今日は、ベテランズ・メモリアルセンターの戦死者の名前が刻まれた
「壁」の前に置かれた様々な品の中から、当博物館に展示されていたものをご紹介します。
1982年11月にベトナム退役軍人記念館(ザ・ウォール)が献堂されて以来、
40万点以上の品々が訪問者からの追憶や賛辞として残されてきました。
国立公園局は、ベトナム退役軍人記念基金による学芸員のサポートのもと、
これらの品々をベトナム退役軍人記念館のコレクションの一部として収集し、
目録を作成し、保存しています。
これらは、長年にわたって壁に残された品々のごく一部の学芸員による記録ですが、
壁に残された品々のコレクションとしては、これまでに公開された中で最大のものです。
冒頭写真は解説の写真を撮るのを忘れたのですが、おそらく
戦死した兵士(場所的に後述のデトマー1等兵の可能性高し)
のポケットに入っていたものかもしれません。
それにしても、トランプが二枚でそれがスペードのAとJなのはなぜなのでしょうか。
■ 兄さんのグローブとボール
マテル少尉
革製の野球ボール、そしてウィルソン・ブランドの革製野球グローブ
(デル・エニス・プロフェッショナル・モデル)は、ベトナムで戦死した
ロナルド・ジェームズ・マテル米陸軍少尉(1LT)Ronald James Matel
の遺品です。
グローブとボールの下には、マテル少尉の弟であるデビッド・J・マテルが
自分の名刺に記した手書きのメモが展示されています。
デイビッドがこのメモを記したのは1993年になってからのことです。
ロン・マテル宛 7-6-93
誕生日おめでとう!
1969年6月9日から僕の人生は本当に変わってしまった。
兄さんにこの野球のボールを投げたかった。
69年6月9日以来、毎日のように兄さんのことを考えていたよ。
兄さんは信じられないかもしれないが、ぼくには大きな3人の男の子と
小さな女の子がいて、あなたの代わりに、今ではぼくとキャッチボールをしています。
ぼくはとても素敵な女性と結婚し、基本的に幸せな生活を送っている。
もし兄さんが生きていたら、ぼくは(一緒に野球をすることができたので)
もっとスポーツマンになっていたと思う。
お父さんと息子のジョー、ジョン、ジョシュとは、
一緒に年に一度は狩りや釣りに行っています。
妻はウィスコンシン州のラクロス近郊の出身です。
4番目の子供のジェシカは韓国生まれで、マテル家で養女に迎えました。
ぼくの仕事はリハビリテーション・カウンセラーで、
妻は中学校の教師兼管理係をしています。
そして子供たちは皆イケメンぞろいでなかなか出来がいいんだ。
あれから歳をとって何人かの親戚がそちらにいったのは兄さんも知ってるよね。
ぼくも42歳を過ぎた今、人生は変わりつつあると感じている。
93年7月10日、もし生きていれば兄さんは45歳になっていたね。
ぼくは少し声を大にして、ベトナムのような地域に関与しないように、
国にそういうことを伝えようとしていますが、耳を傾ける人は少なく、
したがって、これからもぼくのように兄弟を失う人は後を断たないでしょう。
お父さんもお母さんもまだ存命です。
お母さんはあなたの死を乗り越えられませんでしたが。
そしてお父さんは最近あまり具合がよくありません。
とにかくぼくには最も素晴らしい家族がいます 。
兄さんが生きていたら本当にどんなに良かったかと思う。
兄さんの古い友人の何人かとはいまだに付き合いがあるよ。
マーク、ジョージ、ディックとかね。
兄さん、あなたがいなくて寂しいです。
天国で誰かとキャッチボールしてください。
ぼくはあなたのために祈る。あなたもぼくのために祈ってください。
戦死者の名前が刻まれたメモリアルの「壁」の前には、遺族が訪れ、
花だけでなく戦死者のゆかりの品などを捧げます。
野球のボールやグラブのほか、幼児の時に愛用していたおもちゃなどもあります。
■ ベトコン兵士の結婚指輪
ベトナムに出征した海兵隊員がフエのフー・ロックでの戦闘において、
戦死した18歳のベトコン戦士の指輪を持ち帰りました。
これもまた「壁」に献納された品の一つで、寄贈したのは
フレデリック・ガーテン(Frederic Garten)米国海兵隊一等兵(PFC)。
ガーテンはその後も海兵隊で軍曹にまでなったようで、メモには
SGTと書かれています。
元戦友で壁に名前の刻まれたジェームズ・アレン・ウォールに捧げると言う形で、
ガーテンは、直接ウォールとは関係のなさそうなこの指輪を置きました。
3インチ×5インチの白いインデックスカードに書かれた手書きのメモに、
素朴な金色の男性用結婚指輪が貼り付けられており、名刺が添えられています。
この名刺は、提供者であるフレッド・ガーテン氏のもので、彼の肩書は
「西バージニア州/雇用保障局の障害者支援プログラム・スペシャリスト」
であることがわかります。
ウォール1等兵
裏面には「James A Wall」という名前に下線が引かれています。
ウォール1等兵は1968年、20歳でベトナムのThua Thienで戦死しました。
メモに書かれている言葉を翻訳しておきましょう。
「この結婚指輪は若いベトコンの戦闘員が持っていたものです。
