USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示には、
原子力潜水艦を海軍にもたらした、
ハイマン・ジョージ・リッコーヴァー提督
Hyman George Rickover
1900年1月27日-1986年7月8日
のコーナーがあります。
このコーナーを深掘りしてみます。
「海軍原子力の父」
”Father of the Nuclear Navy"
それがリッコーヴァーに捧げられたタイトルです。
その下には、1985年、彼がダイアン・セイヤーのインタビュー中語った、
「どんな状況でもベストを尽くす、それが人間というものです」
That's what being human being is,
to do the best you can under any circumstances.
という言葉があります。
ところで、ちょっと検索しただけでもリッコーヴァーのクォートは
次々と出てきます。
もしかしたら発言だけで一冊の本になってたりするんでしょうか。
「自分の主張を書き留めることほど
思考プロセスを鋭くするものはありません。
口頭での議論で見落とされた弱点は、
書かれたメモで痛々しいほど明白になります」
いわゆる「メモ魔」だったんですね。
「何よりも、私たちの自由はそれ自体が目的ではないことを
心に留めておく必要があります。
それは、私たちの社旗のすべての階級に対して
人間の尊厳にたいする尊重を勝ち取るための手段なのです」
「悪魔は細部に宿る。
我々が軍でおこなうこともまた細部まで及ぶのだ」
悪魔は細部に・・・はお気に入りのフレーズだった模様。
もうひとつ悪魔シリーズで
「悪魔は細部に宿る。
しかし救い(salvation)もまた細部に宿るのだ」
「楽観主義と愚かさはほぼ同義である」
リッコーヴァーは良き家庭人で、愛妻家、子煩悩でした。
「わたしには息子がいる。
わたしは息子を愛している。
息子がそれを操作しても大丈夫なくらい全てを安全に保ちたい。
それがわたしの基本ルールです」
リッコーヴァーは、海軍での任務先から自分自身、
手紙を息子にマメに書き送っていますが、それだけでなく、
職権濫用というか公私混同というか、初期の原子力潜水艦の司令官たちに、
北極航路から自分の息子に手紙を送ってやってくれと頼んでいます。
そのため、息子のロバートは、北極にいた
USS「ノーチラス」「サーゴ」「スケート」「シードラゴン」
すべての原潜からの手紙を持っていました。
学校の友達にさぞ自慢できたことでしょう。
初の水中地球一周を達成した「トライトン」がインド洋から送ってきた手紙、
「ジョージ・ワシントン」がポラリスミサイルの初の水中発射を成功させ、
そのことを記念して司令官から送られた手紙もロバートは受け取っています。
ロバートのパパコネコレクションの数々
どの司令官も、他ならぬ「オヤジ」(と呼ばれていた)のためだし、
と必要以上に張り切って手紙を子供に送ったようです。
その内容では、しばしば彼の偉大な父親が誉めそやされていました。
「この歴史的な航海は、あなたの父上がノーチラス号と海軍に
原子力推進力を与えたという、輝かしくたゆまぬ努力によって
実現されたものだと理解しているでしょう」
「全世界が知っているように、あなたのお父さんは
我々の時代の海軍工学の天才です」
まあ、それは嘘偽りない本心だったと思いますが。
ちなみに息子ロバートは、イエールとMITで物理と経済の学位を取っていますが、
どういうわけかロンドンでアレクサンダー・テクニークを勉強し、
(頭-首-背中の関係に注目し身体を整える心身技法で
リハビリ、整体、演奏家や演技者などの発声を改善する)
先生となって、2008年に亡くなっています。
リッコーヴァーの名言、もう1発。
「良いアイデアが自動的に採用されるわけではない。
それらは勇気ある忍耐を持って実行に移さねばならない」
どうもリッコーヴァーという人は一言居士だったらしく、
今ならおそらく毎日のようにこういう言葉をツィートして、
世間の反応を楽しんでいたのではないかと思われます。
さて、博物館のパネルから彼についての解説を見ましょう。
辛辣で、真面目で、妥協のない態度で知られるリッコーヴァー提督は、
画期的な原子力潜水艦USS「ノーチラス」と
海軍原子力艦隊全体の立役者となった人物でした。
彼は1983年に退役しましたが、実に63年間という
最長となる海軍での勤務期間の記録を保持しています。
海軍兵学校時代
海軍兵学校とコロンビア大学(電気工学の修士号を取得)
を卒業した後、リッコーヴァーは初級士官として
水上艦艇と潜水艦に乗組み、世界中で海軍経験を積みました。
そしてそののち、海軍の原子炉電気プラントプロジェクトの
