しばらく海外の古い戦争映画が続いたので、この辺で
戦中の国策映画を取り上げることにします。
「愛機南へ飛ぶ」
この有名なタイトルは耳にしたことのある方も多いでしょう。
わたしは一度、出征した軍人の遺書の中にこの言葉を見た覚えがあります。
海軍国策ものである「水兵さん」と同じく、(制作は1年違い)
こちらは陸軍航空兵のリクルートが目的にもなっています。
正直、日本の戦意高揚国策映画に面白い作品があったためしはないですが、
1943年という戦争真っ最中の作品ということで
我々が思う以上に皆に観覧され、人気もあった作品です。
■ 映画配給会社という名の映画配給会社
「一億の 誠で包め 兵の家」
「映画配給会社」(社名)の配給した作品の最初に現れる標語です。
映画配給会社は第二次世界大戦の間存在した映画配給会社で、
1942年に創立し、1945年8月15日に解散しました。
わかりやすく戦時高揚映画配給を目的とした軍御用達会社だったわけです。
1942年2月、政府は映画統制令を出し、
全ての娯楽映画としての制作は禁止されることになります。
松竹、東宝、大映、日本映画社の4社が合同で出資され、
戦時中の作品とニュース映画を引一括して配給していました。
その配下に書く映画制作会社がいて、実際の制作を行います。
そして、映画配給会社、通称「映配」の作品には、このロゴか、
「撃ちてし止まむ」
のどちらかが必ず最初に登場しました。
(こちらは『乙女のゐる基地』で見た覚えがある)
ロゴに続き「情報局国民映画」の文字が現れ、やっとタイトルです。
■ 子は国の宝
水野家は民間船舶会社の船員を一家の主人とする平凡な家庭です。
昭和2年のこの日、家の居間で、若い夫婦が
8歳になった息子の武の将来について話し合っていました。
父親の水野氏を演じるのは佐分利信。(おそらく客寄せキャスティング)
それが宿命とはいえ、明日からまた何ヶ月も母と子を置いて船に乗る生活。
最後の休暇の夜、夫婦は息子の武の将来について語り合っていました。
「わたしはお医者さんになってほしいわ・・。
船乗りは、ちょっと・・・・」
明日からまた母子二人の生活が始まると思うと、
息子を船には乗せたくないという本音がつい出てしまう妻でした。
夫は思わず苦笑しますが、彼女の意見に賛成も反対もせず、
ただ一つ、丈夫で清らかな子供になってほしいと言い、出港していきました。
■ 父の訃報
そして5月27日。
この日は海軍記念日でした。
東京では海軍の大行進が行われる慣例がありました。
当時の実際の行進と観衆の様子を見ることができます。
これは銀座周辺だと思われます。
有楽町、丸の内・・・東京中を正装した海軍の分列が歩き、
人々はそれを見るために沿道に集まり、大変賑わいました。
川が見えますが、現在上に首都高が走っている場所ではないかと思われます。
都電の線路も見えますね。
この日老男女は海軍行進を沿道で旗を振って声援を送りながら見送ります。
「海軍記念日」は当時初夏の季語にもなっていました。
息子武が友達と海軍行進を見に出かけた後、
鎮痛な面持ちの船舶会社の社員が水野家に悲しい知らせをもたらしました。
航路の途中、水野氏が病気にかかって急死したというのです。
一家の主人を失った母子は、母の故郷にやってきました。
母は、息子を実家に預け、自分一人で東京で働くつもりでした。
会社からの弔慰金などはもらえましたが、それだけでは備えとして不安なので体の弱い武を田舎で静養させている間、洋裁でなんとか身を立て
将来のたくわえにしようと考えたのです。
母が自分を置いて東京に働きに行く決意を告げると、
武は寂しそうな、不安そうな様子を隠しません。
都会っ子で体の弱い武は、このころ地元の子供たちの遊びの輪からも
得てして遅れをとるような状態でした。
