この項を制作したのは半年くらい前のことです。
アフガンがあのような状態になっているまさにこの時期に、ベトナム戦争末期の
「国外脱出」について語ることになるとは思いもよりませんでした。
■ サイゴン陥落
ベトナム戦争の終結。
それはサイゴン陥落の瞬間でした。
1975年4月30日、北ベトナム人民軍(PAVN)とベトコンが、
南ベトナムの首都サイゴンを占領し、この瞬間からベトナムは
ベトナム社会主義共和国への正式な統一に向けて動き始めました。
ヴァン・ティエン・ドゥン (Văn Tiến Dũng, 文進勇)将軍が指揮するPAVNは
サイゴンに向けて海岸沿いに南下しつつ攻撃を続け、
その度に南ベトナム軍をほとんど完璧に撃破していきました。
そして、1975年4月29日にサイゴンへの最終攻撃を開始しました。
これを迎え撃ったのはグエン・ヴァン・トアン将軍率いる共和国軍(ARVN)ですが、
ドゥン軍の激しい砲撃の前に完全に崩壊して後退しました。
そしてアメリカはまたしても何もしませんでした。
電光石火の占領によって、市街地は、故ホー・チ・ミン大統領にちなんで
その瞬間から「ホー・チ・ミン市」と改称されることになります。
サイゴンの陥落には様々な名称が適用されています。
欧米では簡単にFall of Saigon「サイゴン陥落」ですが、ベトナム政府は公式に
「国家統一のために南部を解放した日」または「解放の日」
逆に共産主義から亡命した多くの在外ベトナム人からは
「国を失った日」(Ngày mất nước)
「黒い四月」(Tháng Tư Đen)
「恥の国民の日」(Ngày Quốc Nhục)
「恨みの国民の日」(Ngày Quốc Hận)
等々、なかなかに恨みがましいというかネガティブな名称で呼ばれています。
もっとも911や226のように、
「1975年4月30日事件」(Sự kiện 30 tháng 4 năm 1975)
「4月30日」(30 tháng 4)
単純にこれだけでそのことを表す名称もあります。
■北ベトナムの進攻
サイゴン陥落は、ほとんどのアメリカ人と南ベトナム人にとって驚きでしたが、
当事者である北ベトナムとその同盟国にとっても「意外」だったようです。
CIAと米陸軍情報部が、南ベトナムは少なくとも1976年までは持ちこたえることができる、
と情報分析している間にも、ドゥン将軍は大攻勢の準備を着々と整えていました。
3月10日
この日に始まったPAVNの侵攻は、砲兵と装甲に支えられながらサイゴンに向かい、
3月末には南ベトナム北部の主要都市を占領していました。(25日にはフエ、28日にはダナン)。
これに従って南ベトナム軍は無秩序な退却を始め、逆転の見通しはほぼなくなります。
この頃になると、ベトナムにいるアメリカのCIA将校たちは、
B-52によるハノイへの攻撃以外には北ベトナムを止めることはできないと分析していました。
北ベトナム政府は、偉大なる革命指導者のホー・チ・ミンの誕生日である5月19日までに
サイゴンを陥すという目標を立て、この作戦名を
「ホー・チ・ミン作戦」
と名付けて、ドゥン将軍に、
「サイゴンの中心部に至るまで、絶え間ない攻撃を行うように」
と指示していました。
一方南ベトナムはというと、国内から突き上げを受けたアメリカ政府が
ベトナムへの再軍事支援を渋ったため、ほぼ孤立無援状態に陥ることになります。
4月20日
南ベトナムのARVIN第18師団の最後の抵抗によってサイゴンは11日間守られましたが、
4月20日、ついに北の侵攻に屈し、撤退を余儀なくされました。
ティエウ大統領はテレビで辞任を表明し、
南を助けなかったアメリカを批難しました。
こんな日もありました
このような事態が発生した場合には援助を行うと大統領が約束していたにもかかわらず、
アメリカは何もしてくれなかったではないか、というわけです。
サイゴンを共産主義者の支配から救うと約束してくれたニクソン大統領は辞任し、
後任のフォード大統領は約束を引き継ぐ気はなかったので仕方ありません。
ティエウは、アメリカが
南ベトナムにパリ和平協定への加盟を強要したこと
その後南ベトナムを支援しなかったこと
南ベトナムに「海を石で埋め尽くすような不可能なことを強要した」こと
を恨みがましく?責め、涙を流しながら会見を行いました。
■ サイゴン市民の不安
北の侵攻が迫ったサイゴンでは、人々が共産主義者に都市を支配された後、
報復のための血祭りが行われる恐怖に人々は震え上がりました。
ベトナム戦争初期の頃、PAVNとベトコンが1ヶ月ほど占領していたフエでは、
彼らが撃退された後、大量の墓が発見されており、また、行方不明になったアメリカ人が
斬首などによって処刑されたという噂がフエやダナンから伝わっていたからです。
しかしその噂のほとんどは政府のプロパガンダによるものでした。
とはいえ、サイゴン住民やアメリカ人は、都市が陥落する前に退避したいと考え、
3月末には早くも一部のアメリカ人が自発的にサイゴンを離れていました。
