シカゴの科学産業博物館に展示されたU-505について、
捕獲とその経緯、U-505の最後の航海、そしてついには
U-505がシカゴにやってくるに至った経緯、その50年後、
現在の展示位置に移設されたときのドラマチックな物語と、
いろんなことを少しずつ取り上げてきたわけですが、
肝心のU-505の艦体内部は一体いつになったら見られるんだ、
と思われた方、もう少しお待ちください。
地下に展示されているU-505の内部ツァーに辿り着くまでに
我々は博物館の展示を見ながら進んでいくわけですが、
内部にアクセスするには、まず予約をしなくてはなりません。
わたしも潜水艦のゲートまで行ってみましたが、
そこでは午後からのツァーに申し込んで、時間まで
他の展示を見て時間を潰し、また帰ってこなくてはなりませんでした。
というわけで、今日はU-505の周辺展示の残りをやります。
■ タスクフォース22.3及びU-505乗員名パネル
もう少しで展示場を出るというとき、
U-505を捕獲したハンターキラータスクグループの旗艦、
USS「ガダルカナル」の全乗員名簿が現れました。
乗っている人数が多いので、左の縦一列は全て士官、
二列目から下士官兵となります。
「ガダルカナル」の右側は艦載機の航空団VC-8の名簿となります。
ハンターキラーグループの駆逐艦群乗員名簿が並びます。
USS「ポープ」「ジェンクス」。
U-505への乗り込み決死隊を派遣したUSS「ピルズベリー」も。
USS「フラハーティ」、そしてU-505の乗員名簿も。
艦長のハラルド・ランゲ大尉はOberleutnant zur See、
Maschinenmaat、Matrose、Bootsmaat、Sanitatsgast、
とドイツ語で階級が記され、敵とは言え戦った相手への敬意を感じます。
そして、一番下に、
Killed in action during the Capture of U-505
(U-505捕獲戦闘中死亡)
Fischer, Gottfried Oberfunkmaatフィッシャー、ゴットフリート 無線技師
と書かれているではありませんか。
Oberfinkmaatとは、無線技師の下士官階級では最高ランクで、
任務は、船上および陸上の海軍無線局での無線業務、つまり無線機、
無線方向探知機、水中電信機、聴音機などの操作と保守を行います。
このキャリアの資格条件としては、優れた聴覚、強い神経、技術的な理解力、
素早い理解力、そして可能な限り自由に間違いのない文章が書けることです。
■ 1944年6月4日
最後に迫力の模型が用意されていました。
ハンターキラータスクグループの旗艦「ガダルカナル」と
U-505の乗り込み決死隊を出した「ピルズベリー」のあの日の瞬間です。
星条旗の下には、U-505に乗り込んでハッチを降り、
沈没を阻止するべく命を張っている決死隊が描かれています。
「ガダルカナル」の甲板には、艦載戦闘機部隊が着艦しています。
彼らがU-505を発見し、「ピン留め」のために爆弾を落とし、
沈まない程度に雨霰と攻撃を加えて損傷を与え、
U-505の浮上を余儀なくさせた最初の功労者となります。
艦尾側航空甲板には、すでに何機かの帰還した航空機が。
「ピルズベリー」の艦橋上にも司令官らしき姿あり。
おそらく、艦長とアール・トロシーノ中佐がここにいるでしょう。
爆雷を落とした後なので、艦尾の爆雷ラックに人がいて、
各対空砲座にはまだ人員が配置されている状態です。
ここですかさずギャラリー提督のありがたいお言葉が。
「U-505潜水艦は、未来の世代やアメリカ人に、
戦争の現実と、自由を守るために父親たちがつかみ取ったチャンスを
思い出させるものでなければなりません。」
-ADMIRAL DANIEL V GALLERY
■ 米国商船艦隊(U.Sマーチャント・マリーンズ)
ピッツバーグの「ソルジャー&セイラー軍事博物館」の紹介で
当ブログではマーチャント・マリーンズについて説明したことがあります。
全くの余談ですが、テレビドラマ「デスパレートな妻たち」で、
主人公の一人スーザン・マイヤーズが、母親から、
彼女の父はマーチャント・マリーンズにいたけれど、ベトナムで戦死した、
と聞かされて育ったことを意中の人マイクに言ったところ、
「おかしいな・・マーチャントマリーンズはハノイに行っていない」
