■ ベトナムベテランズメモリアル
ワシントンD.C.のコンスティテューション・ガーデンには、
5万8,000以上の名前が刻まれたシンプルな黒い花崗岩の壁があります。
これは、1982年以来、ベトナム戦争に従軍中に死亡、または
行方不明となった軍人を追悼している「ベトナム退役軍人記念館」です。
ベトナム退役軍人のジャン・スクラッグス(Jan Scruggs )は、
ベトナム帰還兵たちを描いた映画「ディア・ハンター」を見た後、
仲間の兵士たちが命を捧げた奉仕とその結果の犠牲を、
アメリカに認めてもらうための具体的なシンボルが必要だと考えました。
つまりベトナム戦争兵士のためのメモリアルです。
1980年、コンスティテューション・ガーデンに記念館の設置を許可された後、
設計コンペが行われ、マヤ・リン(Maya Lin)の作品が満場一致で選ばれました。
この記念館の計画が発表された時点で、その構造については議論の的にもなりました。
さらに人々に驚きを与えたのは、コンペに勝った建築家が21歳の女性で、
さらにはプロとしての経験もない無名の学生だったことです。
マヤ・リン(中央)、ジャン・スクラッグス(左)
マヤ・リンは当時イェール大学の学部生でしたが、
記念碑のコンペで1,400人以上の応募者の中から選ばれました。
彼女の両親は中国人の大学教授で、文化大革命から逃れるためアメリカに移民し、
彼女自身はアメリカで生まれた中国系アメリカ人です。
写真で彼女が持っている敷地全体の設計図で、中央に広い逆さVがありますが、
これが記念碑で、光沢のある黒御影石でできており、片方の「腕」をリンカーン記念館に、
もう片方をワシントン記念塔に向けた設計となっています。
壁に刻まれているのは戦死したor行方不明になった人など58,318人の名前であり、
碑の前に立つと、彼らの名前の上にはそれを見る人の姿が映し出されるのです。
この写真に写っているのは、ほとんどがダイヤモンド型が刻まれた名前ですが、
これは死亡宣告を受けた人であり、MIA、つまり記念碑建造当時、
行方不明だった人の名前の側には十字架が刻まれています。
その後、MIAとされている人が生きて帰ってきた場合は、十字の周りに丸が付けられ、
遺体が確認された場合は、十字架の上にダイヤモンドが重ねられることになっています。
最初に戦死した男性(1959年)の名前は、二つの壁が合わさったV字の中央から始まり、
年代ごとに並べられたこれらの名前は、2つの壁の接合部の裏側で出会います。
つまり、壁の真ん中で最初の死者と最後の死者(1975年5月15日)が出会うのです。
リンはこのデザインについて、
「既存のデザインのエレガントなシンプルさと
ストイックさを維持し、強化すること」
「それ自体がベトナム帰還兵の経験と
奉仕の感動を呼び起こす彫刻を作ること」
と胸を張りました。
それは、個人の名前と死亡日をシンプルに表現することが持つ力です。
メモリアルウォールに書かれた圧倒的な数の名前は、
「戦争の現実、戦争で失われた命、そして従軍した個人、
特に亡くなった人たちに思いを馳せるための場所」
でもあるのです。
しかしながら、このデザインに対しては賛否両論がありました。
というか、否定的な反応は非常に強く、何人かの下院議員が苦情を申し立て、
内務省長官ジェームズ・G・ワットのごときは建築許可を出さなかったとまでいわれます。
何が彼らの気に入らなかったのでしょうか。
シンプルすぎるから?
