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USS「フライアー」とサバイバル個人衛生携行品〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館

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USS「シルバーサイズ」潜水艦博物館シリーズの最初の頃、
「シルバーサイズ」と同期で災難に遭ったアメリカ潜水艦について、
入り口に展示されていたいくつかの写真や物から紹介したのですが、
全ての展示を紹介し終わったと思ったら、そのうちまだ
USS「フライアー」の遭難に関する展示物が残っていたのに気がつきました。

今日は前回のおさらいをしつつそれを紹介します。



まずこのパネルを思い出してください。

1944年8月13日日曜日の午後10時近く、曇天の暗い空。
西に稲妻が点滅しました。

USS「フライアー」は、フィリピンのバラバク海峡に向かって
南南西に17ノットの速度で航行しています。

潜水艦は目立たないように静かに航走を行います。
暖かく、穏やかなうねりがデッキ全体を洗い流していきます。

9人の乗員がスピードを上げる潜水艦のブリッジと見張り台に立っています。

彼らが目標とするのは、南シナ海における日本の護送船団です。
海面を航走しながら「フライアー」は「絶好調」でした。
(makes good time.)

夜間でも発見されるリスクはあるので、さらなる見張りが
敵の哨戒に備えて海と空をどちらも警戒するのです。
このあと、「フライアー」はバラバク海峡を浮上して航行中、
日本軍の機雷に触雷して2〜30秒ほどで沈没しました。



ここで、「エターナル・パトロール」(永遠に哨戒中)
という、戦没潜水艦を記録するHPから、
「フライア」の記述を書き出してみます。

ジョン・D・クロウリー(CDR John D. Crowley)率いる「フライア」は、
1944年8月2日に西オーストラリア州フリーマントルを出発し、
第2次哨戒活動を行った。
ロンボク海峡、マカッサル海峡、セレベス海、シブツ航路、
スールー海を経由して、フランス領インドシナ、
サイゴンの東に位置する地点に向かう予定であった。
8月13日の夕方までにスールー海を抜け、
パラワン島の南にあるバラルバック海峡を通過していた
2200、災難が襲った。

突然、右舷前方で起こったと思われる大爆発がボートを揺るがしたのだ。

ブリッジにいた数人が負傷し、司令官はブリッジの後部に投げ出されたが、
しばらくして正気を取り戻した。

油と水と瓦礫がブリッジに溢れかえっている。
燃料の強烈な臭いがし、コニングタワーのハッチから
ものすごい勢いで空気が抜け、下からは浸水音と男たちの悲鳴が聞こえた。

副長のリデル中尉は、CDRクロウリーと話すためにハッチの下に降りたが、
ハッチから逆流する水に吹き飛ばされた。
そして彼の後ろからは男たちが流れ出してきた。

20秒か30秒の間に、フライアはまだ15ノットで航行しながら沈没した。
司令官は、爆発は機雷との接触によるものと判断した。

生存者の証言によると、沈没後、以下の人物が水中で目撃された。

Crowley, J. D., CDR;
Liddell, J. W., Jr., LT;
Jacobson, A. E., ENS;
Howell, A. G., CRT;
Tremaine, D. P., FCR2c;
Miller, W. B., MoMM3c;
Russo, J. D, QM3c;
Baumgart, E. R., MoMM3c;
Knapp, P., LT;
Casey, J. E., LT;
Reynolds, W. L., LT(jg);
Mayer, P. S., ENS;
Hudson, E. W., CMoMM;
Pope, C. D., CGM;
Madeo, G. F., F2c;

レイノルズ中尉はハドソンと同様に負傷し、
生存者全員が集まるようにとの指示があったとき、
彼らとポープは再び姿を現さなかった。

マイヤー少尉はハウエルに助けられたが、
20分ほどで意識を失い、放棄せざるを得なかった。
燃料油の臭いが立ち込める暗闇の海で立ち泳ぎをしながら、
艦長は点呼を取り生存者を集めました。
その結果、艦橋にいたクローリー艦長以下14名が生き残り、
その他72名の士官と兵員は、艦と運命を共にしたことがわかりました。