と不審がられ、母親を問い詰めると、それは全くの嘘で、
実はスーザンは、町内の妻帯者と母が不倫してできた子供だった、
というショッキングな真実を知るというストーリーがありました。
でっていう話ですが、アメリカの軍事について詳しくなると、
アメリカのドラマを見ていても、理解しているとしていないでは
文化そのものへの視座が変わってくることすらあるので、馬鹿にできません。
このマーチャントマリーンズの件でも、アメリカ人ですら
ベトナム戦争中の軍事について詳しい人は稀らしいということを知りました。
それはともかく、ここになぜ米国商船隊の模型があるかというと、
おそらくU-505捕獲の瞬間を再現したモデラー(プロ)が
こちらも作ったのでついでに展示してほしいと頼み込み、
商船隊トリビュートコーナーができたのではないかという気がします。
(流れからしてちょっとこの部分だけ異質な話題なのでそう思っただけ)
さて、それではここに何が書かれているかといいますと、
米国商船隊
ファースト・トゥ・ゴー、ラスト・トゥ・リターン
(最初に行き、最後に戻る)
もし米国商船隊の努力がなければ、
連合国は、第二次世界大戦に勝利しなかったかもしれません。
船員たちは、日々命がけで装備や物資、人員を戦場に運んでいました。
ほとんどのアメリカ人にとって、第二次世界大戦が始まったのは
1941年12月8日、アメリカ合衆国がパールハーバーで壊滅的な打撃を受け、
これを受けて日本に宣戦布告したときだという認識でしょう。
しかしながら、米国商船隊にとって、戦争はもう少し早く、
つまり枢軸国から自国を守ろうとする大英帝国やその他の国に
重要な物資や戦争資材を輸送している時から始まっていたと言えます。
第二次世界大戦で最初に犠牲になった船は、「MSシティオブレイヴィル」、
1940年11月9日にオーストラリア近海でドイツの機雷により沈没しました。
亡くなったのは一人、甲板にいた水夫でした。
その後、商船隊の船はドイツのUボートの優先ターゲットになります。
戦争が終わるまでに何百隻もの商船が沈められ、
それに伴い何千人もの商船隊の海の男たちが、
ファシズムの脅威から解き放たれるための戦いに身を投じ、
命を失っていくことになりました。
1944年のクリスマスに、ボブ・ホープは世界中の商船隊の人々に
このようなメッセージを発しました。
「Zメンの諸君!
聞こえているか、Zメンの諸君?
まるでギャグみたいに聞こえるかな、どうだろう?
でもそうじゃないんだ。
Zメンというのは、アイク元帥の陸軍やニミッツ提督の海軍が、
その存在なしでは生きてはいけない、そんな人たちなんだ。
5千7百ものそんな人たちが敵の魚雷で、機雷で、爆弾で、銃弾で、
パールハーバーのその瞬間(ゼロ・アワー)から死んできた。
彼らこそがZメン、商船隊の誇るべき男たちなんだ」
SS「ジェレマイア・オブライエン」
当ブログでは、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフに
常態展示されている「ジェレマイア・オブライエン」について
見学した記事を過去に挙げたことがあります。
戦争中、早急な必要性から、実に1隻のペースを週単位で建造した
粗製濫造の?徴用船「リバティ・シップ」の一つでしたね。
【SS 『ジェレマイア・オブライエン』モデル 】
商船隊の最も強力な資産の 1 つはリバティシップと呼ばれる徴用船群であり、
SS「ジェレマイア・オブライエン」がその例です。
リバティ・シップは、戦争の最前線に十分な供給を維持するために
必要な人員と物資を輸送しました。
リバティシップは安価で、建造も迅速でした。
1941年から1945年の間に、実に2,751 隻が16の造船所で建造されました。
これは、単一の設計で製造された船の数としては過去最多です。
1943年6月19日に進水したSS 「ジェレマイア・オブライエン」は、
第二次世界大戦中、米国からイギリス、北アイルランド、南アメリカ、
インド、オーストラリアを目的地とする 7 回の補給航海を完了しました。
彼女はまた、ノルマンディー海岸におけるD-デイ侵攻を支援するために
イギリス海峡を11 回横断しています。
今日SS「ジェレマイア・オブライエン」は、
サンフランシスコのフィッシャーマンズ ワーフで一般公開されています。
