舞鶴訪問記を終わらないうちに怒涛の観艦式ウィークに突入してしまい、
続いて入間航空祭、そして自衛隊音楽まつり・・。
それらがようやく終了したので、舞鶴で訪問した「赤れんが記念館」について
レポートをしたいと思います。
今回、忙しすぎたせいかどうかはわかりませんが、2度の予行と観艦式の合間に
データをソフトに落としたところ、トラブルがあって幾つかのまとまった写真が消えました(T_T)
その中には「むらさめ」での艦橋で撮ったものや、
舞鶴で訪問した「あたご」で艦内をエスコートしてくれた幹部の写真、
「自分が写っている」と当ブログに連絡を下さった任務中の自衛官の写真もありました。
この自衛官にはぜひリサイズ前の画像を差し上げたかったのですが、
それもできず、今でも思い出すだけで悔しくてたまりません。
また、赤れんが倉庫街を広角レンズで撮りまくったのですが、
それもどうやら消えてしまったようです。
この反省から、イベント写真を撮ったSDカードは書き換えて使いまわさず、
保存し、外付けハードデスクを取り敢えず一台購入することにしました。
というわけで、失われた中には舞鶴でのれんが倉庫の写真や、引揚記念館の写真
ほとんどがあったため、今回報告をするにも限られた写真だけになり、
また記憶もかなり不正確になっているのですが、とりあえず始めます。
赤れんが博物館は、先日お伝えした舞鶴港クルーズの発着所のある岸壁からほど近く、
このように周りもれんがの塀に囲まれた一角にあります。
建物の全体写真をお見せできないのが残念ですが、ここは、
赤れんがの建物が沢山現存する舞鶴の中でも最も古い建築を利用して
内部を「れんがの歴史」「舞鶴の煉瓦の建物」などにテーマを絞った
展示を見せてくれる、珍しい博物館となっています。
冒頭写真はこの博物館のジオラマ展示ですが、撮り方を工夫したので
ちょっと本物っぽく見えませんか?(得意)
これはご覧になっておわかりのように、魚雷庫の中の様子です。
「赤れんが博物館」の建物は昔海軍の魚雷庫でした。
魚雷の正式名?が「魚形水雷」であったことに改めて気づく(笑)
そもそも舞鶴という町が海軍の町であり、軍港として発展したので、
ここに残された煉瓦の建物というのはすなわち海軍が使用したものばかりですが、
そのなかでも最も古いのが、1903年、明治36年に建設されたこの魚雷庫。
本格的な鉄骨構造のれんが建築物としてはわが国に現存する最古級のものとされています。
煉瓦博物館の前にはこのようなひとかたまりの煉瓦が展示されています。
これは、海軍佐世保基地施設に使われていた煉瓦の一部なのです。
海軍が鎮守府を佐世保に置いたのが1989年(明治2)。
鎮守府の建設に伴って、周囲には赤れんがの建物が建てられました。
当時の洋風建築がすべてこのように作られていたのですから当然ですね。
この煉瓦は佐世保の「赤れんがネットワーク」の会員(そんなのがあるらしい)
の手で保護され、ここに寄贈されたものです。
主役は錨ではなく、錨が叩き割っている?れんがの方。
なんですが、一応この錨も素性のはっきりしているもので、1961(昭和36)年から
1991年まで現役だった、護衛艦「いすず」のものだそうです。
「いすず」は「いすず」型護衛艦の1番艦で、舞鶴地方隊の直轄艦でした。
「れんが博物館」というくらいなので、この展示はれんがの歴史から始まるのですが、
そのほとんどの画像がなくなってしまいました。
まあ、今にして思えばれんがの古代史はここでお伝えするほどのことでもなかったので、
舞鶴工廠の資料だけが奇跡のように残っていたことをよしとすべきかもしれません。
これはれんがの歴史のコーナーにあったジオラマ。
どこかの都市でもれんがが使われていましたよ、という意味(ですよね)
万里の長城だって、れんがで作られていたんですね。よく考えたら。
舞鶴といえば海軍、海軍といえば、アームストロング社のことを抜きには語れません。
写真はご存知岩倉使節団。
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊東博文、大久保利通の使節団メンバーです。
岩倉のヘアースタイルが奇抜ですが、この格好のまま渡米しています。
一応靴とシルクハットは洋風で、和洋フュージョンが実に時代の先駆です。
ありのままの姿見せるのよ、という日本人の矜持を持ってのことだったみたいですが、
「未開人に見られる」として、同行の日本人がそれを無理くりやめさせました。
岩倉使節団は欧米でで精力的に造船所や工場を見学したのですが、イギリスで
彼らを案内して回ったのが、地元の産業資本家、W・アームストロング卿でした。
造船所で進水式を見守るアームストロング卿。
皆さんは「アームストロング砲」という名前をお聞きになったことがあるでしょう。
アームストロング社の大砲は、戊辰戦争ですでに官軍によって使用され、
発明後間もない時期からその圧倒的な力を発揮していました。
このときに岩倉使節団がアームストロング社を見学したことは、その後
海軍が同社をはじめとするイギリスの会社に艦船を発注するきっかけになりました。
帝国海軍はイギリス海軍をお手本に作られたということが知られていますが、
なぜアメリカでもフランスでもなく(陸軍はフランスにその組織モデルを求めた)
イギリスだったのか、というと、これは間違いなく岩倉使節団とアームストロング卿が
そのきっかけとなったということなのだと思われます。
伊藤 雋吉(としよし)、という名前をウィキペディアでひもとくと、
「明治・大正期の海軍軍人」
と説明がされていますが、その割に知名度が全くと言っていいほどなく、
海軍に詳しい方もこんな海軍軍人の名前は知らん、というのがほとんどだと思います。
しかし、この人物、舞鶴でたった二人爵位を受けたうちの一人で、
地元と海軍にとってはいわゆる功労者として認識されているのです。
まず海軍軍人らしいところでいうと、海軍が行ったはじめての遠洋航海の艦長として、
練習艦「筑波」の指揮をとり太平洋を横断しています。
帰路ハワイに寄港し、カラカウア王に謁見するなど親善に努めたことから、
その後の日本とハワイ間の移民渡航条約が締結され、日本人の海外移民が始まった、
となると、これは日経ハワイ移民のきっかけを作った人物ということができますね。
しかし、伊藤の最大の功績はこれではなく、明治15年にそれまで務めていた
海軍兵学校の校長を退任したあと、海軍に籍を置いたまま共同運輸という会社の
社長に就任して渡欧し、そのまま海軍のために艦船買い付けを行なったことです。
当時の日本には軍艦を造船する技術などまだありませんから、初期の海軍は
すべて「輸入艦」を買い付けてこないと海軍としての形にもならなかったのですが、
この重大な仕事を任されたのが伊藤でした。
肩書きは、海軍省艦政局長兼購買委員長。
まず伊藤が買い付けた船が、巡洋艦「筑紫」「高千穂」「浪速」でした。
浪速
「浪速」という艦に聞き覚えはありませんか?