沈没地点は陸地からわずか3マイルでしたが、空が暗く曇っていたため、
艦長は明るくなるまでその場で立ち泳ぎをすることを命令しました。



「この間、ケイシー中尉は油で目をやられ、何も見えなくなっていた。
4時頃、彼は疲れ果て、他の隊員は彼を置いて去らざるを得なくなった。

クローリー中佐は、最速で泳ぐことが唯一の希望であることを悟り、
全員に対して、見えてきた陸地に向かって最善を尽くすように指示した。
マデオは遅れをとり始め、5時過ぎには見えなくなった。」

その後何人かが脱落していき、海岸にたどり着いたのは艦長以下8名でした。

その後、生存者たちは、たどり着いた島での壮絶なサバイバルの末、
現地にいたフィリピン人ゲリラと接触し、なんとか生還を果たしました。
その「何とか生還」するまでの過程を記した展示が今回見つかりましたので、
その壮絶なサバイバルを書き残しておきます。



パラワン島の地図に記された矢印は、「フライア」の生存者の辿った
生還までの道筋の様です。



8月13日(日)
USS「フライアー」、バラバク海峡近くに仕掛けられた
日本の機雷に触雷し、午後10時過ぎ沈没。

8月14日(月)
8名の生存者、マンタングル島まで15マイルを17時間半で泳ぐ。

8月15日(火)
生存者は再編成し、島を偵察したが、食べ物も水も見つからず、
しかたなく東側にある未知の島に向かうことを決定。

8月16日(水)
全員で筏を作り、ビヤン島に向かう。
まだこの時点で食糧は全く見つかっていない。

8月17日(木)
飢えと渇きに苛まれた男たちはビヤン島でも何も得ず、
隣のガブン島に移動、ここも無人島であった。
そこでガブン隣のバグスク島に建物があるのを認める。

8月18日(金)
バグスク島に筏で漕ぎ着ける。
ここで廃村になっている集落に滞在した。

8月19日(土)
バグスク島の見張りが午前8時「フライアー」生存者グループを発見。
彼はジャングルの隠れ家に一向を案内し、
生存者たちは数日ぶりに食べ物にありつく。

8月20日(日曜日)
今日で遭難してからちょうど一週間め。
ゲリラたちは生存者たちにバグスク川まで案内し、
ボートを用意してくれると言うSula La Hudという人物に会わせてくれる。
その日の4時、メンバーはボートで出発する。
8月21日(月)
スーラ・ラ・ハッド、ニックネーム「セイラー」という男は、
彼らに同行し、パラワン島にあるケープ・ブリルヤンという
ゲリラ前哨基地に向けて暗礁の海を航行してくれた。

午前3時30分到着し、その日の午後遅く、ブルックのPtに向かう。


8月22日(火)
リオ・チューバに一晩滞在。


8月23日(水)
男たちはブルックのPtに午前8時ごろ到着。
ゲリラたちは安全のために「フライアー」乗員を山の隠れ家に移動させる。

おそらくゲリラの基地

アーサー・ハウエル(電気技師?)が沿岸警備の無線機を修理した。
その夜、軍曹はマッカーサー元帥の米陸軍司令部に、
フライヤーの沈没と生存者について無線で報告する。

8月24日(木)
ブリスベーンにいたマッカーサーの米陸軍司令部が無線に答える。
陸軍司令部はこれを海軍の第7艦隊に転送する。

8月26日(土)
マッカーサーの米陸軍司令部、ブルックスのPtに返信し、
海軍第7艦隊司令部から届けられた救助計画を指示。
内容は、生存者は米海軍潜水艦の救助に答える通信を待てとのこと。

