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ムーンレースの終焉〜スミソニアン航空宇宙博物館

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当ブログでは、スミソニアン博物館の展示に沿って
アメリカとソ連の間の宇宙開発競争について書いてきました。

そしてその一隅に展示された月着陸スーツの横には、

「月競争の終焉・ MOON RACE ENDS」

というコーナーがあります。

その競争に終止符が打たれるイベントが何だったかというと、
これはもうアメリカの月着陸に他ならないわけです。

今日はその「競争の終焉」についてです。



1969年7月20日、世界中の何百万の人々がテレビで見守る中、
二人のアメリカ人が初めて別の世界に足を踏み入れました。

アメリカはついに月への着陸に成功し、宇宙飛行士たちは
無事に帰還するという快挙を成し遂げました。

これはこの少し前にケネディ大統領が打ち上げたビジョン、
1960年代に有人宇宙飛行を可能にするという目標の達成でした。

月面着陸は、壮大な技術力の結集とその成果、
人類の精神力の勝利として広く祝われることになります。

人類は、その生存中にライト兄弟の成し遂げた
地球上での最初の動力飛行から、月への最初の第一歩を記すという
大きな飛躍を遂げることができたのです。



ニューヨークタイムズのヘッドラインです。

「人類月を歩く」

宇宙飛行士が飛行船を着陸させ、
岩を採集、旗を立てる
大見出しはともかく、小見出しがイマイチな気がしますが、
とにかくこの3行で全てを言い切ろうとした結果かもしれません。



ライフ誌の表紙は月面上に残された足跡だけ。

ON THE MOON
Footprints and photographs
by Neil Armstrong and Edwin Aldrin
月面
ニール・アームストロングとエドウィン・オルドリンによる
足跡と写真

エドウィンというのはオルドリン飛行士の本名で、
皆がよく知っている「バズ」というのは自称&愛称です。

小さな時に彼の姉が彼のことを「brother」と言おうとして、
「バザー」になったことからBuzzが通り名となってしまいました。

最終的にオルドリンはこちらを法的な名前にしていますが、
月着陸の頃はまだ本名が採用されていたのです。

バズ・オルドリンについてはまた別の機会にお話しするかもしれません。


■ ネック・アンド・ネック(互角の戦い)

スミソニアンでは、アメリカとソ連の開発競争を、
Neck and Neckと表現しています。

これはレースやコンテストで結果が僅差であること、あるいは、
ほとんど互角の戦いを表現する時に使う熟語です。

アメリカとソ連の月への競走のペースは、1968年加速しました。
互いに月着陸の「一番乗り」を目指して奮闘努力したからです。

ここで、その進捗状況について年表がありますので挙げておきます。

1968年9月
ソ連の無人機ゾンド5号が月の周りを周回し、帰還

ゾンド5リクガメ・ショウジョウバエ・ミールワーム・植物・種子・細菌、
放射線検出器を取り付けた等身大の人形を搭載生物は全て生存

10月アメリカアポロ7号有人テスト飛行
コマンドおよびサービスモジュールの実験




笑ってるけど実は大変だったミッション。
原因は船長のウォルター・シラーが風邪をひいて鼻詰まりで
意見の違いで管制官とミッションの間中喧嘩をしていたこと。
また、全員が宇宙酔いで酷い目に遭っています。

ソ連、ゾンド6号の月周回飛行。
有人月接近飛行計画(ソユーズL1計画)に使用する
7K-L1宇宙船の3回目のリハーサル飛行として。

12月
ソ連、ゾンド6号の次に有人飛行を行う予定だったが、
安全性が確保されていないという理由で延期される。

アメリカ、アポロ8号で月周回のち帰還。
ラヴェル船長デザインによる徽章
左から:ジム・ラヴェル、ウィリアム・アンダース、フランク・ボーマン

ゾンド6号の次に有人飛行を見合わせたことで、
ソ連は初めてアメリカに先を越されることになります。

1969年
2月
ソ連、N-1(エーヌ・アヂーン)ムーンロケット
の打ち上げに失敗
N-1
アメリカが月へ人類を送ると宣言した後、ソ連は
セルゲイ・コロリョフの指導で月計画を提案しました。

