わたしが国立宇宙航空博物館、通称スミソニアン博物館を見学したのは、
まだこの世にCOVID19が存在していない頃でした。
これまで紹介してきた歴史的な航空宇宙化学の結集が一堂に。
この様子も壮観ですが、フロアに溢れる人々が誰もマスクしていません。
街ではほとんどマスクを着用しなくなったアメリカですが、
3月11日より見学者のマスクは不要となっています。
ただし、
「訪問中にフェイスマスクを着用した方が快適だと感じる訪問者は
全員、着用することが推奨されます。」
と「マスク派」についても気を遣っています。
ワクチン接種の証明も必要ありませんが、可能な限りソーシャルディスタンスを保ち、
できるだけ平日の空いた時間に訪問することを推奨しています。
さて、このフロアに立つと、案外目を引くものは
実は地味に奥にある中距離弾道ミサイルだったりします。
特に、表面に升目と文字が描かれたソ連製のミサイルは
その一種異様さで目立っている気がしました。
ソ連のSS-20と米国のパーシングII。
1987年の
中距離核戦力(INF)条約
で禁止された2,600発以上の核ミサイルのうちの2つです。弾道ミサイルを禁止した条約は、核戦争からの後退の一歩であり、
冷戦終結の前触れとなりました。
ここになぜその二つのミサイルが並んでいるかというと、条約によって、
いずれかの博物館的なところに展示することを指定されたからなのです。
もちろん不活性化してあります。
今日は、そのソ連製SSー20ミサイルと、横に並べられた
アメリカ製のパーシングーIIミサイルについてお話しします。
■パーシングII
パーシングIIは、1983年から西ドイツの米軍基地に配備された移動式の中距離弾道ミサイルです。
マーティン・マリエッタが設計・製造した固体燃料式2段式で、
1973年、パーシングの改良型として開発が開始されました。
パーシング1aはかなりの過剰威力だったため、
精度を向上させるという目的でIIを生産することになりました。
攻撃目標はソビエト連邦西部です。
各パーシングIIは、TNT5〜50キロトンに相当する爆発力を持つ
可変収量の熱核弾頭を1つずつ搭載していました。
これに対抗し、ソ連がRSD-10パイオニア(SS-20セイバー)を配備。
こちらが4,300kmの射程と二つの弾頭を持っていたので、パーシングは
東ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア到達する仕様に変更されました。
つまり、この2基のミサイルは、かつて米ソにあって
互いに向けて攻撃するために「睨み合っていた」一対なのです。
■ RSD-10パイオニア SS-20セイバー
RSD-10パイオニア(ракетасреднейдальности(РСД)は、
1976年から1988年にかけてソ連によって配備された弾道ミサイルです。
SS-20セイバーはNAT Oによるコードネームになります。
本体に書かれた「CCCP」表記はキリル文字によるUSSR、つまり
ソビエト社会主義共和国連邦の意味であることはご存じですね。
かつてオリンピックなどで見るソ連選手のユニフォームには
必ずこの4文字が書かれていたものです。
パーシングと比べてもかなり大型で、高さ16.5m、直径が1.9mとなります。
弾頭部分を見ていただくとそのデザインの異様さでお分かりのとおり、
核弾頭を三個搭載することができます。
このミサイルは液体燃料でなく固体燃料を搭載しており、
そのため液体燃料を注入する危険な作業を必要とせず、
命令が出ればすぐさま発射できるというものでした。
ソ連がSS-20を開発した理由については、いろいろな説があります。
1、ソ連のグローバルパワーへに対する挑戦の一環であった
2、SALT条約(米ソ第一時戦略兵器制限交渉)で、
長距離ミサイルが量的制限を受けたため、中距離ミサイルに注力した
3、失敗したSS−16ICMBミサイルプロジェクトのリベンジ企画
あるいはSS16のための技術と部品のリサイクルが目的
4、ソ連がそれまで欠いていた第二次攻撃力の強化
(第三次世界大戦に向けた洗練された核戦略のため)
4の第二次攻撃能力について少し解説しておくと、これは核戦略用語です。
相手国から第一撃が先制的に打込まれたのちに、
残存している核ミサイル、核搭載有人機などを用いて、
相手国にただちに報復攻撃を加えられる能力を言います。
戦略的にはこの能力をしてそのまま核抑止力とするという考え方ですが、
1960年代国防長官だったアンドレイ・グレチコ元帥は、
第一撃を選択する、つまりもし第三次世界大戦が始まったら、
ソ連はNATO諸国に対しすぐさま核攻撃を行うという考えを持っていました。
グレチコ元帥(映画化の際には配役リアム・ニーソンの予定)
つまり、最初の核先制攻撃で相手の核報復力を破壊するということです。
しかし、これはあくまでグレチコ個人の意見ですよね?(ひろゆき構文)
この意見にソ連内部で反発する意見ももちろんあって、
「洗練された第二次攻撃能力で抑止力を目指すべき」