ベトナム帰還兵のトム・カーハート(Tom Carhart)は、
ニューヨーク・タイムズ紙の社説において、
「英雄的な彫刻の要素がなければ、抽象的すぎるデザインは
ベトナム戦争の『恥と悲しみ』を強調しすぎてしまう」
という理由でこの黒曜石の壁を否定しました。
なぜ抽象的だと恥と悲しみが強調されるのか、わたしはその記事を読んでいないので
これだけではまったく理解できないのですが、まあつまりそういう理屈です。
とにかく、大きくなる不満の声を抑えるために、そして、カーハートのような
より伝統的なアプローチを望む人々をなだめる?ために、
壁の近くに、国旗と軍人の具象彫刻が追加されることになったのです。
そこで軍人の姿の彫刻を依頼されたのが、コンペで最も評価の高かった彫刻家、
フレデリック・ハート(Frederic Hart)でした。
■ 三人の軍人像
武装し、ジャングルの戦闘服を着た3人の若い軍人たち。
彼らの視線は戦死者の名前の書かれた壁に注がれています。
見てますね
これを見た退役軍人たちは、その特徴はどの兵士にも当てはまり、
実際に彼らをどこかで見たような気がすると感想を述べるそうです。
このブロンズ像は、アーティストのフレデリック・ハートが制作したものです。
さて、マヤ・リンは、ハートの作品を自分の記念碑の近くに置くと言う決定を
「自分のデザインが汚された」
として激怒し、それを「クーデター」とまで呼びました。
なんというか、この辺りが若く経験がなくとも矜恃に溢れた芸術家であり、
ある意味中国人女性らしい気の強さとある層には捉えられたかもしれません。
さらに、大きな声で言いたくはありませんが、どうしてもここで考えてしまうのは、
リンがアーティストとして全く経験のない学生であるだけでなく、
若い女性でしかも中国系アメリカ人二世であったというそのスペックです。
もし同じようなデザインでも、作者が白人男性のそこそこベテランなら、
(そう、ハートのような)それでも反対の声はこれほど大きかったでしょうか。
彼女はさらに、退役軍人から否定的な手紙は一通も受け取っていないと主張し、
「退役軍人の多くはカーハートほど保守的ではない」
とまで言い放ちました。
結局、ハートの作品は、彼女のデザインへの影響を最小限に抑えるために、
記念壁から少し離れた場所に置かれることに決まりました。
制作中。右はモデルになったコーネル三世伍長。
このハートの作品について解説しておきましょう。
「戦争中の男たちの性質である愛と犠牲の絆を表現するための作品」
を作るために、何十人もの退役軍人にインタビューし、
戦争中のフィルムやドキュメンタリーを見ました。
ベトナムで従軍したアメリカ人戦闘員に含まれる主要な民族を表現するために、
この像の3人の男性は、
ヨーロッパ系アメリカ人(中央)
アフリカ系アメリカ人(右)
ラテン系アメリカ人(左)
と意図的に識別できるようになっています。
この3人の人物は、実際の6人の若者をモデルにしており、そのうち2人
(白人系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人)は、
この彫刻が依頼された当時、現役の海兵隊員でした。
白人系は当時海兵隊の伍長だったジェームズ・E・コーネル3世、
アフリカ系は海兵隊のテランス・グリーン伍長、ロドニー・シェリル、
そしてスコッティ・ディリンガムの3人、ヒスパニック系は
ギレルモ・スミス・デ・ペレス・デレオンという名前まではっきり残っています。
左から、デレオン氏、作者、コーネル三世伍長、グリーン伍長
作者はこの作品についてこのように語っています。
「この壁を海にたとえました。
圧倒されるような名前の数、ほとんど理解できないような犠牲の海です。
わたしはこれらの人物をその海の岸辺に置き、海を見つめさせ、
海の前で警戒させ、海の人間的な顔、人間の心を映し出そうとしました。
史実に忠実に、彼らは制服を着て、戦争の装備を持ち、そして若い。
彼らの若さの無邪気さと戦争の武器とのコントラストが、その犠牲の痛ましさを強調します。