責任者に選ばれていますが、
彼が任命されたのは人気者だったからでも、リーダー的素質があったわけでもなく、彼が頻繁にいわゆる「お役所仕事」を破って目標を達成したからです。
と書かれています。
そこで彼の名言。
「我々は国家のための創造的な仕事をしている男を、
管理者のなす層と覚書の山の下に埋めてしまっている。
我々は果てしないフラストレーションによって
創造性を萎縮させているのだ」
お役所仕事から創造ができるか!というわけです。
■ リッコーヴァーの圧迫面接
彼とそのチームは、その結果、世界初の原子力潜水艦、
USS「ノーチラス」の研究、設計、テスト、建造、進水を
わずか5年間でやってのけました。
原子炉は街一個のサイズから、28フィートの幅に収められたのです。
リッコーヴァーはすべてのシステム、安全手順、人員、
原子力潜水艦、空母、船の近くに来るものに至るまで、
ありとあらゆることに執着してこだわる人物でした。
そのため、原子力潜水艦の乗務に応募してきたすべての将校に
自らがインタビューを行い、そのふるい落とす基準とか、
そのユニークすぎる面接の様子は伝説になっています。
一例をあげると、
面接室にインタビューを受ける人を先に通しておく。
部屋のテーブルにさりげなく「プレイボーイ」のような雑誌を置いておく。
他の本も置いておく。
散々待たせる。
一瞬でもグラビアの方に手を出してめくったら、面接前にアウト。
(リッコーヴァーはそれを陰で見ている)
恋人がいる面接者に電話を渡す。
原潜に乗りたかったら今すぐここで彼女に別れを告げろという。
それに少しでも躊躇いを見せたら即アウト。
とか。
また、彼の伝説を形作った有名な「リッコーヴァーの面接椅子」があります。
彼のオフィスには、インタビュイー専用の椅子がありました。
それは、ツルツルに磨き上げられた座面をもつ木の椅子でしたが、
前足2本は6インチ切り落として短くされていました。
圧迫面接中
さらには、特別に注文して調整させたベネチアンブラインドから、
彼らの目に日光が差す時間にインタビューを行うのです。
そしてリッコーヴァーはなにをしているかというと、
滑り落ちる椅子に「座り続ける」という問題に彼らがどう対処するか、
逆光に耐えながらどう知恵を絞るかを観察しているのです。
受験者にさらなるプレッシャーを与えるべく、上から見下ろしながら。
また、彼は質問に対して「馬鹿げた」答えをした者を、
箒入れに入れて2〜3時間「考えさせた」こともありました。
出てきた時に彼が何をいうかによっては「逆転」もあったかもしれません。
それもこれも、立候補者が潜在的に持っているものを
引き出すための「不規則な」状態を作り出していたということのようです。
これらの圧迫面接を乗り切り、無事に乗員に選んでもらったからといって
全く安心できないのがこのリッコーヴァーという人でした。
リッコーヴァーはたとえ潜航中でも、仕事をしている人を「殺して」、
強制的に他の人に仕事を引き継がせることでも有名でした。
「はいA君、今A君は死にました!
そこのB君ね、彼のあとを引き継いでください。
あ、A君は死んじゃったのでもう何もできません!」
気の毒なA君は、そこから先、文字通り死んだ魚の目をして
潜水艦内でただ浮遊していなければなりません。
この「殺される」ことは、原潜現場独自の用語で
「denuked」(原子力から削がれる)
と称し、原子力部門から追い出されることを意味しました。
これは、「本当の緊急事態」になったとき、起こることが
リッコーヴァーの脳内では再現されているということなので、
何人たりともその設定に逆らうことは許されないのです。
そして、スーツ姿で最初の原子力潜水艦に乗り込み、
テストを終えて出てきた彼は、こう語っています。
「私は、並外れた者を採用したのではない。
並外れた可能性を持つ者を採用し、
そして彼らを訓練したのだ」
と。
リッコーヴァーのキャリアにおいて、個人面接の回数は数万回に及びました。
大卒だけでも1万4千回を超えたといいます。
原子力潜水艦や水上戦闘艦に配属される少尉候補生、
新任少尉、原子力空母の指揮を目指す戦闘経験豊富な海軍飛行大尉まで、
その面接対象は多岐にわたりました。
リッコーヴァーは「ノーチラス」最初のテストダイビング中、
実際に潜水艦に乗り込みました。
彼の立場からは公的には乗る必要はなかったのですが、
とにかく自分の指揮下にあるすべてのこと、
そしてすべての人に対して、100%の責任を負うという
彼の信念がそれをさせたのだと言われています。
再び彼の名言から。
「責任というのはユニークな概念です。
あなたはそれを共有することができるでしょう。
しかし、あなたの責任は減りません。
それは依然としてあなたにあります。
責任があなたにある場合、それを回避したり、無視したり、