アメリカ国民は、避難所に行けば簡単に出国が保証されていましたが、
南ベトナム人の脱出は混乱を極めました。
パスポートや出国ビザを取得するための裏金は6倍に跳ね上がり、船の値段は3倍、
逆に不動産の価値はほとんどゼロにまで下がりました。
この時期、ベトナムを脱出し、アメリカで難民認定された南ベトナム人は
その多くが南ベトナム政府と軍の元メンバーとその家族だったといわれます。
サイゴン発の航空便は全便満席で離陸しました。
4月に入ると国防総省が不要不急の関係者を輸送し始めましたが、彼らの多くは、
ベトナム人の友人や扶養家族(内縁の妻や子供を含む)を置いていくことを拒否しました。
これらの人々をアメリカに入国させることは違法だったのですが、
そのために出国計画が進まなくなってしまったので、苦肉の策として
国防総省はそれらのベトナム人をフィリピンのクラーク空軍基地に運びました。
もちろんこれは非常時ということで違法に行われました。
■ 米政権の最終避難計画
実のところ、フォード政権のアメリカ撤退計画は、現実的、法的、
そして戦略的な問題によって複雑になっていました。
避難の方法論についてフォード政権内でも意見が分かれていたのです。
国防総省は、死傷者や事故のリスクを避けるために、迅速な避難を主張し、
避難を管轄とする国務省は完全に混乱を防ぎ、南ベトナム人がアメリカ人に反旗を翻す、
などという現実的な可能性を含め、流血を防ぐために時間をかけると言う考えでした。
最終的にフォードが承認したのは、
「1,250人のアメリカ人以外は迅速に避難させる」
「残りの1,250人は空港が脅かされたときにのみ退避させる」
「その間にできるだけ多くのベトナム人難民を空輸する」
というものでした。
■ 避難
1975年4月、ジェラルド・フォード大統領は、約2,000人の孤児を国外に避難させる
「ベビーリフト作戦」Operation Babylift
を発表しましたが、作戦に参加していたロッキードC-5Aギャラクシーが、
墜落すると言う悲劇が起こりました。
FSX Air Disasters: 1975 Tân Sơn Nhứt C 5 accident
1975年4月4日の午後、作戦初飛行となるC-5Aはタンソンヌット航空基地を出発し、
フィリピンのクラーク航空基地に向かいました。
この第一陣の孤児たちはチャーター便に乗り換え、カリフォルニア州サンディエゴで
フォード大統領の歓迎を受ける予定になっていました。
しかし、離陸した機体が上昇中、後部貨物ランプのロックが外れて貨物ドアが開き、
その結果機内に減圧が起こり、爆発によって尾翼へのコントロールケーブルが切断され、
油圧システムが故障してフライトコントロールのほとんどが不可能になってしまいました。
機長のデニス・トレイナー大尉と副操縦士のティルフォード・ハープ大尉は、
機体のコントロールを回復し、飛行場に戻ることを決定。
そして滑走路へのアプローチ中に急に出力の戻ったエンジンに翻弄され、
水田を400メートル滑走したあと、堤防に衝突したのでした。
四つにバラバラになった機体は燃料に火がつき、残骸の一部は燃え上がりました。
多くの生存者は二階にいた人たちで、下のキャビンの人はほとんど死亡しました。
乗客314名のうち、死者は孤児78名、国防総省職員35名、米空軍11名、生存者は176名でした。
この事故では墜落死者の中に5人の女性DIA職員が含まれており、2001年、
911事件が起こるまで、これが国防情報局の歴史の中で「唯一最大の人命損失」でした。
■ フリークエント・ウィンド作戦
4月29日早朝、北ベトナム軍がサイゴンのタンソンニュット基地を砲撃し、
国防長官室を警備していた米海兵隊員2名が死亡しました。
チャールズ・マクマホン伍長(左)とダーウィン・ジャッジ伍長は、
ベトナム戦争で戦死した約5万8千人の米軍兵士のうち最後の二人となりました。
この都市の占領に先立って行われた避難がフリークエント・ウィンド作戦です。
当ブログではかつて、
「4月のホワイトクリスマス」
と言うタイトルでサイゴンからの脱出と、それから海軍の救出作戦について触れましたが、
これによって、サイゴンにいたほとんどすべてのアメリカ人の民間人と軍人、
そしてベトナム共和国に関係していた何万人もの南ベトナムの民間人が避難しました。
一方アメリカ人の中には、避難しないことを選んだ人も少なからずいました。
フリークェント・ウィンド作戦はヘリコプターによる史上最大の脱出作戦となりました。
その理由は、海兵隊の二人が亡くなったときの爆撃で滑走路に破片が散乱し、
固定翼機が使用不可能となってしまったからです。
そして4月29日午前10時51分、米軍関係者や危険な状態にあるベトナム人を
ヘリコプターで避難させる作戦が開始されました。
アメリカのラジオ局は米軍関係者に直ちに避難地点に移動せよという合図として、
アーヴィング・バーリンの「ホワイト・クリスマス」を繰り返し流しました。