彼らには、戦争中の男たちがそうであったように、愛と犠牲の絆を示す身体的、精神的な一体感がある。
しかし、彼らひとりひとりは孤独であり、強さと弱さをそれぞれ内包しているのです。
彼らの真のヒロイズムは、その自覚と弱さに直面したときの忠誠の絆にあります」
兵士たちは亡くなった仲間の名前の書かれた壁を厳粛に見守っています。
作者とそのスタッフは配置する位置を決定するために、兵士の実物大のモックアップを持って
記念館の敷地内を何度も回って何カ所も試し、完璧な場所を見つけました。
また、作者はこんなことも言っています。
「三人の兵士たちのファティーグジャケットやパンツのヒダは、
あなたが見たことがある中世の天使の彫刻の衣装のヒダのようなものです」
■ 看護士と兵士の像
別の木立の中には「ベトナム女性記念館」があり、
3人の女性軍人と1人の負傷した兵士を表した具象彫刻があります。
作者のグレナ・グッドエーカーは、この作品ので、
「女性たちの行動によって救われた若い男性」
の姿を描いたと述べています。
彼女らについては「三人の看護師」と間違った説明をしている媒体もあるようですが、
看護師は兵士を抱き抱えている女性だけで、後二人は航空管制官、通信士であり、
ベトナム戦争で女性軍人・軍属が果たした重要な支援や介護の役割を表しているのです。
同じ敷地内にあるベトナム女性記念館は、ベトナム戦争に従軍した
アメリカの女性を顕彰するために建てられた記念館です。
しかしながら、この記念碑で描かれているように、ベトナム戦争では
女性看護師が前線で医療行為を行ったという事実はなく、
そのような一次医療は陸海軍の男性衛生兵によってのみ行われていました。
女性の看護師はもっぱら前線の後方にある軍病院で働いていたため、
史実に照らせば不正確であり、あくまでも象徴としての表現とされています。
ちなみに、慰霊の壁には戦争で亡くなった8人の女性軍人の名前が刻まれており、
彫刻の木立には彼女らの数だけ、8本の木があります。
この8人は彼女たちはすべて従軍看護師であり、負傷者の世話をしている間に、
榴散弾の傷やヘリコプターの墜落、病気などで亡くなっています。
戦線がはっきりしない戦争であったため、彼女たちはしばしば戦闘地域の真っ只中に巻き込まれ、
自分の身を危険にさらしながら任務につかねばなりませんでした。
壁に名前を刻まれた女性8名を紹介しておきましょう。
エレノア・アレキサンダー陸軍少佐 Capt. Eleanor Alexander
ヘドウィグ・オルロスキー陸軍大尉 1st Lt. Hedwig Orlowski
1967年11月、プレクの病院勤務からの帰路、飛行機が墜落して死亡
シャロン・レーン陸軍大尉 1st Lt. Sharon Lane
1969年6月、チューライの312避難病院にロケット弾が命中、破片による負傷で死亡
パメラ・ドノバン陸軍中尉 2nd Lt. Pamela Donovan
1968年7月にジアディンで病死
アニー・グラハム陸軍中佐 Lt. Col. Annie Graham
1968年8月、同病院で病死
キャロル・ドラズバ陸軍中尉 2nd Lts. Carol Drazba
エリザベス・ジョーンズ陸軍中尉 2nd Lts. Elizabeth Jones
1966年2月、サイゴン近郊でのヘリコプター墜落事故で死亡
メアリー・テレーズ・クリンカー空軍少佐 Capt. Mary Therese Klinker
1975年4月4日、国外に脱出するベトナムの孤児を乗せたバビリフト機の墜落事故で、
138名の人々とともに死亡
この記念碑周辺を訪れる人の多くは、従軍した人たちへの追悼の意を込めた
さまざまな品々を残していきます。
花束以外にも軍用のドッグタグ、花、勲章、写真、お気に入りのおもちゃなどが
碑の前に常に置かれています。
そのほか「米国旗」と「MIA-POW旗」を掲げる旗竿などがあり、
旗竿のもとにはアメリカの5つの軍隊の徽章が掲げられています。
1982年11月11日、ワシントン国立大聖堂で行われた壁の献納式では、
56時間にわたって刻まれたすべての死者の名前が読み上げられました。
続く。