舞鶴訪問で見学した「赤れんが博物館」の続きです。
赤れんがの歴史についての写真データを無くしてしまったあいかわらずのわたしですが、
なぜかその中の「舞鶴工廠」についてのデータだけが残されていたことは、
日頃の海軍海自の知識研鑽に対するご褒美だったのではないかと、自分で自分を慰めています。
工廠関係の資料の中には、当時出版された書籍がありました。
左から
「聖将東郷 霊鑑三笠」
海軍大佐尾崎主税著、ということで東郷元帥を神格化して書いた海戦録。
東郷平八郎が聖将と言われていたのは有名ですが、「三笠」まで
霊感、じゃなくて霊艦と言われていたとは知りませんでした。
そういえば先日、東郷平八郎の曾孫で海自を退官されたばかりの人物(観艦式にも参加していた)
の講話を聞かせていただく機会があったのですが、その方によると、東郷家の子孫は
いまでも東郷会なる集まりを持ち、その偉業を公正に正しく伝えるために活動しているのだとか。
そのとき、
「東郷家の者は、東郷平八郎が指揮官だったから海戦に勝てたとは全く思っていない。
秋山(好古、真之)家の子孫と交流があるが、秋山家でも
秋山真之が参謀だったから勝てたということはないと考えているとのことだった」
とおっしゃったのが印象的でした。
しかしこれも、後年歴史を振り返って初めて言えることで、当時の日本人の総意は
「東郷元帥の神判断=丁字戦法がなくては皇国は荒廃を免れなかった」
というものだったのです。
もっともこの「丁字戦法」を編み出したのは東郷元帥ではなく秋山真之であり、
さらにその元になった「円戦法」というのを発案したのは、雅子妃殿下のひいお祖父さんであった
山屋他人大将の若い頃であったということですから、
「東郷(秋山)でなくてもあの海戦には勝てた」
というのはあながち遺族の「謙遜」などではなかったということもできます。
しかしほとんどの日本人にとって日露戦争の勝利自体が奇跡的な快挙で、
そのため真ん中にある
「参戦二十提督 日本海海戦を語る」
みたいな企画の書籍は、それこそ戦後何年にもわたって出版されていたのでしょう。
この本はなんと「日露戦争終結30周年記念企画」として東京日日新聞と
大阪毎日新聞から共同発行されています。
証言しているのは一連の作戦に参加した海軍の幹部で、その「円戦法」を発案した
秋山の先輩、山屋他人大将(やまや・たにん、皇太子妃雅子妃殿下の母方曾祖父)
佐藤鐵太郎中将、小笠原長生中将などです。
ちょっと気になったのでこれらの軍人について書いておきます。
右から二人目、佐藤鐵太郎(当時大佐)。
あらやだ、どうしてこんな男前なのかしら。渋くて素敵。
佐藤の左隣は伊地知彦次郎大将(当時少将)ですね。
佐藤大佐は日本海大戦で、ロシアの偽装転進を見破り、
意見具申したことで勝利に貢献しています。
海軍兵学校14期では鈴木貫太郎と同期。
「頭脳の佐藤」として四天王の一角だったとかで、ハンモックナンバーは4番でした。
こちら往年の俳優小笠原章二郎。
前述の小笠原長生中将の息子の一人です。(本人も普通にイケメンだった)
佐藤中将は小笠原中将の同級生で、小笠原の妹と結婚しています。
(同級生の妹と結婚というのは、終戦まで結構よくあるパターンだった模様)
息子の一人は映画監督(小笠原明峰)となって
映画プロダクションを作り、何本かの映画を残したのですが、日本海海戦を描いた
無声映画「撃滅」は、小笠原中将が軍令部参謀時代に原作を書いています。
さらにその影響か、小笠原の孫娘は戦後女優となったのですが、
牧和子
海軍中将で東郷元帥の側近だった軍人の孫が、いわゆる「ピンク」
「成人」映画専門のお色気女優となろうとは・・・・。
側近といえば、小笠原は現役時代東郷平八郎に心酔しており、そのあまり
「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」と海軍内で陰口を言われたほどで、
東郷元帥の死後もその文才を生かして本を著し、その神格化に努めた「忠義者」でしたが、
肝心の東郷元帥は小笠原を重用しつつも、軍縮問題について加藤寛治と懇談した際に、
「あの人は現役ではないから、こういう話に加えてはならない」
という発言を残しており、小笠原は戦後公開された加藤の手記によって
この事実を知ってショックを受けた、という話が伝わっています。
あんなに誠心誠意仕えた元帥は、俺のことを全く認めていなかったのか!
俺の海軍人生って、何だったの?
・・・・って寛治?いや、感じ?
ハンモックナンバーも後ろから数えたほうが早い(43人中39番)
小笠原が、鈴木貫太郎(大将)を含む同期6人の将官の一人まで出世したのは
東郷元帥の「番頭」だったから・・・とか周りには言われてたんだろうな。
写真一番右の書物は、大将12年に発行された「海軍読本」。
海軍下士官教育用の国語・一般教養の読本で、内容は日清日露戦争や、
皇室、楠木正成、吉田松陰などについての読み物が記されています。
「聖将東郷平八郎」とともに「霊艦」とまで言われてしまった「三笠」。
この写真は昭和11年著である「聖将東郷と霊艦三笠」掲載のものです。
戦艦三笠は日本海海戦勝利を象徴するものとなり、現在も全国に残る
東郷元帥の揮毫とともに全国に浸透しました。
ご存知のように「三笠」はその後記念艦となり、その時にはまだ生きていた東郷元帥が
祝辞を述べるなどしたのですが、負戦後まずソ連が「三笠」の破壊を主張し、それを免れても
米軍や当時の鉄商人などによって「三笠」は構造物を全て撤去され、水族館が
(キャバレーだったというのは都市伝説だったという話も)作られるなどの陵辱を受けます。
しかし、三笠は心ある日米の人々によって救われ、その姿を現在にとどめています。
その経緯について過去ログでお話ししておりますのでよかったらどうぞ。
「三笠」を救った人々
ところでもう一度このジオラマを出してきます。
この「赤れんが博物館」の、昔の姿がこれです。
元々は海軍の「魚形水雷庫」として、1903年に建設されました。
1903年というと?
