子供たちとその近親者には難民手当が支給され、
彼らのアメリカ移住の手続きとして最も成功したプログラムと言われました。

ただ、この法律ではベトナム系アメリカ人の子供だけが対象であり、
アメリカが戦争に参加していた他の東南アジア諸国の子供は適応外だったため、
対象難民と対象外難民を巡って、論争が起きることになりました。

写真は、父親だったアメリカ軍の建築エンジニア(民間人)の写真を持つ、
アメラジアンの一人、レ・ティ・リエン。
リエンと家族はこの写真の撮られた1985年当時、アメリカへの移民を希望していました。

■ 帰郷法制定の背景

1982年、米国議会は「アメラジアン移民法」(PL97-359)を可決しましたが、
最初の法律は、移民権が与えられるのはアメラジアンの子供本人のみで、
母親や異母兄弟は対象外だったうえ、アメラジアンの子供がビザを取得するためには、
アメリカ人の父親が合意し、調整に応じる必要があるという不合理なものでした。

アメリカ人の父親の合意を含む書類を持っていない場合、自称アメラジアンは
医師グループによって「アメリカ人」の身体的特徴を検査される可能性さえあったのです。

さらに、アメリカとベトナムの政府は外交関係を結んでいなかったため、
アメリカ系移民法といってもアメリカ人を父親とする子どもにはほとんど役に立たず、
ベトナム系アメリカ人の子どもにはさらに役に立ちませんでした。

■ ムラゼック議員とレ・ヴァン・ミン

Robert J. Mrazek.jpgムラゼック下院議員

1987年、下院議員のロバート・J・ムラゼックは、ニューヨークの
自分の選挙区の高校生たちの要請を受けて、ベトナムを視察しました。
そして、 アメラジアンの子どもたちが耐えている過酷な生活環境を目の当たりにし、
彼らの

「父の国に行きたい」

という声を聞いて、解決策を見つけようと決意します。

そしてホーチミン市(サイゴン)で物乞いをしていた
レ・ヴァン・ミンというアメリカ系ベトナム人の子どもを、
アメリカで医療を受けさせるという目的で連れてきました。

  物乞いをしていた彼は3歳(戦争が終わった頃)で発症した小児麻痺の後遺症で
ムラゼックに会ったときには四つん這いでしか歩けない体でした。 彼父親はアメリカのGIで、兄弟の中の唯一のアメラジアンでした。
10歳になったとき、彼は母親から家を追い出され、物乞いをするしかなくなったのです。   彼が手にしているのは、主に何か恵んでもらう相手である西欧人に渡すための
タバコのパッケージホイルで作った花です。   ムラゼック議員の指示で、ある日突然保護された彼は、アメリカに連れて行かれました。
飛行機がJFK空港に着陸し、そこに降り立ったとき、彼らを迎えたのは
眩しいテレビカメラのライトとフラッシュでした。   「これが”ビッグアップル”だ。ここがニューヨークだ。息子よ」   ムラゼック議員はミンにそういい、ミンは議員の首に腕を回しました。
  その後、ミンはムラゼック議員に連れられて、報道陣や、
議員にベトナムでミンを助けるように陳情した、
ハンティントン高校の生徒たち100人と対面しました。
議員に働きかけ、ミンをアメリカに連れてくるために
数カ月にわたるキャンペーンを計画したのは高校生だったのです。   ベトナム語で「明るい」を意味するファーストネームを持つレ・ヴァン・ミン。
彼は帰国後の報道陣の前でも微笑みながらただ黙っていました。

学生たちに取り囲まれ、皆が彼に触れ、口々に祝福されてはいましたが、
実のところ彼にはその理由となぜ自分がここにいるかさえわかっていなかったようです。   全く教育を受けず、物心ついた時から物乞いをして生きていたミンは
母国語すらほとんど喋ることができず、それが思考すら覚束なくしていたのかもしれません。   ミンはムラゼック議員の家庭にいったん受け入れられ、
彼の息子と娘に大歓迎されて家族のようにしばらく暮らした後、
里親に引き取られてアメリカ人として生きていくことになりました。  

 

ミンを引き取ったことをきっかけに、ムラゼック議員は議会に働きかけ、
後に「アメラジアン・ホームカミング法」を制定することになります。

同時に制定された

「秩序ある出国プログラム(Orderly Departure Program ODP)」

は、南ベトナムの兵士やアメリカの戦争に関係した人々が
ベトナムからアメリカに移住できるシステムをでした。

このシステムにより、書類などの確認が簡略化されて、最終的に
ちゃんとした書類を持っていなくても入国が可能になったのです。

この結果、約6,000人のアメラジアンと11,000人の親族がアメリカに入国しました。

■ アメラジアン・ホームカミング法制定後

ベトナム戦争後、アメリカは難民への現金援助と医療援助をおこないましたが、
1970年代にそれをわずか8カ月に短縮する措置を取りました。

多くのアメラジアンの子どもたちは公立学校で苦労することになり、
高等教育を受けられる例はほぼないというくらいでした。

多くのアメラジアンたちは、白い肌だったり、非常に暗い肌に青い目だったり、
黒髪なのに巻き毛だったりという身体特徴からすぐにアメリカ人とのハーフとわかり、
つねに偏見に直面していたのです。

