スミソニアン博物館の「第二次世界大戦の航空」、同展示室の
「5機の最も有名な戦闘機」の最後の機体を紹介することになったのですが、
その前に、展示室にあったこの絵をご覧ください。
■ 映画「トラ!トラ!トラ!」のコンセプトアート
これを見た途端真珠湾攻撃に赴く帝国海軍の艦隊であると気づくのは、
日本人でなければおそらく第二次世界大戦の日米戦に詳しい人だけだと思います。
1941年12月7日が満月だったのかどうかはわかりませんが、
作者の解釈により煌々と雲間から漏れる月の光を白く跳ね返す波をけって
戦艦、航空母艦、そして特殊潜航艇を搭載した潜水艦が並んで航行しています。
夜間にもかかわらず零戦21型が3機飛んでおり、絵画の写実性の割には
現実味のない瞬間だなと気づく人は、さらにマニアに近い知識の持ち主かもしれません。
現地にはタイトルも説明もなかったのですが、調べたところ、この現実味のなさは
この絵が、1970年公開の20世紀フォックス映画「トラ!トラ!トラ!」の
「コンセプトペインティング」として描かれたものであるからということがわかりました。
作者はロバート・セオドア・マッコール(Robert Theodore McCall、1919- 2010)。
特にスペースアートの作品で知られたアメリカのアーティストです。
マッコールは1960年代に『ライフ』誌のイラストレーターとして活躍していました。
スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』の
宣伝用アートワークを引き受けた後、依頼されたのがやリチャード・フライシャー監督作品
『トラ!トラ!トラ!』に関する一連の絵画だったのです。
この絵のタイトルは、(おそらくですが)
Pearl Harber on Sundayといいます。
一番向こうの空母は旗艦「赤城」であるとして、戦艦は「比叡」か「霧島」か。
もしかしたらこれは戦艦ではない、といわれるかもしれませんので断定は避けておきます。
細部まで詳細に描き込まれていて、たとえば潜水艦上では
特殊潜航艇を搭載した伊号潜水艦の「I 70」というマークまで見えます。
伊号第70潜水艦は確かにハワイ作戦に参加しています。
そして、作戦終了後である12月10日、ハワイ西方約320kmの地点にいた
「エンタープライズ」の艦載機SBDに発見され、撃沈され、
これが太平洋戦争における最初の日本海軍の喪失艦艇とされます。
ただし日本側の記録では伊70の喪失状況は不明とされていて、
さらにVS-6が爆撃したのは伊25だったということになっているそうです。
同じ部屋に展示してあったこの絵ももちろんマッコールの同シリーズ作品です。
本人のホームページで、なぜかこの画像が反転しているのですが、
手前の航空機の搭乗員の鉢巻きと機体に描かれた文字で
日本人には一眼で反転であることがわかってしまいます。
さすが画家、アメリカ人にしては漢字が上手いので感心しますが、
悲しいことに後一つのところで苗字が読めません。
〇〇義雄という兵曹長が真珠湾攻撃に参加していたのかどうか、
機動部隊の名簿に一応全部目を通しましたが、該当人物はなし。
それと、海軍は搭乗員の場合兵曹長より「飛曹長」と言っていたんじゃないのかな。
どなたか真珠湾攻撃に参加した艦爆乗りの義雄という名前の飛曹長に
心当たりのある方は教えていただけますと幸いです。
マッコール氏の他の「トラ!トラ!トラ!」シリーズをご覧になりたい方は
こちらをどうぞ。
■ 零戦は世界最強の戦闘機だったのか
さて、というところで、当展示室の最後の戦闘機、
Mitsubishi A6M5 Reisen (Zero Fighter)Model 52 ZEKE
を紹介することにしましょう。
零式艦上戦闘機というのが正式な日本の名称なので、「レイセン」となっていますが、
当時の海軍でも普通に「ゼロ戦」という名称は使用されていたといいますね。
そして「ZEKE」ジークは連合国軍によるコードネームとなります。
ところで、日本語のネットをブラウズしていると、定期的に
零戦についての話題が目に飛び込んできます。
つい最近も、わたしは、
「零戦が最強の戦闘機だったかどうか」
についてのスレッドに行き当たったのですが、そこで、
零戦が最強だったのはデビュー直後だけだった、という
当然と言えば当然の成り行きをことさら強調し、この稀代の名機を
貶めたい人すらいるらしいことを知りました。
どんな最新兵器も技術の進歩によって陳腐化は避けられないのですから、
そんな人には、天下のスミソニアン航空博物館が零戦に与えた
客観的なこの評価を、是非よく味わって欲しいと思います。
第二次世界大戦における日本の航空戦力の象徴として、
三菱A6M零戦(レイセン)を超える航空機はない。
それでは続いてスミソニアンの解説を紹介していきます。
零戦の設計は三菱だが、製造は中島との共同だった。
1939年3月から1945年8月までの間に、2社で1万機以上の零戦を製造した。
1937年、日本海軍が三菱と中島に、三菱A5M空母戦闘機(CLAUDE)に代わる
新しい航空機の提案をするよう指示したことから、設計作業が始まった。
三菱A5M空母戦闘機(CLAUDE)とはつまり九六式艦上戦闘機のことです。
