フライング・レザーネック航空博物館の展示ですが、
HPで紹介されているのに現地になかったり、逆にHPにはあるのに
撮ってきた写真のどこにも機体が見当たらない、という例がいくつかありました。
修理中だったのか、それとも別の博物館に移転していたのか
今となってはわかりませんが、今日ご紹介する機体は、
HPにその名前があって、展示機もその名前であるのは確かなのに、
実物はどう見てもHPのものとは違う、という特殊な例です。
■ ベル UH-1N
冒頭写真はわたしが撮ってきた写真ですが、HPに載っていたのはこれ。
どちらもUH-1N ヒューイに見えますが、
そもそも色が違う。大きさが違うし窓の数も違う。
しかし、とりあえずこちらを先に説明しておきます。
【ベル UH-1 イロコイス(愛称:ヒューイ)】
単一のターボシャフトエンジンを搭載し、
2枚羽根のメインローターとテールローターを備えた
軍用ユーティリティヘリコプターです。
1952年にアメリカ陸軍が、医療搬送と実用性を兼ね備えたヘリコプターを
ベル・ヘリコプター社に要求し、1956年に初飛行しました。
UH-1は米軍初のタービン式ヘリコプターであり、
1960年以降16,000機以上が製造されています。
イロコイは当初HU-1だったことで1をiと読み「ヒューイ」と呼ばれていましたが、
1962年に正式にUH-1に再指定されたにもかかわらず、
ヒューイの愛称はそのまま変わらずに親しまれてきました。
UH-1はベトナム戦争で初めて実戦投入され、約7,000機が配備されました。
【ベトナム戦争とヒューイ】
1962年、海兵隊は、セスナO-1固定翼機とカマンOH-43Dヘリコプターに代わる
突撃支援ヘリコプターの選定コンペを行いました。
優勝したのは、すでに陸軍で運用されていたUH-1Bです。
このシングルエンジンのヘリコプターはUH-1Eと名付けられ、
海兵隊の要求に合わせて改良されました。
主な変更点は、海上使用に備えて耐腐食性に優れたオールアルミ製の採用、
海兵隊の地上周波数に対応した無線機、
停止時にローターを素早く停止させるための艦上用ローターブレーキ、
そして屋根に取り付けられたレスキューホイストなどです。
UH-1イロコイ(またはヒューイ)ヘリコプターは、
ベトナム戦争のイメージそのもの、と言っても過言ではないでしょう。
そのイメージのほとんどは、ヒューイの全艦隊が任務地に向かって、
または任務地から飛びたつ姿です。
ガンシップは固定翼機の支援を補うために使われ、
着陸地点の調査や周辺の敵軍の排除を行います。
そしてその後、輸送機が兵員を運びこむのです。
地上での戦いでは、これらのヘリコプターが残って地上支援を行ったり、
負傷者を救出したりしました。
時にはジェット機の接近戦を支援することもありました。
まさにアメリカ軍の主力機であり、あらゆる戦略に対応できたのです。
UH-1は、第二次世界大戦以来、最も多く生産された航空機となりました。
UH-1Nは、ベル205の胴体を伸ばした機体をベースに開発されました。
もともとは1968年にカナダ軍(CF)向けに開発されたもので、
CUH-1Nツインヒューイという名称でした。
しかし、カナダの下院軍事委員会の委員長が、米軍用機の購入に反対して、
この計画はポシャってしまいました。
委員長が反対した理由は、プラット&ホイットニー・カナダPT6Tエンジンが
そのときカナダで生産されていたからでした。
しかも当時のカナダ政府は、アメリカのベトナム参戦を支持しておらず、
それどころか、アメリカの徴兵逃れをした人を受け入れていたのです。
そこで米国議会は、アメリカ軍の購入を承認したというわけです。