母親の考えを変えたのは、学校で母親向けに行われた講演会でした。
今でいう?「母親教室」みたいなものです。
講師(笠智衆)は、親の愛情が子供の一生にとって大切であることを説きます。
「子供を苗木に喩えるならば、母親は太陽となって照らし、温めることで
水も肥やしも十分に彼らい吸収させることができるのです。
子供は国家の将来を担うお国からの大切な預かりものなのです。」
その言葉にハッと胸を打たれた母は、決心しました。
息子はどんな苦労をしても自分の手元に置いてここで育てようと。
そして、10年の時が流れ、昭和12年7月7日。
盧溝橋でのちの日中戦争の戦端となる事件が起きたのと同じ日、
水野母子の暮らす中学校では軍事教練が行われていました。
その指揮を執る生徒は、すっかり逞しく成長した水野武でした。
演じるのはこの頃の国策映画の常連で主役などを務めたご存知原保美です。
母は実家の郵便局で働きながら息子をここまで育ててきました。
顔見知りの村の医師は、すっかり丈夫になった武に感嘆します。
「来年は進学ですな。どんな道に進むんですか」
「はあ、できれば先生と同じ方面に行ってくれればと・・」
「医者ですか。いや、これからは経済をさせなさい」
先生、なぜだ・・・・。
しかし武が進みたいのは医学でも経済でもありませんでした。
ある日思い詰めたように、母に告げます。
「士官学校に行って飛行機に乗りたい」
母は呆然とします。
今の不安定な世情で軍人になりたいというだけでも心配なのに、
さらに危険な航空に進みたいと言い出すとは。
「お母さんはもっと・・静かな仕事の方があなたに向くと思ってたんだけど」
「お父さんが船に乗ったように、僕は飛行機に乗りたいんです!」
もちろん母の心情としては反対が先に立ちます。
しかしその夜、亡き夫の写真を見ながら夫の遺した日記を見ていた彼女は、
「子供は夫婦の子であると同時に国家の子である。
父は父の道を行く、汝は汝の進む道を選べ」
という言葉を見つけてしまいました。
それを読んだとき、彼女は亡き夫の声を聞いたような気がしたのです。
次の朝、父の遺影の前で、彼女は息子に告げます。
「飛行機でもなんでもあなたの思う通りやってごらんなさい。
その代わり、お父さんの子として恥じないよう、
決して途中で諦めたりしてはいけませんよ」
それを聞いた武は顔を輝かせ、それからそっと涙ぐむのでした。
■ 陸軍予科士官学校
成績優秀だった水野武は、難関の陸軍予科士官学校への入学を果たします。
映画はここから俄然陸士の学校案内として細かく学生生活の描写となります。
陸軍予科士官学校は陸軍士官学校の文字通り予科たる機関です。
明治20年に士官学校官制が制定されると、
士官候補生学校として陸軍幼年学校予科、陸軍幼年学校本科が誕生しますが、
大正9年に、編成が変わり、幼年学校本科は予科士官学校となります。
予科在学中の生徒は「将校生徒」と称し、卒業するときに初めて
士官候補生(上等兵)となって兵科が指定されることになります。
予科士官学校は当初幼年学校本科のあった市谷台にあり、
陸軍幼年学校の卒業生、一般試験合格者(16歳〜19歳)
下士官からの受験合格組、中国、タイ、モンゴル、インド、
フィリピンからの留学生が在学していましたが、
開戦後入校者が激増すると、手狭になった市谷から、1941年、
数ヶ月という突貫工事で竹中工務店が完成させて朝霞に移転しました。
学校案内ですので、日課の概要も申し上げてくれます。
6時起床は全国共通ですね。
現在も陸上自衛隊朝霞駐屯地に残る遥拝所石碑。
(場所は当時と変わっているらしい)
遥拝所は、海軍兵学校の「八方園神社」の方位盤に相当する場所で、
宮城をはじめ日本の各地域の方角が示された方位石が置かれ、
将校生徒たちはこの場でその方角に向かって頭を下げ敬礼を行いました。
