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「ロシアに愛を込めて」空挺隊員 戦地からの帰還〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館

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ミシガン州マスキーゴンのUSSシルバーサイズ潜水艦博物館は、
地元の戦時中の資料なども展示して、当時の住民たちの
戦時協力について知ることができ、地元戦争博物館の役目を果たしています。

2階の通路も展示スペースに利用。
(ただしこの展示、写真が撮れません)
FDRのキメ写真や戦時ポスターの展示の上に、

「我々の誰も、第二次大戦中の陸軍看護部隊がしたようなことはしていない」
”We didn't do anything the army nurse corp
in World War II did."

とあります。
これ、惜しいところで最後の「did」が見えませんが、これだと

「私たち第二次大戦中の陸軍看護部隊は何もしていない」

となってしまいます。
それから、一番左にコーストガードのボートらしい写真があります。

「アメリカが戦争に参戦すると、沿岸警備隊の主な国内の焦点は
防衛施設と、鉱石、石炭穀物およびその他の必要な戦争物資の大規模な輸送を
破壊工作から保護することになっていきました。

しかし、1942年初頭までに、何百人もの五大湖沿岸警備隊員が、
海軍任務のために東海岸に移送されることになりました。

民間人ばかりで構成された沿岸警備隊補助隊は、
港湾警備及び捜索救助作業において沿岸警備隊要員を増員、
または交代させる任務の要請に応えました。

彼らの多くは自前のプレジャーボートを哨戒艇として使用し、
戦闘任務に派遣された沿岸警備隊の船舶の代わりを務めました」

とあります。

五大湖付近で沿岸警備隊にいた民間人も、
東海岸で戦争のため補助的任務に注力されたということですね。

写真の何人かは背広にネクタイの姿ですが、
もしかしたらこれから東海岸に移送される警備隊員かもしれません。



近くからは撮れないので、反対側通路から撮ったこの写真。

こうして並んでいるとアート写真ぽいですが、
全て潜水艦「シルバーサイズ」を、プロのカメラマンが撮影したものです。

二つのドアの上には、もはや芸術的にも見えるパイプの列や並んだ計器、
そして、夕日をバックにした姿、照準器を通してみた潜水艦とか、
全体的に一つの作品のように展示されています。

これらの作品は左上に名前の記されている

Great Lakes Photo Group

という写真家の集団が制作したものだそうです。
同じグループかどうかは分かりませんが、調べたら、
Great Lakes Photo Adventures (@GLPA)
という、五大湖とその周辺での写真撮影を通じて、
フォトウォーク、ワークショップセミナーを開催している
写真愛好家グループがありました。

ホームページを覗いてみたところ、参加はプロの写真家でなくてもよし。
一眼レフでなくとも、携帯、ミラーレス一眼でもいいとゆるゆる。
ゴリゴリ一眼レフ教条主義とかでない、敷居の低い会で、
和気藹々と五大湖の撮影を楽しみましょうということのようです。


■ 戦地からの帰還
さて、今日冒頭に挙げた写真。

「モスクワからマスキーゴンへ」

というタイトルの下では、陸軍の軍曹に身を包んだ男性、
彼に瓜二つってくらい似た父親、そして彼にしがみつく母親の様子から、
もうこれは生死を諦めていた息子が帰還したんだなとわかるシーンです。

キャプションを読んでみます。

「ロシアの病院で回復している間、ジョーはあの有名なロシア軍元帥、
ゲオルギー・ジューコフ将軍の見舞いを受けました。
元帥は、自分の軍隊と共に戦ってくれた米軍兵士と会うことを望んだのです。

元帥はジョーに自署入りの手紙を発行し、
彼がモスクワのアメリカ大使館に行く助けをするよう関係者に命じました」

これだけだと色々と謎ですが、この事情を解き明かしていきます。


ガラスケースに展示されたマスキーゴン・クロニクル紙、
その他関連資料が収められたガラスケース。

「ロシア”より”愛を込めて」を逆にもじって、

”To Russia with Love”