そう、東郷平八郎が艦長であったとき、豊島沖海戦で、停止命令を無視した
「高陞号」を国際法に従って粛々と撃沈したということがありました。
ちなみにこのとき、東郷艦長は「撃沈します」と命令したそうです。
この船をイギリスで買い付けてきたのも伊藤でした。
この豊島沖海戦は日清戦争の嚆矢となるわけですが、この直前、
海軍は予算を削減され、反発した樺山資紀が国会で行った、
「てやんでえ!薩長政府とか何政府とか言っても、
今この国が平和なのは誰のおかげだってんだ!海軍だろうが!」(曲訳)
という内容の「蛮勇演説」は有名です。
伊藤はこの樺山のしたで、主に海軍装備の充実に大変な力を発揮し、
舞鶴では数少ない爵位を授けられた人物として名士となったというわけです。
ちなみに大変達筆だった伊藤は、空母「赤城」の艦体に
「あかぎ」という字を残しましたが、それはのちに海上自衛隊の護衛艦
「たかつき」の「か」と「き」に継承されました。
「たかつき」は2002年に除籍になったのですが、その後伊藤の書いた
「か」と「き」がどうなったのかはナゾです。
伊藤が買い付けた「八島」進水式の様子。
エルズウィック造船所の船台から滑り落ちる「八島」です。
さて、ここからは舞鶴工廠に残された写真をご紹介します。
これは日本海海戦で破損した。軍艦「吾妻」の砲塔。
「吾妻」は装甲巡洋艦でフランスから買い付けたものです。
日露戦争ではあの「船乗り将軍」上村艦隊の主力として活躍しましたが、
戦闘中に敵弾を受け砲塔がこのような形になってしまいました。
こちら装甲巡洋艦「日進」 の前部砲塔。
日本海海戦では第1戦隊の殿艦を務め、一時は一斉回頭により先頭を進むことがあり、
それ故に旗艦三笠に次ぐ戦傷者を出したのが「日進」でした。
「日進」
あの山本五十六(当時は高野五十六)が少尉候補生として乗り込んだのもこの艦で、
海戦中に砲身爆発により指を失うという重傷を負っています。
高野少尉候補生が怪我をした砲身爆発がこの写真のものであったかどうかは
この資料ではわかりませんでした。
これも日本海海戦で降伏した「アドミラル・セニャーウィン」。
日本軍では海防艦「見島」となりました。
砕氷艦に改装されてシベリアに派遣されたり、潜水艦母艦となったこともあります。
初めて見ました。戦艦「三笠」の進水式の様子です。
イギリスのヴィッカー社に発注され、進水式は
バロー=イン=ファーネス造船所で行われています。
出来たばかり、装着する前の「三笠」のエンジン。
直立型往復動蒸気機関という機構のものです。
日本海海戦終結後、破損した日本海軍の軍艦も、それによって
捕獲したロシア艦隊の船も、とりあえずは舞鶴に寄港したようです。
これはロシア艦隊「アリヨール」(現地発音はオリョールが近い)の海戦後の姿。
これでは甲板にいたものは誰一人助からなかったのではと思われます。
「アリヨール」の砲身。
覚えやすいように日本軍人には「蟻寄る」と呼ばれていた「オリョール」ですが、
その後補修されて戦艦「石見」となり、カムチャッカ警備についていたこともあります。
この「アリヨール」の写真は舞鶴で撮られていますが、公表するものでないためか、
後ろの山などを全く消さずにそのまま残しているのが珍しい写真です。
「石見」は大正13年に除籍となり標的艦となって海に沈みました。
沈む前、「石見」からは砲身と砲弾が取り除かれました。
与謝郡岩滝町の、西南戦争以降の戦死者の慰霊碑として、小学校の庭に
「忠霊塔」と刻まれた砲塔を中心に砲弾が配置されて置かれています。
戦争中の金属供出を免れ、戦後はGHQの「軍パージ」からも不思議と逃れ、
現在もそこにあるということですが、よく小学校の庭にあったこの手のものが
戦後長い間無事だったなと驚きを感じずにはにいられません。
軍港の街舞鶴という土地柄のおかげでしょうか。
続く。