UH-1Nの海兵隊への納入は1971年に始まり、それから43年間
活躍したUH-1Nイロコイは、2014年9月になってようやく退役しました。
海兵隊ライト・アタック・ヘリコプター飛行隊773は、
これを運用した最後の海兵隊で、最後の派遣を2013年まで行なっていました。
その後UH-1NはアップグレードされたUH-1Yヴェノムに置き換えられます。
海兵隊によるUH-1Nの最後の戦闘配備は2010年のアフガニスタンでした。
FLAMのUH-1N(BuNo.159198)は、1974年アメリカ海兵隊に受け入れられ、バージニア州MCAFクアンティコのHMX-1に
「兵器システム評価機」として派遣され、その後は
新しいヒューイのパイロットとクルーの訓練に使われていました。
2010年4月26日に退役して、その時からここに展示されていたようです。
(ただしこのときには戸外にはでていませんでした)
さて。
それではこちらのヒューイ的なヘリコプターです。
「HAHAHAHAHAHAHA」
というアテレコをしたくなる顔の表情ですが、
これ、さっきのと顔が違いますよね。
現地展示機の方が口角上がってるし。
それでは、運良く現地の説明を忘れずに撮ってくることができたので、
それを翻訳しておきましょう。
【ベル214ST(スーパートランスポーター)】
ベル214STは、ベル・ヘリコプターのVH-Aヒューイシリーズから派生した
ミディアムリフトのツインエンジンヘリコプターです。
なんだ、同じヒューイの仲間だけど、全く別のヘリだったのね。
ベル214というのはUH−1ヒューイのエンジン強化型で、
「ヒューイプラス」と呼ばれていましたが、この214STは
されにそのエンジンを双発にし、大型にした、いうならば
「特大型ヒューイプラス」というべき機体です。
もちろん、そう呼ばれていたわけではありませんので念のため。
STはスーパートランスポーターのことですが、
元々は「Stretched Twin」から来ていたそうです。
さすがにストレッチツインは意味がわかりません。
「ストレッチする双子」・・・?
214と214 STは同じ番号でありながら全く外観が違います。
わたしには「全く違う」と言われても、そんなもんですかという感じですが、
言われてみれば、確かにローターの付いているところが違うかな。
そもそも「ヒューイプラス」なるヘリの存在は聞いたこともないのですが、
それはなぜだと思います?
214STは、もともとベル214B「ビッグリフター」をもとにした
軍事プロジェクトとして開発され、
イランでの生産を行うためにイラン政府によって資金提供を受けているのです。
【イラク革命とヘリの製造】
なるほど!
それで初めてこのペイントがイラン国籍機を意味するのだとわかったわたしです。ピンクがかった機体の色も、砂漠での運用に合わせた仕様だったんですね。
尾翼にも思いっきり国旗ペイント。
ちょっとデザイン的にここに国旗をあしらうのはどうかなと思いますが。
214STの暫定的なプロトタイプは1977年2月、テキサスで最初に飛行しました。
しかし、「1979年、シャーが転覆します」
シャー?ガンダムかな?
というベタなボケは無視していただくとして、
シャー(shāh شاه)は、「王」を意味するペルシア語、または王、
それもイラン系の王の称号のことです。
それくらいは一般常識として知っていましたが、
「転覆=withdraw」の意味がわからず、わたしはここではたと困りました。
もしかしたらわたしだけかもしれませんが、総じて日本人って、
中東とかアラブとかの歴史や出来事があまり理解できていないってことないですか?