というものでした。
ちなみにグレチコ元帥は在職中に(いうて72歳でしたが)急死しています。
死因は動脈硬化と冠状動脈不全だったとか。
ともあれ、RSD-10は、ソ連にそれまで欠けていた戦域内での
「選択的」標的能力を提供することになりました。
それはすべてのNATOの基地と施設を破壊する能力を持ち、
ソ連の望む抑止力として十分機能する、とされたのです。
こうしてソ連は、サージカル・ストライク(正当な軍事目標にのみ損害を与え、
周囲の建造物、車両、建物、一般民衆のインフラや公共施設には全く、
あるいは最小限の付随的損害を与えることを目標とした軍事攻撃)
によってNATOの戦術核戦力を無力化する能力を獲得したのでした。
■冷戦における核配備競争への懸念
パーシングIIが飛翔する写真を表紙にしたタイムズ紙。
タイトルは、
「核ポーカー」
掛け金はどんどん高くなる
核の装備が、常に相手を上回ることを目標にしているうちに、
どんどんリスクが高くなっていくことを懸念する内容です。
冷戦下で激化した軍拡競争は、世界中に武器の配備が進みました。
万が一使用すれば、たった1発でも壊滅的な被害をもたらす武器が
世界中を埋め尽くしていくかのような勢いでした。
中距離弾道ミサイルの配備をめぐって、1980年代は
抗議の動きに火がついていくことになります。
■ レーガンとゴルバチョフ
アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンとソビエト連邦書記長、
ミハイル・ゴルバチョフの間の相互尊重関係がなかったら、
INF条約の調印はうまくいかなかったかもしれません。
1986年10月11日、12日に開催されたレイキャビク・サミットは、
レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連書記長の2度目の会談でした。
前年のジュネーブ首脳会談に続き、核兵器削減の可能性について議論し
合意を進めた両首脳は合意に至らなかったものの、
多くの外交官や専門家はこのサミットを冷戦の転換点と考えています。
1985年のジュネーブ・サミットで、両首脳は
攻撃型兵器削減の重要性では一致していたのですが、
レーガンが提案した戦略防衛構想(SDI)をめぐる意見の相違が、
交渉の大きな障害となりました。
ゴルバチョフは、もし米国がSDIを効果的に開発すれば、
核の先制攻撃でソ連は不利になるという懸念を持っており、
レーガンの、SDIをソ連と共有するという申し出を信用しなかったのです。
とはいえ、両者はそれまでの米ソの指導者に比べて
はるかに友好的な関係を築くことができていたのは有名です。
その効果もあって、核兵器削減の協力をうたう共同声明が作成され、
米ソ双方に前進への希望を与えることができました。
首脳会談後、レーガンはゴルバチョフに手書きの書簡を送っています。
核兵器廃絶の希望と、ゴルバチョフの協力を確認しようとしたのです。
ほぼ同じ時期に、ゴルバチョフもレーガンに手紙を送っており、
米国がソ連の核実験モラトリアムに自発的に参加することを求めました。
ただ、モラトリアムに同意するということは、
アメリカの SDI 開発を停止することを意味します。
結局レーガンはこの要請に応じることはありませんでした。
ゴルバチョフはレーガンの最初の書簡への返信で、
「宇宙攻撃兵器は、防御と攻撃いずれもの能力を持っており、
極めて危険な攻撃的潜在力の蓄積をもたらす技術です。
これが軍拡競争を激化させることは避けられないでしょう」
と、繰り返し懸念を表明しています。
つまりSDIが交渉の障害になっているのは確かでした。
ゴルバチョフが提案したのは、2000年までに
「核兵器を完全に廃絶する前例のないプログラム」でした。
その内容は、3つのステージから成っていました。
第1段階5年から8年で、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の50%削減、
宇宙兵器実験の相互放棄、ヨーロッパからのすべての核兵器の撤去
第2段階5〜7年で、すべての核実験を中止し、中距離核兵器を整理。
この段階には、他の核保有国(イギリス、フランス、中国)も含む
最終第3段階残りの核兵器をすべて廃棄し、
「1999年末までに地球上から核兵器を根絶する」
ゴルバチョフはまた、
「これらの兵器が再び復活することのないよう、世界的な合意をすること」
を強く求めました。
(BGM ジョン・レノン『イマジン』で)
彼は、ソ連の核実験に対する自主的なモラトリアムを更新し、
再び米国に参加を呼びかけ、もし米国がこれに応じるならば、ソ連は
以前から争点となっていた相互立入検査に同意する、と書いています。
当然ながら、ゴルバチョフが目指した核兵器廃絶に、
ソ連指導部のすべてが賛成していたわけではありません。
特に軍部が反対していました。
軍部は核軍縮案を提出しましたが、これはソ連が完全な軍縮を支持していると
世界に示すプロパガンダの役割を果たすものにすぎず、