方位石の横で軍人勅諭を唱える水野武将校生徒。
そして学科についての説明です。
海軍兵学校と同じく陸士でも理化学系統の学問に重点が置かれました。
いつの時代も戦争は科学の最先端で行われるべきだからです。
対して文化系統の学問としては、国体認識を強化し、
精神的な史談を取り上げて愛国心を養うことが重要視されました。
主にその目的とするところは軍人としての精神訓育です。
あらゆる兵科の将校となるための訓練の一環として
乗馬が行われていた時期もあったということがわかります。
そういえば、第一空挺団のある習志野駐屯地には近衛騎兵連隊、
第一騎兵連隊があり、馬場があったと以前ここでも取り上げましたね。
この映像もおそらく習志野での撮影ではないでしょうか。
映像では数十頭単位の馬が大きな円を描いて駆けているのがわかります。
お次はまるで現代のレンジャー部隊の訓練そのままの障害走。
「集合教育障害走」というそうですが全国共通かどうかは知りません。
拳銃を小脇に抱えながら匍匐前進で低所をくぐり、障害物を乗り越えて。
市谷から移転した広大な朝霞の陸軍予科士官学校は、
戦後米軍に接収され、キャンプ・ドレイクとして運営されていました。
これらの施設もある程度残されたのかもしれませんが、
現在は一部を除き、ほとんどかつての姿をとどめていないと思われます。
武道も勝ち負けよりも精神性が重んじられます。
■ 陸軍航空士官学校
武は陸軍予科士官学校を卒業し、士官候補生として入校を果たしました。
陸軍航空士官学校は昭和12年、埼玉県所沢飛行場内で開校し、
昭和13年に入間に移転した航空士官養成機関です。
昭和16年、昭和天皇により「修武台」の名を賜りました。
ご存知のように、陸軍航空士官学校は戦後米軍に接収され、
ジョンソン基地となっていましたが、航空自衛隊の発足を受け、
現在は航空自衛隊入間基地となっています。
修武台と書かれたこの石碑は、現在でも入間基地内で見ることができます。
座学ではこの日、偵察についての講義が行われていました。
偵察の任務は戦闘をできるだけ避け、情報を持ち帰ることだ、
と基礎的なことから説明です。
飛行機のエンジン始動の実習シーンは、ロケの日に天気が悪かったらしく
画面が真っ暗でほとんど何をしているのかわかりません。
航空機における空中戦と剣道には合い通ずるものがあるということで、
航空学校では剣道が重視されました。
「肉を斬らせて骨を断ち、斃れてなお止混ざるの気魄を遺憾無く発揮せよ」
水泳、というか高所からの飛び込み。
どうも入間川に練習用の飛び込み台が設置されていたようです。
冒頭の見事な飛び込みを見せているのはおそらく最優秀者で、
頭から飛び込めずに足から着水している生徒もいます。
この士官候補生たちは、その後どんな戦場で戦うことになったのでしょうか。
水中騎馬戦。手前の二人、結構楽しそう。
大きなリングの内部につかまり、地面を転がっています。
現在では「ラート」という大きな2本のリングで行う車輪運動ですが、
第二次世界大戦中、「フープ」「操転器」という名称で
航空操縦士養成の訓練専門器具として採用されていました。
大戦後姿を消していましたが、もともと発祥地のドイツでは
子供の遊具として知られており、これが1989年、
大学教授が留学先から持ち帰り、スポーツとして復活しています。
ロープを高所までよじ登り、上にたどり着いたら片足バランス。
平均台の上でも結構大変なのに、この高さで・・・。
これも搭乗員として必要な平衡感覚を鍛える運動です。
予科でも行われた器械体操は、航空学校になるとより進化して。
空中回転などは基本です。
これを画面では「球戦」と称していますが、アメリカンフットボールです。
さすがにこの名前は使えないので・・・。
ただし、外来語全て禁止されていたわけではありません。(ルールとか)