彼らを蔑んで呼ぶ

「ブイ・ドイ」(「人生の塵」または「ゴミ」)

という言葉は、イコールアメラジアンという意味で使われました。

戦後のベトナムは新社会主義国となり、このような学校でのいじめや
近隣住民からの蔑みだけでなく、政府関係者までが、
旧敵を思い出させるという理由で彼らの存在を憎むように仕組みました。

しかしです。

同法が制定され、アメラジアン本人たちだけでなく、その家族も
アメリカに移住できるようになると、ベトナム社会はいきなり掌を返し、
これらの子供たちをゴミどころか、

「ゴールデン・チルドレン」

と呼んでもてはやしたり羨んだりするようになったのです。

家族と一言で言っても、アメラジアンの子供の配偶者、子供、母親だけでなく、
近親者まで移住の対象となり、移民すればから手当てまで貰えるのですからね。

今ならDNAテストなどが導入されるのでしょうが、当時は申請者の外見だけで
父親がアメリカ人だと認められ、法律が適用されるというこの法案は画期的でした。

■入国手続きと「偽装家族」

アメリカ人帰還法は、それぞれのアメリカ大使館を通じて運営されました。

アメリカ大使館の職員は、アメラジアンの子供とその家族の面接を行い、
子供の父親が米軍関係者であるかどうかを確認しましたが、その方法が
「顔を見て判断する」という非常にアバウトなものだったのは驚くべきです。

そんなだったので、必ずしも適応には書類を必要としなかったのですが、
もし持っていれば、そのケースはより早く処理されることになりました。

問題は、アメラジアン本人は一眼でそうとわかっても、その親族が
本物であるかどうかを見分ける手立てがなかったということです。

現に、アメリカに移住するためにアメラジアンには親族と称する人たちが近づき、
偽装家族となってその資格を手に入れようとした例が報告されています。

承認された申請者とその家族は、どちらかといえば簡単な健康診断を受け
合格すればアメリカはベトナム当局に通知し、出国手続きが開始されます。

帰国が決まれば、彼らは英語の研修と文化オリエンテーションのために、
半年の期間フィリピンに送られました。


■ 問題点

先ほどの繰り返しになりますが、こんにち成功したと評価されている
このアメリカ帰還法にも、問題点と論争がなかったわけではありません。

最も大きな問題点は、ベトナムで生まれたアメリカ人の子供にしか適用されず、
日本、韓国、フィリピン、ラオス、カンボジア、タイ
を対象地域から除外していたことです。

1993年には、フィリピン人アメラジアンの援助を受ける権利を求め、
国際訴状裁判所に集団訴訟が起こされました。

このとき下された判決は、彼らにとって非常に不利なものとなりました。
つまり、裁判所は

「子供は米国のサービスマンに提供された性的サービスの産物である」

とし、売春が違法である以上、フィリピン系アメリカ人の子供たちには
かかる法的請求権は存在しないと判断したのです。

したがって、ベトナム以外の国で生まれたアメラジアンの子どもたちが
アメリカに移住できるのは、父親が自分の子供だと認めた場合に限りました。

そもそも、セックスワーカーから生まれた子供の場合、ほとんどの父親は
彼らが自分の子供であるとは認めませんし、DNAテストがなかった当時、
逆にその人物の子供であるという証明もできませんでした。

そして法律でセックスワーカーの子供が排除されると規定されたため、
多くの子どもたちがプログラムに参加できなくなったというわけです。

しかも、この例は、ベトナムで生まれたアメラジアンにもしばしば起こりました。

あるベトナム人女性がアメラジアンの息子のためにアメリカ市民権を得ようと、
父親であるアメリカ人に公的な手続きを行うように連絡したところ、
父親は彼女を売春婦と呼んで関係と責任を否定した、といったように。

■ グリーン・アイズ

Green Eyes (1977) | Paul Winfield Returns to Vietnam

「グリーン・アイズ」は1977年にアメリカでテレビ放映された戦争ドラマです。

主人公のロイドは"肉体的にも心理的にも傷ついたベトナム帰還兵 "であった。
退役軍人病院から退院した後も仕事を見つけることができず、周囲から孤立していく。

ロイドの母はロイドの陸軍からの給料と掃除婦として稼いだお金を貯めて、
帰還した彼が大学に行って学位を取れるようにしてくれていたにもかかわらず、
ロイドは、自分の子供を産んだベトナム人女性エムを捜すためにサイゴンに戻る。

エムからの手紙に書かれていたのは、彼の見たことのない子供が
「緑色の目をした男の子」ということだけだった。

というストーリーです。

ロイドのようにするアメリカ人は、しかし現実社会には稀な存在であったのも確かです。

アメラジアン・ホームカミング法でアメリカに「帰国」したアメリカ人のうち
その後各界で成功した人々は枚挙にいとまがありません。

ベトナム系アメリカ人リスト

 

続く。

 


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