をタイトルにしたこの記事のサブタイトルは、

「ローカルヒーローの持ち物国際展示の一部」

となっています。
そして写真には、

「ナチスの囚人としてファンタスティックなアドベンチャーをしながら
『死の淵から帰還』したベイル(Beyrle)軍曹」
とあります。
展示された持ち物というのは彼の制服や靴、それから
地元の高校でスポーツ選手だった彼のユニフォームなどのようです。

「ロシアより愛を込めて」From Russia With Love

は映画で有名になりましたが、元々は小説で
イアン・フレミングのジェームズ・ボンドシリーズ第5弾です。

発行が1957年、映画化はさらに1963年ということで
おかしいなと思ってよくよくみたら、新聞の発行は2010年でした。

つまり、この時期にかつての地元ヒーローの遺品が、2010年になって
あらためてマスキーゴンで展示披露されたということのようです。



ガラスケースの中身はこの時の展示品でしょう。

ガラスケース右側の、勲章をたくさんつけた老人ですが、
これはそのジョー・べイルその人であり、
その本のタイトルというのは

「Hero of Two Nations」(二カ国の英雄)

となっています。
それでは、このジョー・ベイルとはどんな人だったのか。

■ ジョセフ・ベイル

そもそも、このBeyrleという名前をどう発音すればいいのか、
わたしにはまず想像もつかないわけですが、
「ベイル」「バイル」「ベイユ」あたりでしょうか。
「バイレ」かもしれませんし「ベイヤール」かもしれません。
でも想像がつかないので、ベイルに統一します。
彼がなぜ米ソ両国で「英雄」になったのか。

ジョセフ・R・ベイル 
(Джозеф Вильямович Байерли 1923- 2004)
は、第二次世界大戦でアメリカ軍とソビエト赤軍の両方で戦闘に参加した
唯一のアメリカ人兵士として知られています。

1944年6月5日から6日にかけて行われた
第101空挺師団の空挺上陸作戦「ミッション・アルバニー」に
第506パラシュート歩兵連隊の一員として参加し、
ドイツ軍の捕虜となって東部へ送られた彼は、
その後ソ連軍に参加して傷を負い、収容されていたところ、
先ほどの事情でアメリカに帰国しました。

彼の両親は、1800年代にドイツからアメリカに移民してきました。
ベイルという名前はドイツ系だったわけです。

【生い立ちと陸軍入隊】

7人兄弟の3番目として生まれた彼が幼い時、工場で働く父親が失業し、
一家は家を追い出されることになりました。
二人の兄は学校を諦めて働き、仕送りを続けていました。

彼は高校卒業後の進路としてアメリカ陸軍をえらびました。

大学進学をしようと思えば奨学金が取れるほど優秀だったようですが、
出稼ぎに出た兄の一人が16歳という若さで病没したことから、
やはりすぐにでも確実に家族を楽にする方法として入隊したのでしょう。

空挺歩兵として第101空挺師団の第506空挺歩兵連隊、
通称「スクリーミング・イーグルス」に配属された彼は、
無線通信と爆破の専門を持ち、ヨーロッパに派兵されました。
【ノルマンディ上陸作戦】


そして、D-Day、ノルマンディ上陸作戦の6月6日がやってきます。

ベイルの乗っていたC-47は、ノルマンディー上空で敵の攻撃を受け、
110メートルという非常に低い高度からのジャンプを余儀なくされました。


再現シーン

フランスのサン=コム=デュ=モンに着陸した後、ベイル軍曹は
仲間の空挺部隊と連絡が取れなくなりつつも、発電所の爆破に成功。

さらに破壊工作を継続しますが、数日後、ドイツの捕虜になるのです。
ちなみに再現展示の後ろに見えているのは、現地にあった教会です。
2005年、この教会の壁に記念プレートが設置され、除幕されています。
二カ国で戦った英雄ベイルの功績を讃えるものでした。
【ナチスの捕虜になって】


捕虜となったベイル(不貞腐れ中)1944年秋

その後7ヶ月間、ベイルは7つのドイツ軍刑務所に収監されましたが、
2度脱走し、2度とも捕らえられました。
捕虜収容所の再現(多分)