というわけで「シャーの失脚」と言われても全くピンとこない上に、
検索すると子猫が「シャー!」とやっている画像が出てきたりするもんですから、
ついそちらに時間をとられてしまいながらもなんとかわかったところによると。
1979年2月11日、この日は「中東を変えた歴史的な出来事」または
「アメリカとイランの敵対の歴史が始まった日」
つまり、「イラン革命の日」だったのです。
かつてのイランは今とは違い、シャーが支配する王政の国でした。
「最後のシャー」となったパフラヴィー2世は親米でしたが、
これに国内の民族主義勢力が反発します。
1951年、民族主義者のモサデグ氏が首相に就任し、石油の国有化を宣言しますが、当然のことながらアメリカはこれに烈火の如く怒り心頭。
ありがちなことですがCIAなどの工作によって、クーデタを起こさせて
首相を失脚させ、親米のパフラヴィー2世に再び実権を戻してしまいます。
つまりアメリカはイランを中東における“反共の砦”にし、石油資本をメジャーに握らせることに一旦は成功したというわけです。
このアメリカとの蜜月期間、パフラヴィー2世は、豊富な石油マネーをもとに
軍備拡張やさらなる近代化を進めますが、その弊害で農村は疲弊。
インフレが発生し、国民の間では次第に経済的な不満が高まっていきます。
そして反政府デモの弾圧をきっかけに暴動が拡大し、1979年、パフラヴィー2世はついに国外に脱出、王政は崩壊しました。
この後パリに亡命していた宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国して反米路線を掲げる「イラン=イスラム共和国」が成立しました。
その後、パフラヴィー2世の受入をアメリカが認めたことを受けて、
アメリカに反発したホメイニ支持の学生たちがテヘランのアメリカ大使館を襲撃。
1年以上も大使館員とその家族52人を人質にとる事件、
アメリカ大使館人質事件が起きたのは、強烈な記憶にある人も多いでしょう。
その後のイラン=イラク戦争も、隣国イラクのサダム・フセインが
アメリカの支援の下、革命の混乱に乗じてイランに侵攻したのがきっかけです。
つまり、その後の世界におけるアメリカと中東の今日に至る齟齬は、
全てこの1979年の革命をきっかけに始まっているというわけです。
まあ、それまでの、大国と仲良くしてもらう代わりにオイルを搾取される関係を
そもそも平和な状態と呼べるのか、という説もありますがね。
ついつい、大東亜戦争に突入するまでの日本の追い詰められ方と、
この新米政権下のイラン国内の疲弊の構図を重ねてしまうわたしです。
【革命後の設計変更】
話を戻しましょう。
新米政権が倒れたので、ベル・エアクラフトは生産計画の変更を余儀なくされます。
イラン国内から生産を撤退し、ダラスのフォートワースの施設で
残りの214STを建造しました。
1981年から始まった製造に続き、1982年に納入が開始されました。
(どこに?って、それはイラン軍だったのではないかと思いますが)
その際、ベル214STにはスタンダードな214からの設計変更がありました。
より機体が大型化し、胴体が伸びて、10〜18人の乗員用の座席を備え、エンジンは
1.625shp(1.212kW)のゼネラルエレクトリックCT7-2Aを2基積んでいました。
このヘリコプターは、いくつかのground-breakingな、
つまり画期的なベル社の革新をもたらすものでした。
それは、「1時間の乾式トランスミッション」(残念ながら意味不明)
そしてファイバーグラス素材のローターブレード、
エラストマー樹脂(ゴムの種類)のローターヘッドベアリング、
スキッドかウィール型か選べるランディングギアなどの採用などであり、
コクピット用のドアと両側の大きなキャビンドアが独立していたことでした。
燃料上限は435ガロン(1646L)で、燃料は増槽が追加できます。
これからもわかるように、この機体はベルで製造された最大のヘリコプターでした。
ベルは最終的に100機の214STを製造しました。
軍用バージョンとして製造されたものは、イラク、
ブルネイ、ペルー、タイ、ベネズエラなどに配送されました。
1991年には生産を終了し、機体はベル230におきかえられていくことになります。
【FLAMのBell214ST】
この特別な214ST(シリアル番号28116)は、
1980年代にイラク政府によって購入され、「砂漠の嵐」のときには
イラク軍のヘリとして任務を行なっていました。
1991年2月27日の朝、海兵隊第1師団の部隊が
クェート国際空港に入り、掃討を開始した時です。
燃え尽きた航空機と破壊された建物の真っ只中に、
(他人事みたいな言い方ですが、そもそもこの破壊をしたのはアメリカだよね)
イラクのマーキングを施したほとんど真新しいベル214STがあったのです。
第一師団の海兵隊員たちは、すぐにこの歴史的機体の「鹵獲」を主張し、
アメリカに「送り返す」手配をしました。
ヘリコプターは、「砂漠の嵐」における海兵隊員の
卓越した支援に対する感謝の印として、
その後、ここMCASエルトロに拠点を置く
第3海兵師団(第3海兵航空団)に与えられました。
このベル214STは、捕獲されたとき750時間の飛行距離を記録していました。
現在の価格は250万ドル以上ということです。
続く。