彼は1968年5月に南ベトナムのフーロック州で海兵隊との戦闘で戦死しました。
わたしはこの青年のことをもっと知りたかったと思う。
18年間この指輪を所持していたが、そろそろそれを捨てる時が来たようです。
この青年はもうわたしの敵ではありません」
そして、アメリカ海兵隊とベトナムベテラン、
ガーテン軍曹(Segt)はこの指輪にメモをつけて壁に残したのです。
この金色の男性用ジュエリーリングは、手作りされたものらしく、
リングの一部に小さな隙間があり、いかにも素朴なものです。
ガーテン氏が、なぜウォール1等兵と縁もゆかりもないベトコン兵士の遺品を
壁の前に残したのかはわかりません。
そもそも、彼がどのような経緯で指輪を手に入れたのかとか、
どうしてベトコン兵士の年を知っていたのかなどということも、
全く語られていないので想像するしかありませんが、彼は
おそらく、海兵隊との戦闘で死亡した子供のような兵士に目を止め、
何かに突き動かされるように遺体の身分証明書を確かめたのではないでしょうか。
そして、その彼が左手の薬指にはめていた指輪をふと外して、
それを軍服のポケットに入れて持って帰ってきたのでしょう。
彼の中では、そのときすでにベトコンの若い兵士は
敵ではなくなっていたのに違いありません。
■結ばれなかった「永遠の恋人たち」
米国陸軍軍曹(SGT)バリー・ラルフ・バウシュ(Barry Ralph Bausch)
に捧げられたもので、フラビア・ロマンティック製のグリーティングカード、
そしてダイヤモンドとブルートパーズがはめ込まれた10金の男性用ジュエリーリング、
リングを入れる「エコリン・ジュエラー」のフェイクレザー製巾着ポーチです。バウシュ軍曹
私の親愛なるバリー 2000年7月15日
あなたがわたしから奪われてから31年以上が経ちましたが、
あなたはわたしの心の中に残っています。
わたしの真実の愛は変わりません。
今日、ワシントンD.C.のメモリアル・ウォールを訪れるにあたり、
初めて会った夏、18歳の誕生日に贈った指輪をあなたに託します。
今でもあなたを愛しています。
わたしは結婚して、3人の美しい子供(あなたの妹にちなんで
ローラ、ブレイク、レイナと名付けました)がいますが、
わたしたちが持つことのできなかった家族のことを考えます。
主がわたしを天なる家に連れて行ってくださるとき、
わたしはあなたに再会し、多くの思い出を共有できることでしょう。
わたしはあなたを愛しています 。
永遠にあなたのもの エレン XOXOXOXO
この品は、2000年7月15日に「エレン」と名乗る寄贈者によって、
「壁」のパネル25Wに残されていました。
戦争は、永遠を誓った恋人たちをも引き裂きました。
遺された恋人は皆彼女なり彼なりの人生を生きてゆきました。
しかし、他の人と結ばれることがあってもこの「エレン」のように、
結婚して子供に恵まれながら、心の片隅で亡くなった人を思い続ける人もいます。
そんな女性によって「壁」に捧げられたアイテムの中には、
戦死した恋人と付き合っていた頃の自分の写真というようなものもあります。
ある若い女性の写真には、こんなメッセージが記されています。
"Tony, Here's how Toni looked on graduation day. Not bad, huh? Love, Lorrie"
「トニー、あなたが卒業式のときに見たわたし、どうかしら?
なかなか悪くないでしょ? 愛を込めて ローリー」
■ 亡き息子が生まれて初めて着たセーター
わたしの素晴らしい息子
今日、わたしはあなたの名前を「壁」に見にやってきました。
今まで準備ができていませんでしたが、
死ぬ前に見ておかなければならないと思ったのです。
毎日あなたのことを思いだしています。
あなたを失ってから毎日あなたのことを考えない日はありません.
あなたには多くの人生があったのに、あっという間に命を奪われてしまいました。
あなたのテディベアを持っていきたかったのですが、
どうしても手放すことができず、代わりに最初に着たセーターを持ってきました。
あなたはいつもわたしの心の中にいます。
愛しています。
また会える日まで、あなたに神の御加護がありますように
愛を込めて ママより
アメリカ海兵隊の一等兵(PFC)ドナルド・ゲイリー・デトマー
( Donald Gary Detmar)
に捧げられた母からの遺品です。
デトマー1等兵は1967年、21歳の誕生日の少し前に戦死しました。
手編みらしいベビー用のセーターは、おそらく多くの母親が
ひとつかふたつくらいはどうしても処分できずにクローゼットの隅に仕舞ってある、
彼女が母となったときに想いを込めて我が子に与えた衣類のひとつだったのでしょう。
何を隠そう、わたしのクローゼットにも、イニシャルの入った小さな手袋、
最初のハロウィンで着た着ぐるみ、初めての孫のために祖母が編んだ毛糸のおくるみ。
そういった「どうしても捨てられない思い出の品」があります。
デトマー1等兵の母親の息子への手紙と、
「テディベアをどうしても手放せなかった」
という言葉に心を揺り動かされない母親は果たしているでしょうか。
続く。