責任を転嫁したりすることも誰かに押し付けることもできません。
何かがうまくいかなかったとき、
責任を負う人を指差すことができない限り、
本当に責任を負う人は誰もいなくなるでしょう」
彼は全てのこと、特に安全に目を光らせ、自ら責任を負いました。
この彼の信念と努力のおかげで、いまだかつてアメリカは
原子炉の事故による潜水艦の喪失事故は一回も起こしていません。
スリーマイルで事故が起こった際、彼は公聴会に呼ばれ、
アメリカ海軍で一度も事故が起こしていない理由について
自らの信じる安全管理についての質問を受けています。
■ 誠実さへの献身
「愛する息子が触っても大丈夫なくらい安全な装置を作る」
という、リッコーヴァーの安全にかける完璧主義を表す逸話があります。
リッコーヴァーは、最新の潜水艦の建造中、その艦体に
溶接の不備で圧力に弱い部分があることを発見しました。
そこで彼が業者に命じたのは、不具合のある溶接の部分をすべて分解し、
もう一度適切な方法で施工をおこなうということでした。
それは一隻にとどまらず、そのときすでにほぼ完成していた
何隻かの潜水艦の解体を意味したので、建造会社は海軍に対し、
費用と人件費の超過分を請求しようとしたのですが、
リッコーヴァーはガンとしてそれを撥ねつけました。
この不具合は請負業者の責任であり、納税者は
そのようないい加減な仕事に対して1ドルも支払う義務はない。
しかし、業者の方は食い下がり、これに対し色々と配慮した海軍は、
最終的に超過費用の4分の3を支払うことでなあなあに収めてしまい、
リッコーヴァーを激怒させたのでした。
このことはゼネラルダイナミクス社のスキャンダル事件とされました。
しかしこれで海軍長官ジョン・レーマンから恨まれたリッコーヴァーは、
最終的に彼によって強制的に引退に追い込まれることになります。
ちょうど新造艦USS「ラホーヤ」の海上試験中起こった、制御不能と
深度逸脱事故の責任が実質的な責任者たるリッコーヴァーに押し付けられたのです。
82歳の誕生日から4日後の1982年1月31日に、リッコーヴァーは
13人の大統領(ウッドロウ・ウィルソンからロナルド・レーガン)の下で
63年間勤めた海軍から強制退役となりました。
彼は妻からラジオで聞いたことを聞かされるまで
自分の解雇について知らなかったということです。
この処分を喜んだのは、天敵ゼネラルダイナミクス社でした。
その当時、グロトンのGD社では、何人かが
「リッコーヴァーを捕まえてやった」
と得意そうに話していたという証言があります。
■ 教育に対する見解
1950年代後半から、リッコーヴァーは、
アメリカの教育システムを徹底的に見直す必要がある、
と声を大にして訴えていました。
そして、すべての学校が次の三つを実行すべきだと信じていました。
1)学生には幅広い知識を得られる機会を与える
2)その知識を日常の状況に適用できるスキルを彼らに与える
3)ロジックと検証済みのファクトに基づいて問題を判断する習慣を与える
彼はアメリカの教育水準が受け入れがたいほど低いと考えており、
それを問題視し、教育水準の向上、
特に数学と科学の向上方法について何冊かの著作物で提言を行いました。
■ 原子力推進の夢
リッコーヴァーは早くから船舶の原子力推進という考えに傾倒していました。
この考えを現実のものにするきっかけは、
彼が1947年に元潜水艦乗りの海軍作戦部長、
チェスター・ニミッツ提督に直談判したときに始まっています。
ニミッツは、潜水艦の原子力推進の可能性をすぐに理解し、
海軍長官ジョン・L・サリバンにこのプロジェクトを進言しました。
これを受け、世界初の原子力艦を建造することを支持したことから、
後にリッコーヴァーはサリバン海軍長官を
「原子力海軍の真の父」
と評していたようです。
その後、リッコーヴァーは原子力部門のチーフとなり、
潜水艦推進用の加圧水型原子炉の設計に着手。
その後、アール・ミルズ提督がリッコーヴァーを推薦し、
国家の原子力潜水艦計画の開発責任者に選ぶという決定をしました。
ミルズ提督が彼を選んだ理由は、「どんな反対に遭っても」
海軍が頼れる人物と見込んだからと言われます。
「ノーチラス」の建造中、リッコーヴァーは少将に昇進しました。
異例といえば、彼のような人物が提督になることは異例でしたが、
もちろん、それを面白く思わない海軍機関部の同僚もいて、
(大体が大尉以上の昇格に失敗した人たち)彼を退職させるため、
アメリカ上院に対し、これは不適切な昇進だと訴えました。
その結果「ノーチラス」が初めて海に出る2年前だというのに、
上院は海軍提督昇進リストをいつものように形式的に承認せず、
リッコーヴァーの名前もリストにありませんでした。
