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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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習志野第一空挺団・空挺館

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空挺団の降下展示が終わり、フィールドには使用ヘリが展示のために並びました。
去年のわたしはフィールドに降り、そこで時間を遣ってしまったので
この空挺館の開館時間に間に合わなかったのです。

今年は何が何でも、と演習場から第一空挺団に向かいました。
演習場と第一空挺団は道を一つはさむ形で隣り合っているので、
一旦演習場を出て、信号を渡り、結構な距離を歩いていかねばなりません。
計ったわけではないのですが、座っていたところからは30分くらいかかったでしょうか。

 

去年はここにたどり着いたときにはもう入門が禁じられており、
涙をのんで向かいのスパゲティ五右衛門に入ってレモンクリームスパという
キワものっぽいスパゲティを食べて帰ったのでした。

今年は間に合ったぞ。

門をくぐると、隊員さんが元気な声で挨拶してくれます。



駐屯地の案内板。
赤い印が空挺館・・・・・と思ったらとんでもない。
赤い印は降下塔。
昔、「空の神兵」という陸軍挺身隊のドキュメント映画を観たことがありますが、
あれで傘をつり上げてフリーフォールさせていた練習のためのタワー、
あれと同じものがここにもあるらしいのです。

見てみたい・・・。


空挺館は左下の三角の緑地帯の左斜め上の小さな□。
実はこことんでもなく広いようです。

赤い降下塔の上にある緑地帯は

「跳出塔・レンジャー訓練場」

うわー、これも見てみたいなあ・・・。
何だろう。アメリカの地獄の訓練みたいに、塀とか登ったり、
ロープで滑り降りたり、高いところから飛び降りたりするんだろうか。

そして異常に広い室内プール!
やはりここでは水の上に落下したときの対処とか訓練するのかしら。

そして、食堂とかやたら大きな駐屯地医務室とか(!)普通の自衛隊にありそうなもの
以外では

「落下傘整備工場」

なんてものがあるんですね。
かつての空の神兵は、全てそういうのも自分でやっているようでしたが、
現代では専門の部署がそういうことをちゃんと請け負っているようです。
隊員は傘のことは心配せずに体を鍛えたまえ!ってことでしょうか。

しかし、飛行機の整備と一緒で、ここで任務に就いている隊員は、
空挺隊員の命を預かる傘を調整するのですから、さぞかし真剣に、
どんな不備も見逃すまいという気合いで日々やっているんでしょうね。



敷地内に入ると、テーブルがあり、二人の隊員がそこにいて、
代表者一名の名前を記入させていました。
写真を撮るのを忘れたのですが、そのテーブルに立てられていた幟には

「空挺団創立百年」

と書かれており、今更ながら第一空挺団が陸軍挺進連隊から続く
伝統の部隊であることを思い出させました。



三分ほど歩くと、まるで神戸の異人館通りか、横浜の山手通りにありそうな
洋風建築の建物が見えてきました。
窓のさんが空色で、こだわりを感じさせるカラーリングです。

これが空挺館。

コロニアル様式による建築ですが、軍施設であったので装飾は極力省かれています。

 

館内は土足厳禁で、皆外で靴を脱ぎ、靴下での入館です。
わたしが着いたときにはすでにたくさんの靴が並び、かなり遠くで脱がなくてはならず、
人の靴の間をピョンピョン飛んで階段を上がりました。

年に何度かしか公開されないので、こういう機会には人が詰めかけます。

 

まるで神社仏閣の説明板みたいですが、ここには空挺館の簡単な説明があります。

この建物は明治天皇の「御馬見所」として、
明治44年に東京目黒の騎兵学校内に建てられ
明治天皇が修業式に行幸され学生の馬術を展覧された由緒ある建物です

大正五年騎兵学校がここ習志野に移転した際、同時に移築され
迎賓館として使用されておりました

昭和三十七年に空挺館と命名され、空挺精神の伝統継承の場として
旧陸海軍及び自衛隊の空挺資料並びに、
騎兵資料などの展示館として現在に至っております


乗馬を嗜み、また落下傘部隊に大変な関心を寄せるわたくしにとって、
この空挺館に訪れるのはまるで「聖地巡礼」のようなもの。
心して見学させていただこうではないか。



この手の西洋建築にありがちな、入ったところにホールがあり、ホールの真ん中に階段がでーんと、
という造りとなっております。



階段を上ると、両側の階段に続く踊り場に空挺隊員の像が。
「精鋭無比」
という、はっきりいってうまいのかどうなのか分からない字を書いたのは、

南敬 あるいは 南敬題

という人物で、丙寅の秋、ということは1926年に書かれたものです。
「無」という字の下4画が同じ4画でもあえて「火」に変えられているのは、
それが「燃える火のように熱い」挺進連隊の標語であったからだろうと思われます。