8月27日(日)
「フライアー」グループ、アメリカ潜水艦とのランデブーをアレンジ。
沈没してから今日で二週間め。

8月28日(月)
夕刻、「フライアー」の艦長クロウリーが無線で
協議した救済計画についてマッカーサーの陸軍司令部に打電。
それは第7艦隊司令部に送信される。

8月29日(火)
深夜1時、司令官クロウリーはレスキュープランを受け取る。
USS「レッドフィン」が翌日夜ピックアップに来るとのこと。

8月30日(水)
夕刻、「レッドフィン」と生存者たちは、近海にいる
小さな日本の船舶の周りを避けながら慎重に連絡をとった。

8月31日(木)
「フライアー」の生存者はUSS「レッドフィン」に移乗成功。
オーストラリアへの出発を準備する。


USS「レッドフィン」(SS-272)に収容された生存者8名のうち7名

前列左より

ジェームズ・ルッソ
ウェズリー・ミラー
アール・バウムガート
アーサー・ハウエル

後列左より

ジム・リデル大尉
ジョン・クロウリー艦長
アル・ジェイコブソン少尉

撮影者 ドン・トレメイン

1994年の生存者同窓会

左より
アル・ジェイコブソン少尉
ジム・リデル大尉
ジョン・クロウリー艦長
ウェズリー・ミラー
ジム・ルッソ

後のメンバーは会に参加できなかっただけで、
当時は全員まだご存命だったそうです。
さすが強運の生存者。


ここでアメリカ軍の戦闘食が展示されていました。

「パーシャルディナーユニット メニューNo.4」には、

缶入りミート か、チーズ
缶入りデザート
が、カートンに混入されている缶のなかに見つかるでしょう

という、直訳すればなんだかふざけてるような説明付きです。
もちろん「フライアー」の乗員はこんなものを持ち出す間も無く
ボートは沈んでしまったので、苦労したんですけどね。

これもカートンに「混入」していたのかな?

ネスカフェのインスタントコーヒー、
グラニュー糖
ブイヨンパウダー(お湯に溶かすとスープの出来上がり)
クラッカー
スペアミントガム1枚
チャームス(キャンディ)
キャメル(タバコ多分5本くらい)
V.D(タバコ用マッチ)

コンビーフ・ハッシュの缶



ポークランチョンミート、「スパム」です。

ホーメル・フーズ・コーポレーションが製造する調理済み豚肉缶詰で、
1937年に発売され、第二次世界大戦中の使用により人気になりました。

もともと、あまり売れなかった豚肩ロースを売るために開発されたもので、
「SPAM」の意味は、社外秘となっており、
世間では「スパイスの効いたハム」の縮約形とか、
「Shoulder of Pork And Ham」の頭字語と推測されています。

第二次世界大戦中、前線に新鮮な肉を届けることが困難であったため、
スパムはアメリカ兵の食事の一部として流通するようになります。

あくまでも代用食という位置付けだったせいで、兵士からは

「健康診断に合格しなかったハム」
「基礎訓練のないミートローフ」
「特別軍の肉」

などと呼ばれていたようです。

スパムが世界に広がったのも戦争がきっかけでした。
戦争とそれに続く占領下で、グアム、ハワイ、沖縄、フィリピン、
および太平洋の他の島々に導入され、すぐに先住民の食生活に吸収され、
ある意味アメリカの影響力の歴史と影響を示す存在ともなったのでした。

イギリスでは第二次世界大戦の配給とレンドリース法の結果として、
これが国民の口に入ることになり、マーガレット・サッチャーは
後にそれを「戦時中の珍味」と呼んだとか。

また、スパムは第二次世界大戦中の連合国であった
ソビエト連邦への援助の一環として送られていました。

ニキータ・フルシチョフは回想録『フルシチョフの記憶』の中で、
「スパムがなければ、我々の軍隊を養うことはできなかっただろう」
と述べています。

戦争中、紛争で荒廃し、厳しい食糧配給に直面した国々は、
スパムを高く評価するようになりました。

かつてはアメリカ領であった沖縄では、卵と一緒におにぎりに入れたり、
沖縄の伝統料理であるチャンプルーに主食として使われたり、
現在でも地元のファーストフードチェーンのジェフでは
スパム・バーガーが販売されているのだとか。