96式=「ク・ロク」=クロードなのか?と今ふと思いましたがどうでしょうか。
1940年7月には中国で戦闘訓練が開始された。
秋までに零戦パイロットは100機近くの中国機を撃墜したが、
友軍の攻撃による零戦の損失はわずか2機であった。
友軍というのはアメリカ側から言っていますので、つまりアメリカ軍のことです。
中国大陸ではまさにデビュー直後の零戦が無敵だったと書かれています。
日本の海軍搭乗員は、戦闘準備の整った328機のA6M2レイセンを飛行させ、
真珠湾やフィリピンでアメリカ軍と戦いました。
レイセンは、1942年5月の珊瑚海に続き、
6月のミッドウェイでアメリカの機動部隊に阻止されるまで、
戦争最初の6ヶ月間、連合国の全ての戦闘機を凌駕していました。
零戦が無敵だったのは、中国大陸に続く6ヶ月間、合計1年半ほどだったことになります。
ミッドウェイで日本の空母4隻が失われたことで、致命的な傾向が浮き彫りになった。
日本軍は、経験豊富なパイロットや航空機を交換するよりも早く失うことになる。
しかし、連合国コードネーム「ジーク」は、さらに2年近くも不吉な脅威であり続けた。
わたしはナショナリストでもなんでもありませんが、こういう
敵側からの冷静な礼賛を見ると、思わず心の中で
「ジーク・ハイル!」(洒落かよ)
という言葉を思い浮かべてしまう性根を決して否定しません。
■ 零戦の欠陥と連合国軍の反撃
スミソニアンの零戦は、このように空翔ける姿を再現し、
機体の底部も、正面も、俯瞰位置からも見られるように展示されています。
自慢の復元機の一つで、展示法にも細心の注意が払われているのがわかります。
人気です
それでは、スミソニアンは零戦の優位性をどこに見出しているのでしょうか。
零戦の強力な性能の鍵は重量である。
1937年5月、日本の海軍参謀本部は「空母から飛べる戦闘機」という暫定仕様を発表した。
三菱の設計者である堀越二郎をはじめとするチームは、
この厳しい要求を満たすため、特に機体の軽量化に注力した。
堀越は、日本で開発された新しい軽量アルミニウム合金を使用し、
装甲板やセルフシール式燃料タンクを省くことにしたのだ。
これらの保護装置は何百キログラムもあり、海軍から要求された
性能を満たそうと思えば、割愛を余儀なくされたのである。
機体の軽量化と搭乗員の安全を秤にかけて前者を取った、
というのは有名な話なので誰もが知っているでしょう。
そしてこのことも。
しかし、これらの部品の欠如は、結局、零戦の破滅につながった。
つまりこういう経緯です。
軽量化によって、零戦はアメリカの戦闘機に比べて上昇速度も速く、
接近戦(ドッグファイト)では相手を圧倒することができました。
しかし、戦闘経験を積み、訓練を重ねるうちに、アメリカ軍の戦術は変わり始めます。
敗北にも却って闘志をかき立てられ、死に物狂いで、しかし、
集合知を積み重ね、冷静に克服していこうとするガッツが、
あの国の国民に備わったひとつの強みであることに論を分かちますまい。
まず、戦術が慎重に吟味されました。
アメリカ軍パイロットは、旋回したりループしたりするドッグファイトを避け、
高さや速度で優位に立ち、急襲できる時しか零戦と交戦しなくなります。
このタイプの攻撃は、銃を撃ちながら一直線に航過するものです。
そして優れたスピードでゼロ戦から離れ、安全な場所までズームアップするか、
離れた場所で旋回して反航し、再び攻撃するというものでした。
このアイデアと他の戦術を組み合わせることによって、当初零戦には
全く歯が立たないと思われていたグラマンF4Fワイルドキャットには、
日本の戦闘機を破壊することができる手強い相手に変わったのでした。
■ 立ち塞がる強敵
連合国は、1942年にゼロ戦よりも優れた航空機を配備し始めました。
ロッキード社のチーフデザイナー、ケリー・ジョンソンは、
最終的に日本の航空機を最も多く破壊することになるあの、
ロッキードP-38ライトニング
を世に生み出します。
ゼロ戦 vs P-38ライトニング IL2 A6M2 21 vs P38F1LO(ace)
P-38(ペロハチ)パイロットは、その優れたスピードと上昇性能で
1942年末に最初のゼロ戦を撃墜しました。
そして1943年8月には
F6F-3ヘルキャット
が戦闘に投入されます。
その推進力となったプラット&ホイットニーR-2800エンジンは、
パイロットが戦術的状況を気にすることなく零戦と交戦、
または回避するのに十分な速度と上昇力を可能にしました。
グラマン F6F ヘルキャットの操縦マニュアル
次々と強力なエンジンを搭載した機体を生み出すアメリカに対し、
日本の航空業界でも先進的な戦闘機の開発が続けられていたのですが、
完成までの複雑なプロセスには多くの問題があり、戦闘機の実用化はなかなか軌道に乗らず、
そのため、零戦は終戦まで生産され続けることになります。
そのため零戦とその派生機の生産数は11,291機と、日本の軍用機の中で最多となりました。
■ スミソニアン展示の零戦の来歴
国立航空宇宙博物館に展示されているA6M5零式艦上戦闘機52型は、
1944年4月にサイパン島で捕獲された日本軍機12機のうちの1機です。
サイパンで鹵獲されたばかりの当博物館の零戦の姿。
日の丸を掲示板にするなー!