反骨精神の塊のような面魂の彼ですが、無目的に逃げようとしたわけでなく、
脱走の目的は、仲間と共に近くの赤軍に合流することでした。

2回目の脱走でポーランドに行こうとしてベルリン行きの汽車に乗ってしまい
民間人に見つかってゲシュタポの手に落ち、拷問されますが、
どういう成り行きか、ゲシュタポには捕虜の管轄権がない、
と、待ったをかけた当局者がいて(たぶんゲシュタポと仲が悪いドイツ軍)
その後、ドイツ軍に身柄を渡されることになりました。

このときの出来事が、彼の命を救うことになります。

なぜならゲシュタポは、空挺兵である=スパイの可能性あり、として
拷問ののちベイルを射殺するつもりでいたからです。


【ロシア軍女性戦車隊長との出会い】

しかしそこで諦めないのがこのベイルという男。

またしても捕虜収容所から脱走した彼は、
(ドイツ軍の捕虜収容所の警備はどうなっているのか問いたい)
ソ連軍との合流を目指し、東へ向かいました。

そしてついにソ連軍の戦車旅団に遭遇したとき、
彼はラッキーストライクのタバコの箱を持ったまま両手を挙げ、

「アメリカーンスキー・タバーリシ!」
(「アメリカの同志よ!」)

と叫んでみました。
ここからが映画化決定、全米が泣いた的展開としか言いようがないのですが、
その時彼が出会った戦車旅団の大隊長というのが、
世界で最も女性進出が進んでいたと思われるソ連軍の中でも
特別に出世したことで後世に名を残した、史上唯一の女性戦車士官、


アレクサンドラ・サムセンコ
Aleksandra Samusenko
Александра Григорьевна Самусенко
1922−1945

だったのです。

The Tanker Who Avenged Her Husband
生まれは白ロシアで戦車学校卒、最終階級は大尉。
ベイルと出会った時には22歳の若さですでに大隊長でした。

サムセンコの戦車旅団に遭遇したベイルは、彼女を説得して、
ベルリンに向かう部隊と一緒に戦う許可を得、
ソ連戦車大隊と行動を共にして1ヶ月間の任務を行いました。


戦車大隊では、ベイルの解体の専門知識が高く評価されることになりました。

加えて、サムセンコの部隊は、ここにもその姿を見ることができる、
アメリカのM4中戦車(シャーマン)を運用していたのです。

のちにベイルは、女性隊長サムセンコについて、

「彼女が戦争中に夫と家族全員を失っていると聞いた。
彼女は、この時期のソ連国民が示した不屈の精神と勇気の象徴だった」

と回想しています。
彼女はその後、行動中、暗闇の中で自軍の戦車に轢かれ、
その事故による怪我で、22歳の短い人生を終えています。


■ ロシア軍元帥の見舞い

「元帥のお見舞い」というと、どうしてもわたしたちは
日本海海戦で傷ついたロシア海軍のロジェストヴィンスキー将軍を
我が東郷元帥が枕元に見舞ったという話を思い出してしまうのですが、
今回の話はソビエト軍元帥自らが一アメリカ兵を見舞った例です。

ベイルは2月の第1週にドイツ軍の急降下爆撃機による攻撃で負傷し、
現在のポーランドにあったソ連病院に収容されました。

彼がゲオルギー・ジューコフ元帥の訪問を受けたのはこのときです。


ジューコフ元帥(参考までに左が若い時。軍帽の被り方にこだわりあり)

ジューコフという名前を知っている日本人はあまりいないかもしれませんが、
ソ連国民ならおそらく誰でも知っている軍人です。日本で言うと乃木大将みたいな位置づけかもしれません。知らんけど。

