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ベトナム・シンドロームとPTSD〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

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■ ベトナム・シンドローム

ベトナム・シンドローム(Vietnam Syndrome)という言葉をご存知でしょうか。

ベトナム戦争は1975年に終結しましたが、戦後も国民の間に根強く残った
アメリカのベトナムへの軍事的関与に対する国民の嫌悪感をあらわす政治用語です。

彼らの嫌悪とは、

守ると公言していた土地と人々に壊滅的な影響を与えた

終戦を20年も長引かせ、何百万人もの人命を奪った

ハイテク戦争によってベトナム南部の景観を永久に傷つけ、
マサチューセッツ州とほぼ同じ大きさの地域を消滅させ、
推定2100万個のクレーターを残した

南ベトナムの人口の約3分の1が難民となった

自分たちが責任を負うべき国家の、経済的・社会的基盤を破壊した

ほとんどのアメリカ人が道徳的ではありえなかった

等々。

 

戦後もベトナム戦争をめぐってアメリカでは国内論争が絶えず、
それはアメリカの外交政策に大いに影響を与えました。

振り子の針が振れるように、1980年代初頭以降、世論は明らかに戦争反対に偏り、
その結果、アメリカの外交政策は極端に他国への介入度が低くなっていきます。

ベトナム・シンドロームは、「もう一つのベトナム」を恐れ、
軍事的関与のリスクを避けようとする政治、軍事、民間の組織を生み出しました。

この症候群は、リチャード・ニクソン大統領の時代からビル・クリントン大統領の時代まで、
アメリカの外交・軍事政策にその『症状』を見ることができます。

地上軍の派遣や徴兵制の運用に極端消極的なこれらの傾向は、

「ベトナム麻痺(パラライズ)」と呼ばれることもありました。

 

■ ベトナムでの「失敗」

なぜアメリカは北ベトナム軍を倒せなかったのか。

米軍関係者を中心とした保守派の思想家たちはこう言いました。

「アメリカには十分な資源があるのに、国内での戦争努力が足りなかった」

経済的、技術的、軍事的能力という粗暴な言葉で測るならば、
アメリカは依然として世界で最も強力な国であるが、
この問題は、結局、意志の問題に帰結するのだ、と。

しかし、

「ベトナム・シンドローム」

という言葉が、マスコミや政策関係者の間で広まり出すと、

アメリカは2度と戦争に勝てないのではないか。

アメリカは衰退への道をたどっているのではないか。

こんな意見がその言葉に内包されて国民に侵食していきました。

国民の戦争努力がたりなかったせいで負けた。負けたというか勝てなかった。

ロナルド・レーガンをはじめとする多くの保守派がこの意見に賛同しました。
レーガンの1980年の大統領選挙は、アメリカ人がこのシンドロームに苦しんでいる、
という考えを選挙戦を通じて世に広める結果になったといえましょう。

レーガンは

「もしアメリカが自分をリーダーとして、より自信に満ちた姿勢で臨めば、
ベトナム・シンドロームは必ず克服できる」

と主張して選挙戦を行いました。

レーガンは、アメリカ国民が敵のプロパガンダにまんまと乗せられて
戦争に反対したことや、それだけでなく、ニクソンやジョンソン政権の高官が

「彼らに戦争に勝たせることを恐れていた」

ことなどが兵士たちを失望させたことが敗因だった、つまり、
自分だったら北ベトナムには勝てていた、と示唆したのです。

そして、戦後のアメリカ国民が軍隊の道徳性に罪悪感を持つことや、
疑念を持つことは間違っている、なぜなら彼らは崇高な目的のために戦ったからだ、
と主張しました。

「世界平和は我々の最優先事項でなければならない。
国民が戦死しなくても済むように平和を守ることは、国家運営の第一の課題だ。
しかし、それは屈辱的で漸進的な降伏によってもたらされる平和であってはならない」

そして、

「アメリカが失敗したのは、敗北したからではなく、
軍が "勝利する許可を得られなかった "からだ」

とまるで禅問答の答えのようなことを述べています。

 

■ アメリカに勝ち目はあったのか

勝ち目のある戦争だったと主張する人たちは、「戦争をした人たち」から
「戦争に反対した人たち」に責任を転嫁しているといえるかもしれません。

つまり、無責任なメディアと反戦運動家が国民を戦争に反対させ、
ジョンソンやニクソンが勝利を手にした矢先に、
米国の関与を縮小せざるを得なくなったという主張です。


しかし、前にも書きましたが、メディアと抗議活動が声高に戦争反対を唱えても、
戦争は熱狂的ではないにしても、広く支持されていました。
国民の大多数は、戦争よりも声の大きな抗議者を不快だと感じていたという統計もあります。

つまり、敗戦の原因をメディアや反戦運動に求めるのは、あまりにも単純だというわけです。

 

 