これは、第二次世界大戦のすべてのリバティ シップの誇り高い記念碑です。
【米国商船隊慰霊碑文】
第二次世界大戦中に敵によって沈められた733 隻の商船に乗って
無私の命を捧げた 5062 番の勇敢な商船員の記憶に捧げる
また 第二次世界大戦中 敵から商船を守るために命を落とした
1810名の米国護衛隊の人々にも
「米国商船隊」
これらの勇敢な船員たちはすべて志望して生命の危険を顧みず
軍隊の輸送に必要な義務を果たし すべての戦場に物資を供給し
第二次世界大戦の最終的な同盟国の勝利に多大な貢献をした
「エンジン停止」
この言葉を打電する最後の瞬間まで 決して諦めず
死んでいった 誇り高き全ての勇敢な男たち
だからこそ人は自由を手にすることができる
「連合国のすべての人々は、商船隊将校と水兵の忠誠心、
勇気、不屈の精神にただちに賞賛を表明します。
私たちは、自分自身にそうであるように、
彼らに義務への完全な献身を期待し、彼らはというと、
今後のすべての闘争において、私たちを決して裏切ることなく、
また決して躊躇することもないでしょう。
最終的な勝利を我々のものにしようとするとき、
その信用を共有するのに商船隊以上にふさわしい組織はありません」
ドワイト・D・アイゼンハワー将軍
■ 海軍女性部隊に捧ぐ
「私たち女性がやりたかったことは、
戦争を終わらせて、他の生活に戻ることだけでした。」
ミルドレッド・マカフィー・ホーター大佐
WAVES 初代司令官
そんなごもっともなことばが冒頭に書かれています。
ちなみに自分の過去ログから探してきたホーター大佐のお写真。
空で、海で、陸で〜ミリタリーウーマン
Woman At Warというこのコーナーにはこのようにあります。
第二次世界大戦中、400,000 人以上の女性が
米軍、陸軍、海軍、海兵隊、沿岸警備隊に勤務しました。
これらの女性たちは、戦争のあらゆる場面で勇気を持って任務を行いました。
その結果、88名の看護師が捕虜として拘束され、
460名以上が兵役中に命を落とす結果になりました。
そのうち最大の派遣を行ったのは
WAVES=Women Accepted for Volunteer Emergency Services
(志願緊急女性任務隊)
で、人数は10万人に上ります。
1942年7月、ルーズベルト大統領が夫人エレノアの勧めで署名し、
この議会法によって正式にアメリカ海軍の一部となりました。
WAVESの当初の目的は、男性の配置であった陸上任務に、
彼らを戦地に送るために置き換えて就かせることにありました。
戦争が激化するにつれ、女性たちは、それまで男性が占めていた
無線通信士や医療技術者から航空交通に至る幅広い海軍の職業で
その技術を発揮していくことになります。
WAVESが戦争遂行にもたらした最大の貢献の 1 つは、
アメリカ諜報部の「ボムマシン」の制作と運用だったと言えます。
これにより、アメリカ海軍はドイツのエニグマ通信を解読できるようになり、Uボートの位置を特定してその攻撃力を封じることができました。
さて、といわけであとは奥のエレベーターで地上階に出るだけ、
という最後のホールがこれ。
最後に、U-505展示に協力したスポンサーなどの名簿があります。
最も高額の寄付をしたのは、マコーミック記念財団と、
イリノイの政財界団体で500万ドル以上、
10万ドル〜250万ドルクラスになると、個人名がほとんどです。
少額の寄付者の名前も記されています。
そして、この最後のコーナーにU-505の錨が展示されていました。
U-505潜水艦は国のランドマークであり、
両世界大戦中に海で亡くなったアメリカ人への永久的な記念碑です。
この錨は、アメリカ人の勇気、献身、犠牲の象徴としてここに置かれました。
重量1,100ポンドのこのアンカーは、
艦首の構造修理中にU-505 から取り外されました。
泥や砂を掘るために選ばれたホール・ストックレスタイプのアンカーは、
82.2ファゾム (ほぼ500フィート) の錨鎖に取り付けられていました。
エレベーター横にあった、
超大型寄付をおこなったマコーミック財団のダメ押し。
「マコーミック財団は、これらの功績に奉仕した人々に敬意を表し、
U505展示を支援できることを誇りに思います」
ふと上に目を見やると、そこにはUSS「ガダルカナル」の艦番号が。
続く。