壁沿いの階段の手すりの欄干。
これはどう見ても落下傘のモチーフなのですが、建物が出来たときには
空挺とは全く関係がなかったので、偶然かも知れません。



建物に趣があるので、中から窓越しに見る風景もなかなかです。
このとき手に手にカメラを持った女性の三人組が同じように写真を撮っていましたが、

「ゴミ集積所が惜しい、って感じー」

ときゃっきゃしていました。
ふーん。
若い女の子三人で空挺団の降下始めを撮影に、ねえ。
世の中には物好きというか、色んな趣味の女性がいるものですね。

という突っ込み必至のボケをあえてかますエリス中尉である。
 

それはともかく、この自衛隊内の建物、全体的にご予算の関係なのか、
古い建物は古いままで、それは非常にいい感じなのですが、
風情というものを一切考慮せず建築する傾向があるので、新しいものは
いかにものプレハブの簡易住宅みたいなのばかりです。



踊り場から両側に階段があり、センスのないソファが観覧者用に置いてあります。



吹き抜けのランプもパラシュート状のかたちをしているような気がするのですが、
こちらはおそらく建物が改装されたときにあらたに付け替えたものでしょう。

あ、電球が一つ切れている(笑)


因みに端っこに写っているのは、この日見張りに立たされていた隊員で、
後で分かったのですが、畏れ多くもレンジャーバッジ保持者である。
心して見るように。



そしてこれが彼の足許である。

皆に靴を脱ぐことを要請しているぐらいなので、土足厳禁なのですが、
何しろ隊員はいざ!というときにそのまま二階から飛び降りたりしなくてはならず、
そのいざ!というときに長靴の紐を結んだりしている場合ではないからです。

ゆえにこのようなシャワーキャップみたいなオーバーシューズをはめているのですが、
特筆すべきはこれが自衛隊の官品であり、ちゃんとOD色をしているということでしょう。

おそらく、このような気配りグッズを装備としてをわざわざ支給するのは、
世界広しと言えどもわが日本国自衛隊だけにちがいありません。




御馬見所は「おうまみどころ」ではなく「ごばけんじょ」と読みます。
ちなみにごばけんじょ、を変換すると「御馬券所」になります。
高貴なお方が馬券を御買いになるところみたいですね。

皆が靴を脱いでいる入り口の看板の「空挺館」という文字の下には

「旧御馬見所」

と書かれています。

御馬見所は、馬術の練習や競馬などを見るために設けられた見物施設のことです。
「競馬」などというものが無いころの言葉ですので、皇室の方々が天覧するところ、
というだけの意味でもなさそうです。

しかし、この習志野の御馬見所は、実質天皇陛下の御行幸のためにありました。



昔は深紅であったと思われる絨毯に菊の紋章。
当初目黒に在った騎兵実地学校の訓練を見学するために
このバルコニー様の一室が作られました。

手前に置いてある椅子は、こういうところのものにしては少し簡易すぎないか、
と思ったのですがやはりそうではなく、津田沼駅の「皇族用」だそうです。

津田沼駅というのは明治40年に開業したのですが、
騎兵学校などのある習志野練兵場の表玄関だったので、
しょっちゅう皇族の方々が利用しました。

ところで、昭和20年8月15日、日本の敗戦後、進駐して来たアメリカ軍が、
ここ習志野にもキャンプを設置し、

「キャンプ・パーマー」

と呼ばれていました。
パーマーと言うのは、1945年に戦死した第8騎兵師団の
ネルソン・ パーマー二等兵の栄誉を称えて付けられたのだそうですが、
このネルソンが一体何をしたのか、英語でさえも検索できませんでした。

駐留は8年に亘り、その間この空挺館は、米軍司令官の執務室、
あるいはラウンジとして使用されていました。


空挺館は平成4年、船橋市指定文化財に一度登録されたのですが、
防衛庁(当事)の働きで2年位で解除されてしまったといいます。

・・・・・なぜ?

現在、保存に向け修復計画が進行中ではあるようです。




平成23年、一部の市民の寄付と協力によって補修工事が行われたということです。
それまではこんなに朽ち果てた感じであったのですね。



その修復のときには、木材が劣化した部分をこのように剥がし、
基礎からやり直したので、当分は大丈夫でしょう。

ただ、アメリカの博物館などがよくやるように、こういう日に
補修と維持のための募金を行なうわけにはいかないのでしょうか。

防衛省の管轄、ということでその辺りは難しいのかもしれませんが・・・。

 

改修のとき、瓦や樋、戸車など、必要でなくなったもの、
そして屋根裏から出て来たビールの空き缶を空挺館は「所蔵」しています。 


屋根裏・・・・・。

どこかからか屋根裏に入り込んだ兵隊が、こっそりくすねたビールで酒盛りしたのか。
それとも8年の間に何らかのメンテナンスが必要となり、
そこに立ち入って作業の合間にこれもこっそりビールを飲んだのか。

いずれにせよ、缶を持って降りられないような「こっそり」した事情で、
空き缶は屋根裏に残され、そしてなぜか60年後に再び陽の目を見ることになったわけです。

まさか酒盛りの犯人たちも、自分の飲んだビールの空き缶が
歴史的資料になるとは夢にも思っていなかったにちがいありません。



ここで見学した内容については、またテーマを絞って何回かにわけてお送りしようと思います。

何しろ、ここの見学はわたしに取って大変に意義のあるものでした。
奥山道郎大尉の「義烈空挺隊」そして乗馬の「西竹一大佐・バロン西」。

並々ならぬ思い入れを持ってエントリを書いたテーマにここで遭遇することになろうとは。



 


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