この理屈を理解するためには、反戦=内なる敵がなかったらアメリカは勝てたのか?
という仮定について考えてみるとわかりやすいかもしれません。

実際にベトナムで行われた戦争はアメリカ人にとって非常に困難なものでした。
人を寄せ付けない気候と地形、鬱蒼としたジャングル、不気味な沼地や水田、険しい山々、

「人を殺し、脳を焼き、過労死するまで汗を絞る」

ほどの暑さ。

「まるで太陽と大地がベトコンと手を組んでいるかのように、
わたしたちを消耗させ、狂わせ、殺していく」

言うまでもなく、何世紀にもわたってこの土地を耐え抜いてきたベトナム兵士は、
文明社会から放り込まれたアメリカ人よりも明らかに戦闘に有利でした。

想像の限界を超える文化の違いも彼らに混乱をもたらしました。

ほとんどのアメリカ人には、ベトナム人の容貌は皆同じに見え、
敵味方の区別もつかないといった状況に加え、
村を焼かれても無表情で、助けようとしているのに他人事のようだったり、
丁寧にお辞儀をして、にこやかにアメリカ兵を地雷原に案内するベトナム人に、
アメリカ人たちは敵味方関係なく憎しみを抱くようになっていきます。

最も重要なことは、ベトナムにおけるゲリラ戦が、形のない、
しかし致命的なものであったということでしょう。

それは、

「朝のジャングルの霧の中に消えていき、思いがけない場所に現れる
形のない敵との終わりのない戦い」

だったのです。

アメリカは敵の強さと決意を大幅に過小評価していました。
すべてを危険にさらしてまで目的を達しようとする、
敵側の不屈の精神を、理解することが最後までできなかったのです。

そしてベトナム人が我々と同様に理性的であるならば、
世界最強の国家に立ち向かうことなどできないだろうと安易に考えていました。

(日本人を相手に戦ってメンタル的にはある程度学習したはずですが、
今回は当時の日本より、遥かに文明のギャップが大きいとみくびっていたようです)

北ベトナムやベトコンは、しっかりとした動員力と体制を持ち、
目標に対して狂信的にコミットしていただけでなく、地の利を生かし、
10年間の対仏戦争ですでに完成された方法を駆使して戦いました。

ベトコンは、南ベトナムの農村部の人々が実は持っていた
アメリカに対する不信感を大いに利用して彼ら味方につけ、
北ベトナム軍は、戦争を長引かせる戦略を巧みに採用しました。
ホー・チ・ミンはかつて、

「あなた方が我々の部下を10人殺すたびに、我々は
あなた方の部下をその度に確実にひとりずつ殺していく」

それを永遠に繰り返していけば、先に疲れるのはあなた方だ」

と豪語しました。
そして、中国やソ連など共産国家の支援もまた、アメリカを苦しめました。

 

 

「ベトナム・シンドローム」のような考えはこの戦争に始まったことではありません。

失敗の原因が他にあるのではなく、自分たちにあるという説明の方が、
人々にとって、あるいは受け入れやすいのかもしれません。

『ディアハンター』『地獄の黙示録』のような映画が、
その芸術的な価値がどうであれ、贖罪の形を推進し、
それがいつの間にか「正しい考え」となってきたのも事実です。

レーガンの「崇高な戦争」という発言は、突飛な考えと受け取られた一方、
同時に決して少なくない人々に響きましたが、これは驚くべきことではありません。

どんな残酷な戦争にも必ず尊い要素があり、英雄的行為、犠牲、
思いやりまで否定するべきではないと考える人も多いからです。

少なくとも、戦争を起こした国が何らかの形で共有している「罪悪感」を
退役軍人だけに負わせることは間違っていますし、レーガンの発言は
この点を少なくとも間接的に指摘していたと見られたのかもしれません。

 

数年後、レーガン大統領は「ベトナム・シンドローム」を軍事行動で葬ろうとしました。

グレナダ侵攻を成功させることによってシンドロームが解消され、
国民がこれ以上米国の軍事行動に対し嫌悪感を持たなくなることを期待したのです。

そして侵攻後、

「我々の弱さの時代は終わった。
我々の軍事力は立ち直り、堂々としている」

と力強く宣言しました。

しかし、この「シンドローム」は平癒したといえなかったため、
ブッシュ大統領もまた1990年から1991年にかけてのペルシャ湾岸危機を利用して、
ベトナム症候群を意図的に回復させようと試みました。

イラクとの戦争が迫る中、繰り返し宣言したのがこの言葉です。

「もう一つのベトナムにはならない」

 

事実、第一次湾岸戦争での迅速な勝利は、ベトナム症候群の終焉であると言われました。
ブッシュ大統領は戦後、

「ベトナムの亡霊はアラビア砂漠の砂の下に眠っている」

「アメリカがベトナム症候群を克服することができた」

と高らかに勝利宣言しました。

 

 

■PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)Vietnam Veterans with PTSD

 

キャスターの安藤優子氏がアメリカに留学したときのエッセイ、
「あの娘(こ)は英語が話せない」には、彼女のホームステイ先の近所に住んでいた
元ベトナム帰還兵にストーカーのような執着をされ怯えたことが書かれています。

帰還兵は、16歳の安藤氏をベトナム孤児だと思っていたようなのです。
わたしにとってこれが、ベトナム帰還兵のPTSDについて認識した最初の文章でした。

今では一般的な心理的症状を表す言葉のひとつですが、もともとは
個人レベルの「ベトナム・シンドローム」をあらわすものであり、
それが後に、

PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)

としてよく知られるようになりました。

 

政治レベルの「ベトナム・シンドローム」について前半語ってきましたが、
元々は個人的なシンドローム=後遺症のことだったのです。



後遺症という医学用語を持つ「ベトナム・シンドローム」は、1970年代末、
ヘンリー・キッシンジャーによって作られ、その後レーガンによって広められて、
純粋な政治的意味を持つようになったという経緯があります。

1980年、精神科の専門医は、戦時中のトラウマが深刻な道徳的、および
心理的苦痛を引き起こす可能性があることを公式に認めました。

 

個人レベルのベトナム症候群は、ベトナム帰還兵の20〜60%に見られた
PTSD(心的外傷後ストレス障害)となってあらわれました。

それには不安、怒り、落ち込み、依存症などの古典的なPTSD症状のすべてだけでなく、
戦闘に関連した思考の侵入、悪夢、フラッシュバックなども含まれます。

また、ベトナム症候群には罪悪感も大きく関わっています。
兵士たちは、自分が助かって仲間が生き延びられなかったことだけでなく、
ベトナム人、特に女性や子供が殺されたことへの罪悪感も感じていました。

戦闘地域での生活に対処するために退役軍人が取っていた「戦略」は、
市民生活に戻っても全く通用せず、機能不全の行動となって現れました。

ベトナムから帰還した多くの退役軍人は、普通の生活を送る努力を怠っていた、
この言い方が悪ければ、普通の生活に適応できなくなっていたのです。


皆さんは、ベトナム戦争中に死亡した人よりも、戦後に
精神的な問題で自殺したベトナム帰還兵の方が多かったのをご存知でしょうか。

自殺しなかったとしても、少なくとも100万人の退役軍人のうち4分の3は、
社会生活を普通に送ることができず、その結果ホームレスや失業者になりました。

教育を受けていない70万人近くの徴兵者は、名誉除隊もできませんでした。
退役軍人の多くは、家族を養うために新たな仕事に就くことも困難であり、
PTSDに精神を追い込まれるという例がアメリカ全土で起こりました。

映画やドキュメンタリー、テレビ番組には、帰還兵の困難を描いたものが数多くあります。
そういえば、「ランボー」もベトナム帰還兵でしたね。

クリント・イースドウッドの「グラン・トリノ」で監督自らが演じた、
モン族の少年少女を守って最後は銃弾に倒れる老人もでそうです。

モン族は、アメリカがベトナム戦争に敗れると、見捨てられ行き場を失い、
ベトナム軍、ラオスの共産勢力などに女、子供も含めて虐殺された部族であり、
アメリカに移民することができたのは一部の幸運な人々だけでした。

劇中、イーストウッド演じるコワルスキーが”身を呈して”彼らを守るというのは
アメリカの償いの形を象徴していると思われます。

 

ベトナム戦争によるPTSDの発症やその他の問題を解明するため、
1983年に米国議会の要請を受けて、米国政府は調査機関を立ち上げました。

その調査によると、

男性の約15%、女性の約9%(1980年の調査時点)がPTSD発症

男性の約30%、女性の約27%が、ベトナム帰還後の人生のある時点でPTSDに罹患

というもので、多くの退役軍人にとってPTSDが慢性化しており、
特に高レベルの戦闘暴露を経験した人にその傾向は顕著でした。

PTSD患者は、結婚生活、性生活、生活全般に対する満足度が低く、
また、子育ての困難さ、離婚率の高さ、幸福感の低さ、疲労感や痛み、
慢性的な風邪などの身体的な不調の多さを感じています。

依存でいえば喫煙率が高く、アルコールや薬物依存は患者の3分の1を占め、
それらが引き起こすうつ病、心臓病、糖尿病の発症率が高いという報告もあります。
 

何百年もの間、戦闘ストレスを原因とする心的、肉体的症状は、
異なった戦争が起こるたびに異なった名称で表現されてきました。

そして初めて「PTSD」という病名で初めて呼ばれたのがベトナム退役軍人です。

戦後50年が経過したにもかかわらず、一部のベトナム退役軍人にとって
PTSDは日常生活の慢性的な現実となり、いまだに彼らを苦しめているのです。

 

続く。

 

 


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