N-1は有人月面探査のために開発されたロケットでしたが、
技術的にもそれを克服するための資金にも不足があり、
4回の試験打ち上げに失敗して計画は破棄されています。

3月
アメリカ、アポロ9号打ち上げ試験

初めての3機同時打ち上げとランデブー、ドッキングを表現


左から:ジェームズ・マクディビット、デイビッド・スコット、ラッセル・シュワイカート

初めてのアポロ司令・機械船と月着陸船同時打ち上げ。
史上2番目となる有人宇宙船同士のランデブーとドッキングに成功し、
月着陸船の安全性の証明と、アポロ計画の究極の目的である
月面着陸への準備が整いました。
5月 

アメリカ、アポロ10号で月着陸船のテスト飛行で
月の軌道から月面への低高度への降下を確かめる。


右側に着陸しようとする宇宙船を表現


左から:ユージン・サーナン、トーマス・スタフォード、ジョン・ヤング

この飛行で、アメリカはいよいよ月にリーチをかけました。
着陸船を月面に再接近させることに成功したのです。

ちなみに彼らの司令船の名前は「チャーリー・ブラウン」、
着陸船の名前は「スヌーピー」だったそうです。
当ブログの「トイレ事情」ログでお伝えしましたが、
「想像力の足りないNASAの理系野郎たちのせいで」
船内が汚物でパニック状態になったことでも有名なミッションですが、
まあそれはアメリカの場合このミッションに限ったことでもないので、
そちらエピソードは忘れて差し上げてください。


7月

ソ連、二度目のN-1ロケットの失敗。

ソ連、ルナ15号着陸船を打ち上げる。

ソ連はアメリカのアポロ11号に先駆けて月の石を回収し、
地球に送ることを目的とし、最後にこれをダメもとで打ち上げましたが、
プロトンロケットにより打ち上げられた探査機は月面に衝突しました。
アメリカ、アポロ11号の乗組員が月面着陸に成功。

ルナ15号が月面に墜落したわずか数時間後、
アポロ11号は世界初の有人月面着陸に成功しました。


■ いつムーンレースの勝敗が見えたか

ムーンレースの終わりが見えてきたのは、この表から見ても
アメリカのアポロ8号とアポロ10号の成功の頃ではないかと思われます。
1968年12月、アポロ8号の乗組員は、
スリルとサスペンスに満ちた最初の飛行で月の周りを周回しました。