これは間違いなく、1905年の日露戦争を見据えてそのために作られているのです。
鉄骨煉瓦造りの二階建てで、レンガは「フランス積み」という方法で組まれています。
一階には魚雷本体の保管台と調整・組み立てのための作業台、魚雷発射管があり、
床はご覧のようにレンガ敷きになっていました。
中央にトロッコのレールが敷かれているのがわかりますね。
画面中央上部から鎖が垂れ下がっていますが、これはハンギング(吊り)
のための鎖で二本あるレールから魚雷を二階にあげるために降ろされていました。
二階では部品が保管されており、調整や修理が行われていたようです。
舞鶴工廠で作られ、ここで保管・調整された魚雷。
日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅したのは、最終的には
執拗に撃ち込まれた水雷の威力にほかなりません。
5月27日から行われた水雷攻撃では、夜半6時間半にわたって、
計50本あまりの魚雷が発射され、そのうち6本が命中し致命傷を負わせています。
特に舞鶴所属の第4駆逐艦艦隊(鈴木貫太郎司令)の駆逐艦4隻は、
水雷で巡洋艦「ナヒーモフ」を、連繋機雷で戦艦「ナヴァリン」を沈没させ、
そして戦艦「シソイ・ヴェーリキー」を大破せしめました。
この写真は昭和47と比較的最近撮られたものですが、当時はこのように
「赤れんが記念館」となった魚形水雷庫(一番奥)以外にも、
大砲庫(一番右)、水雷庫(中央)がまだ残されていました。
使用もされていたと思うのですが、開発などで次々と取り壊されてしまい、
現在この写真で残っているのは魚形水雷庫だけになってしまいました。
このような模型がありましたが、「現在地」の札が立っているのが、上の写真の
一番奥の建物の辺りにあたります。
模型は、現在の舞鶴港周辺で、どのように海軍の遺跡が残されているかの説明。
手前の丘を上がっていくと平地に草を刈ったところがあり、わたしたちは
下の駐車場に停められなくてそこに車を置いた(ちなみに駐車料金要らず)のですが、
この模型によるとちょうどその部分の地下には
「第二次世界大戦末期建設の極秘司令部」
が残っていたんですね。
展示されていたこの絵画・・・・これかな?
こちら旧海軍第2船渠を建造している経過写真。
現在はジャパンマリンユナイテッドの第3ドックとして使用されています。
舞鶴に鎮守府が置かれたのは明治34年、1901年のことになります。
その年のうちに兵器廠と造船廠は発足されましたが、2年後、
二つの工廠は統合してここで「舞鶴工廠」が生まれました。
舞鶴工廠では主に駆逐艦と水雷の製造と修理が行われており、戦後、
巨大なインフラは民間の造船所に引き継がれて、舞鶴の発展を支えました。
こちらはジャパンマリンユナイテッドの2号ドック。
旧海軍で明治41年に築造された「第一船渠」は現役です。
現在JMUの第一機械工場として使われているここは、
海軍造船廠機械工場旋盤組立場
として明治36年に作られました。
その頃の建物なのにモダンなのは、アンドルー・カーネギーのカーネギー社鋼材で
アメリカンブリッジ社が設計施工を請け負ったものだからです。
旧舞鶴海軍造船廠発電場(明治39年築)
現在はやはりJMUの第二電気工場として稼働中。
横浜近郊に住んでおられる方は、もしかしたらこの光景に見覚えがあるかもしれません。
横浜は「馬車道」という地名が有名ですが、「汽車道」というのもあります。
JRの桜木町から港に向けて走っていた貨物支線の跡につけられた地名です。
廃線となってからは博覧会の一時を除いて放置されていたのですが、1997年、
その跡を利用してプロムナードが作られ、今日市民の散歩道となっています。
当時川に架かっていたこの第1橋梁、そして第2橋梁を設計したのが、
「アメリカンブリッジ・カンパニー」(略称ABC)。
1907年と言いますから、舞鶴に一連の建物を建築し終わり、日露戦争後の
「勝って兜の緒を締めよ」が流行っていた?ころということになるでしょうか。
同社製品は明治30年代、多く日本に輸入されて現在でもその姿を見ることができます。
最後にアメリカンブリッジ社の手がけた有名な橋と建物を列記します。
こんなすごい会社だったとは・・・。
●サンフランシスコ−オークランド・ベイブリッジ
など、アメリカの「5橋」すべて
●アメリカ最長のコンクリート吊り橋・サンシャインスカイウェイ橋
●世界最長のアーチ橋上位三つ全て・ニューリバー渓谷橋など
●世界最長の連続トラス橋・アストリア・メグラー橋
●余部橋梁(日本)
●シアーズタワー
●エンパイアステートビル
●クライスラービル
●ハンコックタワー
●ウォルトディズニー・ワールド・リゾート
続く。