主な避難場所からバスが市内を移動して乗客を空港まで運び、
午後には最初のCH-53がDAO施設に着陸し、夕方までに
395人のアメリカ人と4,000人以上のベトナム人を避難させたのです。
23時には警備を担当していた米海兵隊が撤退し、DAO事務所やアメリカ人の備品、
ファイル、現金などを処分し終わっていました。
当初の避難計画では、ヘリコプターの運用は想定されていなかったのですが、
避難の過程で、大使館にはベトナム人を含む数千人の人々が取り残されており、
さらに多くのベトナム人が大使館の壁を乗り越えて難民認定を受けようとしていました。
折り悪しく雷雨のため、ヘリコプターの運用は困難を極めましたが、それにもかかわらず、
大使館からの避難は夕方から夜にかけてほぼ途切れることなく続けられました。
4月30日の朝3時45分、キッシンジャーとフォードは、アメリカ人の避難完了を
発表したいと言う意向から、
「今後はアメリカ人だけを脱出させよ」
とグラハム・マーティン大使に命じました。
マーティン大使
大使は北ベトナム軍が入ってきたら血の海になることを予想していたため、
ベトナムの政府関係者、軍関係者、サポートスタッフも脱出させることを主張しました。
政府は、もしマーティン大使が退避を拒否したら、海兵隊は彼の安全を確保するために
逮捕してでも運び出すようにと命令を出していたといわれます。
大使館からはアメリカ人978人とベトナム人約1100人が脱出しました。
警備と人選を行なっていた海兵隊も夜明けに乗機し、
最後の航空機が07:53に出発したとき、大使館の敷地内には
420人のベトナム人と韓国人が取り残され、壁の外にも多くの人が集まっていました。
■ ギア・ロン通り22番地
かつてのサイゴン市22 Gia Long Street(現ホーチミン市22 Lý Tự Trọng Street)
に、このアパートはまだそのままの形で残されています。
1975年、UPIのフォトジャーナリスト、ヒューバート・ヴァン・エスは、
ベトナム戦争最後の大きな戦いである「サイゴン陥落」の際に、
米国政府職員がヘリコプターで避難する様子を象徴的な写真に収めました。
北ベトナム軍がサイゴンに進入した際、アメリカ政府の職員を避難させるために
エア・アメリカのヒューイヘリコプターがエレベーターシャフトの屋根に着陸しているところです。
終戦後、ギア・ロン通りは、フランスに処刑された17歳の共産主義者に敬意を表して、
Lý Tự Trọng通りと改称されました。
アパートは一般公開されており、見学者はエレベーターで9階の屋上に出ることができます。
■ 降伏
4月30日の早朝、総攻撃を命じられたドゥン将軍率いる北ベトナム軍は、
正午頃、ブイ・ティン大佐が指揮するT-54/55戦車で独立宮殿の門を突破しました。
宮殿の階段に椅子を置いて座って待っていたミンと30人の上層部にティン大佐が近づくと、
ミンは
「革命はここにある。革命はここにあり、あなたはここにいる」
「我々は政府を引き渡すためにあなたを待っていた」
と述べました。
しかしティンは素っ気なく、
「あなたが権力を放棄することは問題ではない。
なぜならあなたの権力はすでに崩壊しているからだ」
と言い放ちました。
その日の午後、ミンは最後にラジオに出て、
「サイゴン政府はすべてのレベルで完全に解体されたことを宣言する」
と発表し、サイゴンは陥落したことを表明しました。
■ その後〜現在
サイゴンは「ホー・チ・ミン・シティ」と名前を変えられましたが、
実際にはこの名前は公務以外ではあまり使われず、現在でもサイゴンと呼ばれています。
サイゴン入城直後、アメリカ大使館は他の多くの企業とともに略奪され、
外界とサイゴンとの通信は遮断されたままになっていました。
共産党政府は、戦時中に流入して増えたサイゴンの人口を減らすために、
南ベトナム軍の元兵士を対象とした「再教育クラス」においても、
都市部から離れて農業に従事する必要があると説かれましたし、
サイゴンを出て田舎に行くことを条件に米を配給したりしました。
目標は、2年以内に100万人がサイゴンを離れ、さらに50万人が離脱することです。
もちろん、北ベトナム側の南ベトナム人に対する「報復」は予想どおり行われ、
終戦後、推計によると、20万人から30万人の南ベトナム人が再教育キャンプに送られ、
多くの人が拷問、飢餓、病気に耐えながら重労働を強いられていたとされます。
そして、彼らはアメリカ大使館が残したCIAの情報提供者のリストを使って、
約3万人の南ベトナム人を組織的に殺害したとする情報もあります。
現在、4月30日はベトナムでは解放記念日(Ngày Giải Phóng)として祝日となっています。
しかし、海外のベトナム人の間では、4月30日の週は
「ブラック・エイプリル」と呼ばれ、
サイゴンの陥落や南ベトナム全体の陥落を嘆く時期とされているそうです。
ちなみに4月30日はわたしの誕生日ですが、
ベトナム人とは誕生日の話はしない方がいいかもしれません。
続く。