ラヴェル、ボーマン、アンダースの3人の宇宙飛行士は、
日の出ならぬ「地球の出」(Earthrise)を
人類で最初に見たメンバーになりました。

5ヶ月後、アポロ10号の乗組員は月周回軌道から、
月への部分的なモジュールの降下をテストしました。

これらの任務は、アメリカが月面着陸に王手をかけ、
すでに準備が整っているという確信を築くことになりました。

その頃ソ連が何をしていたかということは大きな疑問です。
■ファイナル・ソビエト・ギャンビット


1968年12月に発行されたタイム誌の表紙のイラストは、
「月へのレース」として、激化する米ソのムーンレースを表現しています。

ソ連は、2回目のN-1ロケットの打ち上げに失敗した後、
今後ソ連がアメリカに先んじて月に人を送ることは不可能であろう、
とはっきり認識していたと思われます。

そして、せめて最初に月の石と土壌のサンプルを取ろうと、
宇宙飛行士の代わりにロボットを月に送りました。

このコーナーのタイトルである
Final Soviet Gambit
とは、ソ連の「最後の先手」とでも訳したらいいでしょうか。

チェスの打ち始めの手のことを「ギャンビット」と日本語でも言いますが、
この変わった言葉はイタリア語の足=「ガンバ」が語源となっています。


その「最後の初手」を取るため、ソビエトは、一か八かで
自動化されたサンプル採取船である
ルナ15号をアポロ11号打ち上げの何と2日前に打ち上げたのです。

もう、こうなったらタッチの差でも何とか先に、という必死さが見えますね。

しかし、アメリカの宇宙飛行士ニール・アームストロングと
バズ・オルドリンが最初に月に踏み入れたその直後、
ルナ15号は、よりによって月面に衝突着陸してしまったのです。

これはソ連にとって決定的でした。

歴史にもしもはありませんが、もしルナ15号が墜落しなかったら、
アポロ11号の乗組員のわずか数時間前にミッションを成功させ、
ソ連が「初めての月」を主張していたことでしょう。

ソ連はその可能性に最後の望みを託し、敗れました。
歴史はアメリカに微笑み、敗者のことは誰の記憶にも残っていません。


■アポロ月着陸用スーツ



スミソニアンには、このようにアポロ計画で月の上で飛行士が着た
宇宙スーツの実物が展示されています。

1971年7月31日に月面に降り立ったアポロ15号の船長、
デイビッド・ランドルフ・スコットが着用していたものです。



ヘルメットにはアポロ15号と書かれています。



スーツにはスコットの名前入り。
全体的に黒く埃が付着していますが、特に足の部分には
現在も月を歩いた時に付いた月の埃がまだ残っています。

スーツの胸部にはこれでもかとノズルの差し込み口がありますが、
宇宙服は飛行士の生命維持のニーズを全て満たすため、
バックパックから通信、データ表示システムに酸素、温度、湿度制御、
与圧システム、電力などが提供されていました。

素材は22層のあらゆる種類のレイヤーから成っており、
一番肌に近い部分に3層の下着を付けます。

この素材は、寒暖が極端な月の上の気温に対応するだけでなく、
微小隕石から体を保護する役目も果たしました。



着用していたデイビッド・スコット。
この写真に写っている真っ白なパリッとしたのと同じものなんですね
(しみじみ)

スコットは二人乗りのジェミニ時代からメンバーに何度も選抜されており、
ジェミニ8号、アポロ9号、そして15号と、3回も宇宙に飛んでいます。

■栄光と悲劇



ムーンレースの影で、数えきれないほど悲劇も起こりました。
(人間以外の犠牲者も含めるとさらに)
宇宙開発に犠牲は当初から多くあったのですが、
スミソニアンでは、アポロ1号の3人のメンバーの火災による事故死と、
ソ連のソユーズで着陸に失敗したウラジーミル・コマロフの記事が
米ソ両国の忘れてはならない悲劇として紹介されています。

「勝利、そして悲劇」と題されたコーナーでは、こうあります。

宇宙飛行は危険と裏表です。
宇宙探査は人命の犠牲なしでは達成されませんでした。

1967年、最初のアポロミッションの訓練中に、
宇宙飛行士のヴァージル”ガス”グリソム、エドワード・ホワイト、
そしてロジャー・チャフィーが発射台の宇宙船の中にいるとき、
フラッシュファイアが発生し、内部で起こった火災で死亡しました。

アポロ宇宙船はこの後再設計されたため、
アメリカの有人飛行は実質2年間停止されることになりました。



「ライフ」の表紙の写真は、国家的犠牲となった飛行士たちを送る
国葬の葬列を写しています。


実際の宇宙船の中のチャフィー、ホワイト、グリソム飛行士。
運命の事故が起こる、わずか8日前の写真です。



火災後の宇宙船。



そしてソ連側の悲劇として、コマロフの事故が取り上げられています。

「1967年4月、ソユーズ1号の飛行は悲劇で終わりました。
カプセルの降下パラシュートが開かなかったため、カプセルは地面に激突、
炎上してウラジーミル・コマロフは死亡し、次のソユーズの有人飛行は
18ヶ月予定より遅れることになります」