しかしマスコミはじめ世間が「リッコーヴァー推し」だったこともあって、
海軍長官が鶴の一声で、承認の手続きを行なわれ、彼は昇進しました。
アメリカ海軍においては、海軍大尉の95%は、
どんなに優秀でも退役しなければならないのが掟です。
なぜなら、提督になるための可能性は5%しかないからです。
リッコーヴァーのような技術畑の軍人が、
その5%に入ることを心情的によしとしない軍人は多かったでしょう。
そんな中、驚くべき仕事の速さで、リッコーヴァーとそのチームは
ビーム8.5メートル以下の潜水艦の船体に収まる原子炉を完成させ、
これはS1W炉として知られるようになります。
「ノーチラス」はこの原子炉を搭載して1954年に進水し、就役しました。
1973年、役割と責任は変わらないものの、
リッコーヴァーは四つ星提督に昇進しました。
これはアメリカ海軍史上、作戦ライン将校以外のキャリアパスを持つ将校が
この階級に到達した2回目の例となります。
(1回目は調達部隊出身のサミュエル・マレー・ロビンソン)
ちなみに、アジア系の初めての四つ星提督が生まれたのは2013年
ハリー・B・ハリス(横須賀生まれ、母が日本人)でした。
リッコーヴァーの任務には、戦闘部隊のような指揮統制が含まれないので、
技術的には退役リストの提督の等級に任命されました。
これは現役の提督の数の制限と関係があるそうです。
■ 原子力に対する考え
彼のキャリアが終わりに近づいた1982年、
議会の公聴会でリッコーヴァーはこう証言し人々を驚かせました。
”私は、原子力発電が放射能を発生させるなら、価値はないと思っています。
では、なぜ原子力船を保有するのかと問われれば、それは必要悪だからです。
それは必要悪なのです。
私なら全部海に沈めてしまいます。
私は、自分が果たした役割を誇りに思いません。
この国の安全のために必要だからやったのです。
だから戦争というナンセンスなものを止めることを強く主張するのです。
残念ながら、戦争を制限しようとする試みは常に失敗してきました。
歴史の教訓は、戦争が始まると、どの国も
最終的には利用できる武器は何でも使うということです。
放射線を出すたびに、ある半減期、
場合によっては数十億年の寿命を持つものが発生する。
これらの力を制御し、排除しようとすることが重要なのです。”
その数ヵ月後、引退したリッコーヴァーは、
核海軍の創設に貢献したあなた自身の責任について後悔はないかと問われ、
後悔はありません。
この国の平和を守るために貢献したと思っています。
なぜ後悔する必要があるでしょうか。
私が成し遂げたことは、国民の代表である議会が承認したことです。
皆さんは、警察の警備のおかげで、国内の敵から安全に暮らしている。
同様に、皆さんは外敵から安全に生活している。
それは、軍隊が我々を攻撃から守ってくれているからです。
あの当時、核技術はすでに他の国で開発されていました。
私に与えられた任務は、海軍原子力の開発でした。
私はこれを達成することができたと思っています。
と答えました。
■ リッコーヴァーという人
彼は「同時代で最も有名で論争の的になった提督」と呼ばれました。
多動で、ぶっきらぼう、対立的、侮辱的、仕事中毒で、
階級や地位に関係なく常に他人に高い要求を突きつける人物でした。
そして「平凡さにはほとんど、愚かさには全く容赦しなかった」
彼の軍事的権限と議会からの委任された力は
アメリカ艦隊の原子炉運用に関して絶対的なものでしたが、
その支配的な性格は、しばしば海軍内部の論争の対象となりました。
乗組員が原子炉を安全に運転する能力があるかどうかを見極め、
事実上軍艦を現役から外す権限を持っていた彼は、
実際にも何度かそれを容赦なく実行しています。
作家で元潜水艦乗組員のエドワード・L・ビーチ・ジュニアは、
晩年の彼を「次第に衰えた力を顧みない」「暴君」と呼びました。
■死去
1986年7月8日、バージニア州アーリントンの自宅で死去、享年86歳。
彼の追悼式で、レーマン海軍長官は(リッコーヴァーの天敵)
声明で次のように述べました。
「リッコーヴァー提督の死によって、海軍とこの国は、
歴史的な偉業を成し遂げた献身的な将校を失った。
提督は63年間の勤務の中で、原子力の概念をアイデアから
現在の150隻以上のアメリカ海軍の艦船にもたらし、
3000隻にわたる無事故の記録を打ち立てた」
また、海軍作戦部長だったジェームズ・ワトキンス提督は、
「最も重要なことは、彼は師であったということです。
彼は基準を設定した。
彼の下にいたものは大変な思いをしたかもしれない。
しかしそれが彼の貢献を研究するすべての人に残した遺産であり、
今後の我々の課題でもあるのです」
と述べてこの不世出の天才の死を悼みました。
リッコーヴァー萌え
続く。