アメリカがこの提案に同意しないであろうことも折り込み済みでした。
レイキャビク会談で、レーガン、ゴルバチョフ両首脳は、
この会談が大きな賭けであることを認識しました。
レーガンは、
「世界に戦争と平和のどちらを残すかを決めるまたとない機会だ」
ゴルバチョフも、
「軍備交渉で行き詰まった外交を解決するのが目的だ」
と同意しました。
この最終会談でのアメリカの提案は、次のようなもので下。
「双方、5年間に戦略的攻撃兵器の50%削減を達成する。
残りのすべての攻撃型弾道ミサイルについて削減のペースを維持し、
2回目の5年間の終わりまでにすべての攻撃型弾道ミサイルを全廃する。
10年後に攻撃型弾道ミサイルが全廃されれば、
どちらかが防衛策を導入する自由を有する」
対してソ連の提案は
「ABM条約の非撤回期間を5年ではなく10年とし、
「対弾道ミサイル防衛のすべての宇宙構成要素」を研究所に限定する。
戦略兵器を5年で50%削減し、10年で全廃する」
というものです。
そこでレーガンとゴルバチョフは、2つの異なる提案のうち、
どの兵器を対象とするかについて具体的に話し合いました。
レーガンは、すべての核兵器を廃絶してもかまわないと言ったそうですが、
この「核兵器のグローバルゼロ」といわれる提案は、
米ソ関係においてかつて前例のないものとなりました。
ゴルバチョフもレーガンに同意し、国務長官だったシュルツも
"Let's do it."(やりましょう)
と言ったそうです。
やってます
そしてゴルバチョフとレーガンは中距離核戦力全廃条約・INF条約に調印。
1987年12月、ワシントンD.Cでのことです。
今更ですが、INFとはIntermediate-range Nuclear Forcesのことです。
これを受けて米ソ両国は配備していたミサイルを退役させ、撤去しました。
撤去されたミサイルは解体、ないしは破壊されましたが、15基のみ、
博物館への展示を目的に使用不能の状態で保有することが許されたので、
退役したミサイルの一部は博物館に寄贈されました。
というわけで、ここスミソニアン博物館とモスクワの航空博物館には
米ソ双方の政府から、退役したミサイルが寄贈され、
どちらの国立博物館にもパーシングIIとSS-20が並んで展示されています。
スミソニアンのSS-20とパーシングIIミサイル。
SS-20がパーシングIIに比べて太く長いのは、
SS-20の方がペイロードが多く、また射程がより長いためです。
条約の定めるところにより以下に示すミサイルは退役しました。
その後ミサイルは廃棄され解体、または破壊されましたが、
作業は検証の対象となり、ソビエトでの爆破によるミサイル破壊作業は
マスコミにも公開されたそうです。
アメリカ合衆国
MGM-31A パーシングIbMGM-31B パーシングIIBGM-109 地上発射巡航ミサイル
ソビエト連邦R-12(SS-4 Sandal)R-14(SS-5 Skean)OTR-22(SS-12 スケールボード)OTR-23 Oka(SS-23 スパイダー)RSD-10 Pioner(SS-20 セイバー)SSC-X-4 Slingshot - Kh-55(AS-15 Kent)
空中発射巡航ミサイルの地上配備型
OKA(スパイダー)
最後のオカー廃棄に関する報告書に署名する米ソ担当者の図
また、スミソニアンでは、このような部品を見ることができます。
パーシングIIのロケットケーシングから排除された部分で、
楕円形のアクセスプレートには八つのネジ穴があります。
写真を失敗してよくわからないのですが、右側がその部品、
これはSS-20を破棄のため爆破した際残った部分です。
本条約はソビエト連邦が崩壊した後はロシア連邦に引き継がれましたが、2010年代、ロシアは巡航ミサイルの開発を進めていたため、
アメリカは、これが条約違反に当たると指摘しています。
世界が感動したレーガンとゴルビーの努力も、喉元過ぎればというのか、
時間が経つとどちらの側にも条約違反がみられ、
条約を守らないことが対立の火種になるというスパイラルに陥りました。
さらにややこしいことに、この条約に参加していない中国が
ミサイル開発を推し進め始めたため、アメリカは2019年、
トランプ大統領政権下で本条約の破棄を表明することになりました。
ロシア連邦もこれを受けて条約の定める義務履行を停止し、
本条約は2019年に失効しました。
スミソニアンのこのコーナーには、ロナルド・レーガンの言葉、
「私とゴルバチョフの間の最初の手紙は、
我々の国の間のより良い関係だけでなく、
二人の人間同士の友情の基礎となるものの両側で
慎重に始まりを示したことを私は理解しています」
そして、ミハイル・ゴルバチョフのソ連政治局会議での言葉、
「世論で外の世界に印象を与える最大のステップは、
私たちがパッケージを解き、私たちの最も強力なミサイルを
1000発削減することに同意するかどうかにかかっている」
という言葉が並べられています。
続く。