瑣末なルールには拘らず、敢闘精神を発揮して。
■女子搭乗員たち
その頃。息子が航空学校に行くようになってからすっかり飛行機に目覚めた母は、
地元の子供のグライダーの面倒を見るまでになっていました。
彼女の父親と釣りに行く途中、そんな彼女の姿を見て
結構結構大いにおやんなさいと励ます恩師、笠智衆。
そのとき通りかかった武の同窓生、航空機工場勤務の菅沼に誘われ、
母は週末、霧ヶ峰の滑空場を訪れました。
霧ヶ峰は知る人ぞ知るグライダー発祥の地でした。
昭和8年にグライダー滑空場が始まって以来滑空機のメッカとして
ご覧のように、映画が制作された頃も滑空は行われていましたが、
終戦と同時に使用中の数十機と機材は焼却されました。
戦後7年の昭和27年からまた学生航空連盟などの団体が
ここでの訓練を開始し、現在も競技会が開催されています。
霧ヶ峰グライダー滑空場
どうして動力がないのに宙返りなどの操縦が可能なのか、
少年が尋ねると、航空工場勤務の青年は、
上昇気流を利用するのだ、とわかりやすく説明してやります。
そして華麗に舞っていた一機のグライダーの操縦席を見て母は驚きました。
女性だったからです。
「あれは中級機ですが、さっき宙返りをした高級機に乗る女性も二人います」
この女性は初級機パイロットです。
尾翼の後部にいる係が装置を外すと、グライダーはするすると滑走し、
そのまま斜面を降りながら飛び立つのです。
初級機は最初このように低い安全な場所から始めます。
滑空を終えると、降機し、
監視官に高度を報告し、敬礼して終わります。(ちなみに高度は4m)
滑空を済ませた機体は、皆で掛け声を出しながら元の場所に戻します。
このグライダー女子が、どこの所属で何を目的にここで訓練していたのか、
映画では説明されませんし、資料も見つかりませんでしたが、
陸軍の一部はグライダーを軍利用するための研究をしていたそうですから、
その補助として挺身隊の女子を輸送搭乗員に養成していたのかもしれません。
彼女らの様子からは、とてもグライダーを遊びでやっているとは思えません。
しかし、隊員が全員美人であることから考えても、
映画的な演出と創作であった可能性は大いにあります。
グライダー女子の存在は水野の母久子に強いショックを与えました。
そして彼女自身も何か航空に携わりたいという思いを強め、
菅沼に航空工場での仕事の斡旋をその場で依頼しました。
カーチャン・・・。
■ 卒業式
そんな母の心を知ってか知らずか、息子の武は
順調に航空士官への道を歩んでいました。
今日は初めての単独飛行です。
その日、武は旧友菅沼からの手紙を受け取りました。
それには、彼の母が航空工場の舎監として働くようになったこと、
それは間接的に息子の助けになると信じているからだ、とありました。
このあと、舎監として若い娘たちの面倒を見る久子のもとに、
武が休暇で帰ってきて父の思い出を語り合ったりするわけですが、
それら多くの場面のフィルムが欠損しており、こんな感じで解説されます。
そして次のシーンでは航空士官学校の卒業式です。
水野武は第54期卒業(1941年)という設定です。
「台湾第8068部隊付士官候補生水野武」
武は3名の成績優秀者の一人として卒業式で名前を読み上げられました。
このとき軍楽隊の奏でる儀礼曲の曲名はわかりませんでした。
卒業生は家族を伴ってそれぞれ振武台航空神社に参拝します。
遥拝所にて。
「ここで毎朝宮城と伊勢神宮を遥拝するんです。
それから、お母さんおはようをいうんです」
母は宮城の方向に深く頭を下げるのでした。
映画で武が卒業したとされる航空士官学校第54期は395名、
操縦298(偵察66戦闘82軽爆60重爆90)技術37通信36偵察24名。
そのうち戦没者は254名でした。
続く。