ただまあ・・・あくまでも「非常食」「代用食」的商品なので、
日本で特に最近これを食べる人はあまり多くない気がします。

話が長くなりましたが、スパムの近くにあるのはキャラメルです。



「Personal Hygiene Items」

ウォルドルフ・トイレットペーパー・パケット
包装には、
「MADE FOR THE U.S. ARMY
BY THE MAKER OF The Waldorf A Scott Tissue」
「REG. U.S. PAT OFF」
「SCOTT PAPER CO, CHESTER, PA」

”U.S. PAT OFF."、"SCOTT PAPER CO., CHESTER, PA. "

と印刷されています。

このトイレットペーパーは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、
兵士に毎日配られたものです。

パーソナル・ハイジーンとは、文字通り「個人衛生」で、
兵士個人の健康を維持することを目的とした一連の習慣のことです。

効果的な個人衛生を維持するために、各兵士は、
現場や配備で使用する個人衛生用品を備蓄しておかなければなりません。

トイレットペーパーはもちろんですが、現代のアメリカ陸軍の規則では、

除菌ワイプ
シャンプー
シェービングキット
石鹸
日焼け止めローション
トイレットペーパー
歯ブラシ
歯磨き粉
タオル
ウォッシュクロス
吸水性ボディパウダー
アルコール系ハンドサニタイザー
制汗剤/デオドラント
くし
デンタルフロス
DepartmentofDefense-approvedinsectrepellent
(国防総省認可の防虫剤)
点眼薬
女性用衛生用品
フットパウダー
ヘアブラシ
リップバーム
処方薬(例:避妊薬、血圧計、その他)

などの携帯用品は軍から支給されます。
ちなみに写真の後ろに見えている煉瓦の様なものは
当時アメリカ陸軍から支給されていた石けんなのだそうです。

ところで、個人衛生の中でも、特に重要なのが排泄。
アメリカ陸軍では、

「衛生とは、下水や排水などの固形廃棄物や
不健康な人間の排泄物を適切かつ衛生的に処分・処理することである」

と定義しています。

そして、
「現場で発生する廃棄物を適切に管理することは、
兵士の健康や環境を守るために非常に重要である。
これらの物質を不適切に扱うと、危険な作業環境を作り出し、
重要な天然資源を損傷し、任務達成を妨げ、
訓練地に取り返しのつかない損害を与えることになる。

また、不適切な廃棄物管理は、刑事罰や民事罰、多額の清掃費用につながり、
地域社会やホスト国との軍の関係も損ねることになる。」

として、現場での廃棄物管理について、
厳しく収集と処理を奨励しています。

そのため、アメリカ陸軍では 携帯用トイレシステムを配布していますが、
一般に、米国内では即席便所(猫穴やスリット溝など)の使用は、
生態系や法令上の制限により、あまり一般的ではなくなってきています。

あと、アメリカらしいのが口腔衛生についてで、

「口腔衛生の問題は、即戦力の問題である。
精力的に口腔衛生を維持できない兵士は、すぐに非配備になりかねない。」
と激しく言い切っています。

口腔内の細菌を放置すると、でんぷんや砂糖を使って酸を作り出し、
すぐに歯肉炎や虫歯になる可能性がある。
数日間ブラッシングを怠ると、歯茎に炎症が起こり、
歯茎から出血することもある。
すでに歯周病がある場合は、すぐに悪化してしまうので、
虫歯と歯周病を予防するために、
兵士は常に良い口腔衛生習慣を維持しなければならない。

として歯磨きを1日2回、フロスを必ず1日一回するようにとしています。
たとえ水道水が使えない状態でも、
陸軍ではそれ専用の歯磨きをすることが厳しく決められているのです。


海底に眠るUSS「フライアー」


続く。





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