ウラジーミル・コマロフはユーリ・ガガーリンと親しかったため、
映画「ガガーリン」でもその死が取り上げられています。

映画『ガガーリン 世界を変えた108分』予告編

彼が乗ったソユーズ宇宙船(7K-OK)は、無人での試験飛行に
まだ一度も成功していませんでした。
しかし、設計上の問題を差し置いて打ち上げを進めようとする
政治の圧力によって、無理を承知で計画は決行されたと言われています。

ガガーリンはこのことに気がついており、飛行を止めるため
ソユーズ1号ミッションに自分が乗ることを申し出ました。

どういうことかというと、彼はすでにこの時、
人類初の宇宙に飛んだ人間として国家的英雄になっていましたから、
自分が乗るとなれば、国も、確実に危険が予測されるミッションをゴリ押しで遂行することはあるまいと考えたのです。

しかし、このガガーリンの考えは甘かったと言わざるを得ません。
当のコマロフも、状況について非常に冷静な目で見ていました。

つまり、今の共産党が多少の理由で打ち上げをやめるわけがないので、
自分が搭乗を拒否すれば、きっとガガーリンが死ぬことになるだろうと。

ガガーリンは自分を国が死なせるはずはないと信じていましたが、
彼は共産党政権の非情さを見くびっていたのだろうと思います。

コマロフはそれらすべてを承知の上で死の任務に就いたと言われています。


ソユーズ1号の技術者達は、党指導部に、
ソユーズには200箇所の設計上の欠陥がある
ことを報告していたらしいのですが、

「宇宙開発における一連の快挙によってレーニンの誕生日を祝う」

という政治的圧力の前には、技術者の意見など無力でした。
つまり、ソユーズ1号の事故は起こるべくして起こったわけです。
検索すると、もはや人間だったとは思えない炭化した物体を前に、
(´・ω・`)となっている軍人たちを写した写真が出てきますが、
彼らは自分の忠誠を誓う国家が、一人の人間をこんな姿にしたことに
果たしてどのような気持ちを抱いていたのでしょうか。

そして、当時のソ連国民にとって、コマロフの惨死は、
凄まじいばかりの衝撃だったと言われています。
ソ連ではソユーズ1号の事故の後、ソユーズ計画を18ヶ月停止しました。


不思議なことにアポロ1号の事故はソユーズ1号の3ヶ月前に起きました。
アメリカもやはり宇宙計画そのものをしばらく停止し、基本的方向性を大幅に見直すという、ソ連と同じ経緯を辿っています。

奇しくもわずか3ヶ月違いで起こった米ソの悲劇的な事故は、
人類がまだ到達したことがない峻厳な技術の高みを目指すとき、
そこに驕りはないか、競争に目が眩んで何かを見失っていまいかと、
宇宙、或いは神と呼ぶ絶対的な存在が自省を促すために人類に与えた、
あまりにも残酷な警告だったというべきなのかもしれません。


死ぬと分かっていながら宇宙へと旅立った男の話
この映像の解説では、もしコマロフが拒否しても
ガガーリンは搭乗させられることはなかっただろうと言われている、
としていますが、わたしはそうは思いません。
ガガーリンが宇宙飛行から遠ざけられたのは、事故が起こってからのことでした。
そもそも眼前に炭化したコマロフの遺体を突きつけられるまで、
ソ連国家は科学技術をあまりにも過信していたからです。

1967年4月26日、ウラジーミル・コマロフはモスクワで国葬で葬られ、
その遺灰は赤の広場にあるクレムリン壁墓所に埋葬されました。

アメリカの宇宙飛行士は、代表者をコマロフの葬儀に参列させてほしいと
要請しましたが、ソ連政府はこれを断っています。


続く。




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