病院で唯一の非ソ連人に興味を持った彼は、通訳を通じて彼の話を聞き、
ベイルにアメリカ軍に復帰するための公的書類を提供したというわけです。

■ 帰還

ソ連の乃木希典の鶴の一言によって、ベイルはソ連軍の輸送隊に合流し、
1945年2月、モスクワのアメリカ大使館に到着しました。

そこで彼がアメリカ陸軍省から聞かされたのは、彼自身が
1944年6月10日にフランスで戦死したと認定されていたことでした。
ジョー・ベイルが捕虜になりその後亡くなったという通知
マスキーゴンのベイルの父ウィリアム宛に届いた

このため、彼の地元マスキーゴンでは彼の葬儀が行われ、
地元の新聞に訃報が掲載されていたというのです。

そこからの思いがけない生還。

生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のベイルの生還に、
彼の両親がいかに狂喜乱舞したかは想像にあまりあります。

そこからの帰還ですから、冒頭の写真で
かーちゃんが息子にしがみついて離れないのも無理はないと思えます。

ベイルは1945年4月21日にミシガン州に生きて帰還しました。

そして翌年1946年に結婚したのですが、結婚式を挙げた教会は
2年前に彼の葬儀を執り行ったのと同じでした。

アメリカの家庭は、特に地方ほど一つの教会に代々通うことが多く、
神父さんともすっかり顔馴染みだったりするので、
同じ教会で洗礼を受け、結婚式を挙げて時々懺悔を行い、
死んだらそこで葬式をするのがわりと普通のことになっています。

なので、順番が上の通りならなんら不思議なことではありませんが、
一人の男の葬式を執り行ったのと同じ神父が、それからのちに
生きて帰ってきた本人の結婚式を執り行う例は
おそらく世界でも稀なできごとだと思われます。

さて、時は流れてDデイから50年後の1994年。

ホワイトハウスのローズガーデンで行われたDデイ50周年記念式典で、
ベイルはビル・クリントン米大統領とエリツィン露大統領から
その功績に対しメダルを授与されることになりました。


彼の長男のジョー・ベイル2世は、ベトナム戦争で第101空挺部隊に所属し、
2008年から2012年まで駐ロシア米国大使を務めました。
(絶対この人事、狙ってるよね)

ジョー・ベイルが亡くなったのは2004年12月12日。

かつて落下傘兵として訓練を受けたジョージア州トッコアを訪問中、
心不全で眠りながら亡くなりました。

享年81歳。
現在はアーリントン国立墓地に眠っています。



’ジャンピン’ ジョー・ベイル

ジョーは1942年6月に高校を卒業しました。
ノートルダム大学への奨学金を断り、アメリカ陸軍に入隊。

彼は新たに編成された空挺部隊に志願し、1942年9月17日入隊。
ジョージア州キャンプ・トコアに送られ、エリート部隊である
第101空挺師団506連隊の一員になりました。
彼らは「スクリーミング・イーグルス」として知られるようになります。

5回の空挺降下に成功した後、彼はウィングマークを獲得しました。

海外に派兵される前に、通常兵士たちは故郷への帰還を許されます。
マスキーゴンでの休暇中、彼のウィングマークを見た女性は
ジョーのことをパイロットだと思い、

「今まで何回ほど飛行なさったの?」

と聞きました。
すると彼の答えは、
「11回離陸しましたがまだ着陸はしたことないです」

つまり11回全て空挺降下したので飛行機で降りたことありませんと。


空挺、エアボーンという部隊は一般にそれほど知られていませんでした。
この頃、空挺降下はまだ軍隊にとって新しい概念だったからです。

装備、戦術、訓練方法、そしてシステム、これらの全てをゼロから発明し、
そしてそのそれぞれをテストする必要がある段階でした。

空挺部隊の黎明期に隊員となったベイルは初期のエキスパートとして、
パラシュート降下の新しいメソッドを開発することで
さらにこの戦法の確立に貢献したと言えます。

ジョー・ベイルの人生と、戦時中の体験に捧げられた展覧会は、
2010年にモスクワと他のロシアの3都市で開催されました。

その後アメリカでは2011年にはトッコアとオマハで、
2012年6月にはベイルの故郷のマスキーゴンで開かれています。

そして、現在、ここマスキーゴンのUSSシルバーサイド・ミュージアムに
常設展示されているというわけです。


続く。


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