そして海軍がまだ戦争の終わっていない7月に評価のために米国に送られてきました。
当館の最も古い記録によると、1944年にオハイオ州のライトフィールド基地で、
翌年にはフロリダ州のエグリンフィールドで評価されたことが記されているそうです。
残された記録は次の通り。
1944年9月1日、ワシントンD.C.の対岸アナコスティア海軍航空基地にて、
1944年10月20日までに3:10の飛行時間(連合軍)を記録
1945年1月3日から2月9日までフロリダ州エグリン飛行場で評価
1945年4月18日から1946年2月13日まで、オハイオ州デイトンのライト・フィールド。
1945年7月13日時点で、この零戦は連合国側で93時間15分飛行している
1946年3月4日までにインディアナ州フリーマン飛行場へ、
1946年6月14日にフリーマン飛行場を出発
現地の説明板に掲載されているコクピット写真。
ここでの解説は次の通りです。
Mitsubishi A6M5 Zeroは第二次世界大戦における主要な日本海軍戦闘機でした。
真珠湾攻撃から終戦近くの神風特攻隊まで使用されたA6Mには、連合国から
コードネーム「ジーク」が付けられましたが、一般には「ゼロ」と呼ばれていました。
機体の機動性は連合軍パイロットを驚かせました。
彼らが自国の航空機の速度と火力を利用した戦術を考案するまで、
ゼロは戦闘において非常に成功したことが証明されています。
戦争が進むにつれ、連合国はその巨大な産業力により、優れた航空機を生産することができました。
その名声が高かったため、連合軍搭乗員は全ての日本の戦闘機をゼロと呼びましたが、
ゼロという名前は三菱A6Mにのみ正しく適用されます。
このマーキングは、サイパンに展開していた海軍第261航空隊のものです。
たいていのことはすでに知っていましたが、敵のパイロットが、
隼であろうが紫電改であろうが「ゼロ」と呼んでいたというのは初めて知りました。
それって、特別攻撃を何彼構わず「カミカゼ」よばわりするのと同じノリかな?
大戦初期、高い機動力を持つゼロは連合軍に「不快な驚き」を与えました。
これは日本の技術力が当時の世界に十分かつ真剣に受け止められていなかったからです。
つまり、侮っていた東洋人にこれだけ優れた科学と生産力を持てるなど、
当時の白人世界には及びもつかなかったことから来るショックですな。
零戦そのものが真に(つまり絶対的に)優れた航空機かどうかの評価はともかく、
この事実でもって、世界に精神的な「殴り込み」をかけたということ一つとっても、
この戦闘機の存在価値は、ある意味我々日本人と当時の白人国家以外にとって偉大だった、
と褒め称えるに値するのではないかとわたしは思ってみたりします。
確かに負ける戦争ならしないほうがマシだった、というのも一つの冷徹な真実ですが、
もしあのとき日本が戦争を起こさなければ、世界の序列も価値観も依然として変わらず、
いまだに支配構造も大国主義も同じままであった可能性だって・・あるよね?
とおそるおそる言ってみる(笑)
真珠湾にあるアメリカ海軍の施設が1941年12月7日、日本海軍の軍用機に攻撃されました。
奇襲攻撃は中島B5N(ケイト)魚雷爆撃機、愛知D3a(ヴァル)艦爆、
そして三菱ゼロ戦闘機によって行われました。
日曜日の2時間の朝の襲撃で、日本の機動部隊航空隊の二波が
2,300名のアメリカ人を殺し、オアフ島の航空機の半分以上を破壊し、
7隻の戦艦を沈没または激しく損傷させました。
攻撃そのものは壊滅的な打撃を与えましたが、修理工場と燃料貯蔵エリアは
ほとんど手付かずであり、3隻の空母は無事でした。
この壊滅的打撃によって、支配階級の大国を怒らせてしまった東洋の小国、
日本が、その後どうなったかは歴史の示す通りです。(投げやり)
続く。